空から降り注ぐ陽光は、一時期の強さを持っていなかった。それでも気温は三十度後半で、蝉も街路樹からけたたましい声を上げている。残暑なのか、まだまだ終わらないのか判断に困る空の下、由紀はゴールデンレトリバーに連れられて近所の公園に入っていた。目指すのは大きな一本の木。その下に備え付けられたベンチだ。
首輪から繋がっていた紐から手を離すと犬は勝手気ままに公園内を走り出した。ブランコとシーソー。幼稚園児が三人入れば身動き取れなくなるくらいの砂場しかない、小さな公園には誰もいなかった。由紀は寂れた景色にどことなく安堵を抱いてベンチへと腰を下ろした。
一つため息をつき、膝の上に両肘を載せて掌で自分の顔を支える。
夏休みの宿題も終えて、残るは一日のみ。明日からまた学校が始まる。なまじ一月以上休み期間があったために、体内時計を直す作業がしばらくかかりそうだった。
(北海道とかは八月半ばで終わるんだっけ。七月から三週間もあれば十分よね。宿題も少ないし)
思考を遮るのは蝉の声。蝉時雨とはよく言ったものだ、と由紀は声がする先を見た。自分の後ろの木。街路樹と比べて一回りは大きい。きっと多くの蝉がそこにいるのだろう。
(一週間くらいで死んじゃうのに、よく働くわね)
何故鳴いているのか。誰かが生きた証を残すんだとかカッコいいことを言っていたと由紀は思い出す。小さい時に、母親からだったのか父親からだったのか。あるいは祖母祖父か。本当なのだとしたら、ご苦労様だと言いたかった。たった一週間のためにたくさん鳴くだなんて。どんな気持ちなんだろうと考えた時もあったが、小学校から中学に変わる頃にはそんな考えも棄てていた。
所詮、本能に従って鳴いているだけなのだと。
「ふぁ、わぁあ……」
今度は自分の欠伸で思考が中断する。宿題を終わらせるために昨日無理して深夜一時まで起きていた由紀には、昼間の太陽は眩しく暖かかった。背もたれに身体を預ければ、眠気が襲ってくるのも早かった。
ぼんやりと走り回る飼い犬を見たまま、意識は闇に消えようとしていた。
その時だった。
『―――――て』
声が聞こえた。聞き間違えようのない、人間の声。由紀は欠伸で開いた口を見られたのかと慌てて周囲を見回す。しかし、誰もいない。元々ベンチがある位置は公園の隅。後ろにはコンクリートの壁があり、向こう側は民家だ。だとすれば、そこから漏れた声なのだろうか。
(なんだろ。もっと近くで聞こえた、ような)
―――て
また聞こえた。今度は音を持った言葉ではなく、自分だけに聞こえたかのような気がする。実際、他人に対しては吼えるはずの飼い犬は由紀に構わず駆け回っている。民家からの声とも違う。声の下が後ろではなく、どちらかというと上だったからだ。
「なに?」
心細さを紛らわせるために呟きながら見上げる。そこにあるのは大きな木。そして蝉達。
『たすけて!』
三度目は、はっきりと由紀の耳をつんざいた。耳元で怒鳴られたような音量に顔をしかめて耳を塞ぐ。しかし声は止まらない。
『助けてくれ!』
『死にたくない!』
『怖い! 怖い! 怖い!』
『怖い怖い怖い怖い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ怖い怖い嫌だ嫌だ怖い怖い死にたくない止めてくれ!』
『連れて行かないで!』『嫌だ嫌だ嫌だ!』『怖い怖い怖い!』
嫌怖い嫌怖い嫌怖い怖い止めて死死死死死死ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
言葉に込められた恐怖。言葉を超えて脳に直接浴びせられる断末魔。
由紀はあまりのことにその場から動くことが出来なかった。呪詛の言葉を放っている存在は間違いなく木の上にいる。その正体もまた、蝉だと分かった。
「蝉が、鳴いてる?」
激しい鳴き声の洪水にかき消される由紀の言葉。先ほどまで響いていた蝉の声はいつの間にか人語に変わり、死へと向かわねばならない者の絶望を歌う。数年間地中に住まい、やっと出てきても一週間ほどで死ぬ。何のために生まれてきたのかを叫び、回答を受け取ることなく落ちていく。
「あ、あああ」
一匹。また一匹と木の上から地面に落ちていく。二匹落ちれば次は四匹。四匹が落ちれば次は八匹。同時に落ちる量が増え、由紀の肩やベンチにも積もっていく。大量の蝉の死骸。死骸が増えると共に声は少なくなっていく。
『嫌だぁああ!』
『ひぃい!』
『力が抜け――』
『やぁだぁ――』
体中が痙攣する。その場から逃げたいのに、大量の蝉に恐れて身体が動かない。実体が由紀の身体を、断末魔が精神を犯していく。陵辱していく。
そして、最後の一匹が落ちて。
見上げていた由紀の口の中へと入っていった。
「い……やぁああああああああああああああ!」
蝉は湿った木の味がした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「――ぁあ!」
起き上がった反動で由紀はベンチから落ちた。眼前に迫る地面に両腕をクロスさせて防御する。結果、衝撃が来たが両肘に擦り傷が出来る程度に終わる。だがショックに身体は動かず、うつ伏せに倒れたまま顔だけを上げた。
「ゆ、夢? 夢?」
自分を安心させるために何度も確認する。実際、溢れかえっていたはずの死骸はどこにもない。心臓の動悸が治まらず息を荒げていると、先ほどまで走り回っていた飼い犬が駆け寄り、頬を舐めた。現実を感じることが出来る滑り。先ほど口の中に広がった不快感を押し流していく。
「ゴンちゃん」
「ワン!」
尻尾を振り、十分遊んだからもう帰ろうと言わんばかりに催促してくる飼い犬を前に、ようやく由紀は鼓動が落ち着いた。流れ落ちた汗は服に吸い込まれて肌寒さが身体を震わせたが、もう恐怖はなくなっていた。
「疲れてただけよね。帰ろうか」
身体の重さに顔をしかめながらも、由紀は何とか立ち上がった。膝や服についた砂を手で払い、背伸びをする。変に固まっていた筋肉が綻んで、血の巡りが復活したところで動けるようになる。
「じゃ、行こうか」
そう言って歩き出そうとした時、由紀の視界を何かが過ぎった。足を止めてもう一度周りをじっくりと見回してみると、由紀が座っていたベンチのすぐそばの地面に黒い影が一つ目に止まる。
蝉の死骸だった。腹を見せて足をコンパクトにまとめた、理由の分からない格好。亡骸は由紀に悪夢を思い出させ、顔をしかめたが飼い犬に待つように言ってから近づいていく。
「死にたくなかったんだ、よね?」
答えるわけもない亡骸を手ですくい、木の根元へと持っていく。埋める道具はないため、ただ置くだけ。それでも元の場所よりは踏まれたりする心配はないだろう。
「じゃあね。ごめんね」
どうして謝るのか自分でも分からずに、由紀は呟いてから早足で去っていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
声が飛んでいく。
誰にも届くことのない、声が。
『助けて』
『助けて』『死にたくない……』
『助けて』『死にたくない……』『怖い、怖い、怖い……』
『助けて』『死にたくない……』『怖い、怖い、怖い……』『あ、ああ……あああ……』
蝉時雨が今日も残暑の空に消えていく。
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