これはチョコの話。

 甘くて苦い、チョコの話だ。

 救いようの無い、馬鹿な話だ。







『視線の先には……』



 ただ一度の、本気の恋だった。

 たった二十年しか生きていないけれど、矮小な自分の全てを賭けて愛せる人と出会うこ

とが出来た。ただ、それが幸せだった。

 他の人から見ればそんな事は無いと言われるだろう。今だけの感情であって、時が経て

ばそんな思いは薄れて、新たな出会いに向き合えると言われるのだろう。

 だが、過去が、未来がどうであっても僕には関係ない。

 今、ここにある幸せを否定することは誰にもできない。

 できない、はずだった。

「あなたといるのはもう嫌なの」

 ただ一人、僕の幸せを否定できる女性が言った言葉に、僕は体を硬直させた。

 彼女は辛らつな言葉を放って硬直している僕の横をすり抜けるように部屋を出て行く。

 僕は呆然としながらもどこかで冷静だったからか、彼女が部屋の外で心の底から暗く重

い感情を吐き出したようなため息が聞こえてくる。

 もちろんそれは幻聴だろう。

 部屋と外を隔てる壁はしっかりとできていて、とても彼女が出すような音が聞こえるは

ずがない。それが分かっているからこそ、彼女の事を諦めきれない事がリアルに僕の中に

入ってきた。

 泣きたい。

 大声を上げてその場に泣き崩れたい。

 でも、僕の体は何の反応もせずに、ただその場に立っているだけだった。

 どれだけの時間が経ったのか分からない。一分なのか十分なのか。

 内からくる衝動に突き動かされて、ようやく僕は部屋を飛び出した。つけてあった腕時

計を見るとまだ十分も経っていないことが分かった。

 まだ遠くへは行っていない。

 まだ諦めるわけにはいかない。

 納得ができる答えが欲しかった。

 自分が捨てられるだけの理由が欲しかった。

 でなければ、僕は壊れてしまうかもしれない。





 外は突き抜けるような青空だった。

 二月の青空は冷気を直接地表に運び、僕の体は冷たい風に串刺しにされる。道路に積も

る雪は道路をちゃんと踏みしめさせてはくれず、上手く走ることができなかった。

 いつも以上に体から汗が流れるが、寒さは火照った僕の体を冷ましていく。

 しかし、冷えていく途中で更に体内から放出される熱のために体は熱くなった。

 走り続けることは苦痛だった。

 でも、立ち止まってしまうことはより苦痛だった。

 彼女を見つけることができない。これだけ走っても見つけることができない。

 彼女の家も、近所の公園も。

 心当たりのある場所を探しても、彼女を見つけることはできなかった。

 やがて、僕の中に一つの想いが生まれる。

(何もかもを置き去りにして、遠くへと走り抜けたい……)

 僕の体を突き動かすもの、それは――死への想いだった。

 目に入ってくる汗さえも拭わず、必死になって走り続ける。やがて目の前に僕が通う大

学が見えてきた。僕はわき目も振らずに正面から入り、ある場所を目指した。

 そう、まだ訪れていなかった、彼女との思い出の場所。

 それは彼女と出会った場所。

 彼女との、始まりの場所。

 衝撃を受けて痛む膝に悪態をつきながら、僕は階段を駆け上がる。

 そして辿り着いた先にあった屋上への扉を、動悸する心臓を押さえつけて開けた。

 途端に吹き込んでくる風。

 僕はそのまま足を踏み出した。

 屋上はそこかしこに雪が積もり、もうすぐ一時閉鎖されるだろう。その前に僕は自分の

人生に幕を下ろすのだ。

 僕から去った彼女に、僕の存在を忘れてほしくないから。

 彼女との思い出の場所から僕は飛び立とう。

 そうすれば彼女の中に僕の存在が永遠に残り続けるに違いない……。

 視線の先にあるフェンスは、都合よく壊れていた。そこには人ひとりくぐれるくらいの

穴が開いている。

 僕は穴をくぐり、屋上の縁へと脚をかけた。いつの間にか閉じていた眼を、ゆっくりと

開ける。その瞬間だった。

「綺麗だ……」

 そこから見た景色は言い表せないほど綺麗だった。

 青空と街並みが一つの景色に収まっている。今まで見た事がないような景色。

「は……ははは……」

 いつしか僕は笑い声を上げていた。笑いながら涙を流していた。

 嬉しいような、悲しいような、不思議な気分。

 それは僕の中にあった澱みをどこかに押し流してしまったようだ。

 正に一瞬の出来事。

 今まで自分の中にあったいろいろな想いは、全て消えてしまった。何もかもどうでもよ

くなってしまった。

「はははははは……」

 僕は笑っていた。

 涙を流しながら笑っていた。





 どこをどう歩いたのか良くは覚えてなかった。

 いつの間にか辺りは夕焼けの赤に染まり、僕は疲れきった体を引きずって家に向かって

いた。昼間の時、自分の部屋から出てきた時とは気分は全く違っている。

 この夕暮れに染まった街並みも綺麗なのだろう。部屋に戻ったらまた外を眺めてみよう

と思った。けして眺めが良いというわけではないけれども。

 あの瞬間から僕の目に貼ってあった曇り硝子が砕け散ったかのように、周りが綺麗に見

えた。だからなのだろうか。

 僕のマンションの前に佇んでいる彼女の姿がかなり離れた場所から見えた。

 僕は特になんの感情もなく彼女の元に近づいていく。彼女のすぐ傍まで近づいて、よう

やく彼女は僕が歩いてくることに気付いたようだ。少し俯き加減で彼女も僕へと歩いてく

る。そして、二人の距離が再接近して止まった。

 彼女の口から言葉が放たれる。

 僕は彼女が戻ってきてくれるのだと思って、とても嬉しくなった。この世の中に神様は

いるんだと本気で思った。

「あなたの部屋にある私の荷物、明日取りに来るから」

 彼女の言葉。

 それは紛れも無い現実の言葉。

 ただ、それだけの言葉を言うために彼女は待っていたのだろうか。

 あまりの言葉に動けない僕の横を、彼女は通り過ぎて歩いて行く。まるで朝の再現かの

ようなこの状況にも、僕は特に何の感情もなく彼女の後姿を見ていた。

 少し歩いた先で、彼女は僕のほうを振り返った。

「これ、いらないからあげる」

 彼女の手から何かが放り投げられる。それはちょうど僕の胸に当たり、慌てて僕は落ち

ていくそれを手に取った。

 視線を戻すと、彼女はまた背を向けて歩いていった。もうあの顔が僕を振り返ることは

無いんだと、完全に理解している僕がいる。

(そう言えば今日はバレンタインデーだったんだな)

 手の中には彼女が投げてよこしたチョコ。きちんと包装されて、リボンが巻きつけてあ

る。そしてリボンに挟まって手紙が。

 手紙を見るとそこには一言。



『I LOVE YOU』



 ……ひどいジョークだと思う。

 でもチョコには罪は無い。

 視線の先には彼女の後姿がまだあった。すぐに道を横に曲がり、見えなくなると、僕は

部屋へと続く階段を上がろうと足を踏み出した。

 部屋に戻ったらまず食べさせてもらおう。疲れた体には甘い物が一番なんだから。





 これはチョコの話。

 甘くて苦い、チョコの話だ。

 救いようの無い、馬鹿な話だ。



 でも、やっぱりチョコは甘い物なのだった。

 いくら現実が苦くても。



『完』




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