蕎麦の匂いをかぎながら、鈴木匡はコタツに蹲っていた。今年の冬は寒い。昨年が温暖化の影響らしき高温だったことで、完全に身体の耐性がなくなっていた。元々寒さに慣れている北国の人間ではないのだ。些細なことで元に戻る。
結局、今のようにコタツで丸くなっていた。大学生も小学生もお父さんもお母さんも変わらない。
「寒い。早く年越し蕎麦食べて神社いこう」
蕎麦を作っている友に声をかけるが、相手は返事をすることなく鍋を覗いていた。これが彼女という存在だったなら匡も心はサマービーチで日光浴をしているほどの熱さを持てるのだが、あいにく同い年の男。かなりの腐れ縁の剛の者だった。
「よし、出来たぞ匡」
煮立った鍋を持ってきた相手を見て、匡は鍋しきをコタツの真ん中へと置く。そこに下ろされる、湯気を上げる鍋。おいしそうに蕎麦がたゆたっていた。
「おお、やっぱり年越しは年越し蕎麦だよな。海外でとかふざけてるよな」
「匡も分かってるじゃないか。ご両親にもそう伝えてやれ!」
「帰ってきたらな」
久しぶりに二人でラブラブきゃっきゃウフフしてくる、と言って家を出て行く二人を思い出し、匡は被りを振った。まだ弟は辛うじて出来る年齢だ。十ヶ月と十日後が悩みの種となった。
「年越しに年越し蕎麦を食べる。これはもう俺の信念といってもいい。ドイツ語だとGlaube!」
「英語だとBeliefな。そこまでなものか?」
器に自分で移し、別に作っていた麺つゆを注ぐ。
「そうさ! 日本人の魂に刷り込まれた、まさに魂の故郷! それが年越し蕎麦だ!」
そう言ってその男、高見士郎は空に箸を掲げる。そこから右腕を箸と共に急降下させて蕎麦を喰らい始めた。その姿、まさに猛獣。荒れ狂う海を一直線で駆け抜けていく魚のような雄雄しさを匡は純粋に凄いと思った。姿はどうあれ、全力を尽くす姿は素晴らしいと匡は身体の震えを隠しきれない。その中で、一つだけ気になって声をかける。
「士郎。息してるか?」
匡の言葉に反応してか、士郎はどんぶりから顔を上げた。
鼻から数本蕎麦が伸びていて、ちゅるんと跳ねた。
「いや、お前もう少し丁寧に食べろよ」
「それが俺の信念!」
「何でもかんでも信念って使えばいいってわけじゃないだろ!」
周囲に飛びちる麺つゆにはさすがの匡も憤怒。自分の意見を突きつけてみる。
「自分を貫き通すのはな、迷惑かければ単なる我侭だろうが!」
「その通りだ」
あっけなく肯定されて、匡は二の句が告げなくなった。その隙を突いてか士郎は決定打を放つ。
「本当の信念とは、自分や相手が嫌がることを嫌がらないことに昇華させる強い理念のことだ。信念に従ってやらないということは単純に我侭過ぎない!」
士郎はそう言って蕎麦の残りをすする。鼻から。
匡はその様子を見ながら先ほどの士郎の言葉を繰り返す。
結果。
「なら、お前って我侭だよな」
「うん」
匡の怒鳴り声が響いた。
◇ ◆ ◇
テレビの中から聞こえてくる除夜の鐘を、匡と士郎は黙って聞いていた。
一つ、また一つと明日への足音が彼らの聞こえる。聞くたびに身体から何かが抜けていくように匡は思えてしまう。
「シンネンのシンネンは何にしよう」
士郎の言葉に匡はちょっとだけ考える。脳内で「新年の信念は何にしよう」と変換されたところでようやく頭が回りだす。
「お前は?」
「卒論を片付けて、夏の北海道でグラススキーだな」
大学三年である彼らは年を越せばもう四年。卒業論文という大学生の一大イベントが待っている。今までとは違い拘束時間も増え、就職か大学院へと進むかといろいろ道が分かれていく。
「そうだな。信念を見つけるか」
まだ信念と呼べるような代物を匡自身、持っていないと思っている。だからこそ、見つけることを信念にしてもいいのではないか。
「俺は信念を見つけることを、信念にする」
士郎へと力強く宣言するとコタツに突っ伏して寝ていた。完全に拍子抜けして倒れた匡は、天井のしみを数えながら思う。
(来年からは、どこに行くかねぇ)
就職活動をするならば年明けからというのも分かっている。いきなり道を決めなければならない修羅場を迎える。
それでも。
(信念に従って、行動しようか)
すなわち、自分の信念を見つけるための行動。
「なんでもやってみよう」
蕎麦の満腹感がちょうどやってきて、匡の瞼を閉じる。
除夜の鐘が鳴り終わったところで、匡の意識は完全に途切れる。
今年も、よろしく。
意識を無くす前の最後の言葉が、士郎に届いたかは神のみぞ知る。
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