『サイレント・ノンフィクション』





 背中を強く叩かれて、明はまどろみから覚めた。

 倦怠感を押しのけて身体を起こし、眼を開けると視界がぼやける。何度か瞬きをしてよ

うやく焦点を合わせると、正面の窓に映る自分の姿を見える。

 横に流れていく外の景色を見通すガラスは、外の暗さと車内の明かりに挟まれて、異な

る景色を一つの場所へ映し出していた。

 少しずつブレーキがかかり、徐々に速度が落ちて列車が止まる。アナウンスが駅名を告

げて初めて、終点のひとつ前だと彼は知る。深く眠っていても乗り過ごすことが無いのが

終点の強みであり、今日の疲れを引きずってしまうのが列車の弱みだろう。所属するサー

クルで身体に染み込んだ疲れが、明の肌を染めている。

 耳の奥に入り込んでくる静寂をただ受け入れて明はじっとしていた。

 十数秒経つと、また車体が痙攣して走り出す。

 明の一日が終わる、終幕の始まりまで残り五分ほどの距離だった。

 軽く上下に明を揺らしながら、静かに列車は進んでいく。明はふと思いつき、座席から

顔を周囲へと向けた。



 誰も、いなかった。



 時間は夜の十一時にさしかかろうとしている。この時間なら人はいつも少ないけれど、

一車両に誰もいなくなるというのは明にとって初めての体験だった。隣の車両に続くドア

にある窓から覗くと、横向きの席で頭をふらつかせている女性がいる。おそらくその隣に

も何人かいるに違いない。

 明がいる車両一つが連なる列車の中で孤立しているような、不思議な感覚。

 不安あるいは興奮。

 定義できない感情に即されるように、明はもう一度車両を見回す。

 あるのは先ほどと変わらない光景。変わらない空気。

 座席から飛び出ている頭部も見えない。

 誰かがいる気配も感じ取れない。

 明が感じるのは列車が奏でる鼓動だけだった。

 鉄のレールを駆けて生まれる鼓動が、座っている明を優しく包み込む。

 夜の気配も手伝ってか、明は澄み切った空気の中にいるように感じて目を閉じた。

 背もたれに身体を預け、弛緩する。

 アナウンスが終点が近いことを告げ、列車も徐々に停止準備に入った。

 暖かい暗闇と無駄な音が存在しない世界に包まれ、明は生じた感覚にため息をつく。

 普段では耳をかたむけることもない無機物の意識に触れているような、不思議な感覚が

彼自身を空間に広げていく。

 列車が明。明が列車。

 車両全体に横たわるような錯覚に包まれながら明は思う。

 体力もほとんどなくなり、リラックスしてるからこそ感じるものなのかもしれないと。

 いつもなら絶対に気づかないもの。

 しかし。

 すぐ隣に、傍にあるもの。



 急ぎ流れる日常の中にいつも横たわる、優しい時間――



「――いって」

 脱力しきった明を起こすように車体が大きく揺れた。その衝撃で窓枠に頭をぶつけ、軽

い音と共に声が洩れる。明の小さな呟きも、列車が止まる音にかき消される。

 これからまた家に帰る明に活を入れるように、耳障りな音を響かせて列車は止まった。

空気が抜ける音と共にドアが開き、各車両にいた乗客も足早にホームを過ぎていく。

 だが明は座ったままで、視界を通り過ぎていく乗客を見送る。急に終わってしまった感

覚の名残をかき集めるように、静かに見送る。

 数えるほどしかいない乗客全てを見送って、ようやく頭も身体も起きる決意をしたらし

く、明はゆっくりと立ち上がった。

 完全に立ち上がった時、明の目の端に何かが映る。

(…………?)

 顔を向けると、そこには女性が一人立っていた。明を見て感じた驚きを隠せなかったの

か、口を少し開けて硬直している。

 そして、明も同じように驚きを隠せてはいなかった。誰もいないと確信していたのに、

列車が気配をかき消すほど、女性もまた明のように空間に調和していたのだろうか。

 女性は明と数秒向かい合った後、そそくさと車両から出て行った。ブーツが床を踏む音

を響かせて慌しく出て行く女性。その背中を、明は無音の空間に包まれたまま見送る。

 すぐに次の運行のために慌しくなるだろう前の、少しだけある優しい時間。

 静けさの中、明は想像する。

 最後まで気づかなかったあの女性は、同じ思いをしたのだろうかと。

 包まれている空間に溶け込むような不思議な感覚に彩られたのかと。

 普段味わうことのない不思議な感覚を、誰とも知らない他人と共有する。

 それは小さな、それでも暖かな光を明の心に灯していた。



「さて、帰るか」



 そして、明は沈黙に足音を刻む。

 一日の終わりへ、明日への始まりへと足音を、刻む。



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