セクハライン

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「今日からこちらの課に配属になりました、田中三郎です!」
 張りのある声を受けとめたのは老若男女問わぬ裸体だった。ブリーフ一枚の課長。少しよれたトランクスの中年。ボクサーパンツを穿いた若者。どこの娼婦かと見間違えそうな下着を身に着けた四十代の女性からまだ学生らしさが残る、白い下着の女の子まで。田中の前に広がった空間は、生の人間に溢れていた。
(この職場、なんなんだろう)
 とりあえず元気良く挨拶をしてみたが、田中は自分の状況に戸惑っていた。無論、田中も全裸。正確には黄色いトランクス一枚の姿だ。腹筋は割れもしていないが脂肪もそこまでついていない。身長に対して脂肪率は十数パーセントと悪くない数値。
 人の前に自分の裸を曝すことには抵抗がないわけがない。しかし、周りが全く気にしてないのなら仕方が無かった。ここで恥ずかしいとでも言えば空気が読めない男。職場の和を乱す男として大切な社会人の第一歩を踏み外すことになる。正に、郷に入れば郷に従え。
 田中が今いる場所は、勤務着が筋肉を覆う皮と局部を隠す下着なのだ。
「挨拶も終わったところで早速仕事に入りましょう。今日も一日よろしくお願いします」
『よろしくお願いします!』
 全員が課長の後に唱和して各デスクに散らばっていく。
 田中もあてがわれた席に座る。トランクスと尻の皮しか防護がない尻に椅子のクッションがこそばゆい。固くごわごわしているため『こそ痛い』とでも言うべき微妙な状態になった。
「田中君。これからよろしくね」
 椅子の痛みに汚れた田中の顔をふき取ったのは、隣に座った人物。黒いブラとショーツを身に着けた女性の可憐さだった。
 長い髪をうなじの辺りで縛り、更に先はくるくると束ねている。胸のふくらみはタートルネックを着れば似合うだろう柔らかい曲線を描き、背中から腰、そして足まで整った姿勢を田中へと見せる。にこりと向けられた微笑に田中は舞い上がる。
(っわ……凄い綺麗な人だなぁ。俺、ここに配属されて良かったよ)
 挨拶をしてから改めて周囲を見回す。
 仕事をする人は何故か服を着ていない。下着を身に着けている人もいれば、本当に全裸の人もいる。男性は男性器を。女性も女性器や乳房をさらけ出し、特に羞恥もなく自らの業務をこなしていく。キーボードタッチはよどみなく課を包み、遥か彼方まで音の洪水が昇っていくようだ。男の裸は願い下げだが、女性の裸は大歓迎。でもここまで羞恥心なくさらけ出されると逆にドキドキしている自分が恥ずかしくなる。
(てか、そもそも本当に裸なのか? 俺が錯覚してるだけじゃないのか?)
 自分の行動を思い出す。二ヶ月の新人研修を終えて遂に職場へと乗り出した初日。それが今日。支店に辿りつき受付で記入を済ませ、担当課長に連れられて更衣室へと入った。そこで「脱げ」とか「いい肉体だ」とか「今度岩盤浴にいかないか」など語られ、現在に至る自分がいた。
(これは、本当だ)
 本当に周りは裸なのだ。右も左も分からない職場。そこは、業務時間中は裸身をむき出しにして全力で仕事に打ち込む修羅の場所。それがポツリとフロアの一箇所にある。自分の所属する課の一つ隣の机にはぴしっと黒いスーツに身を包んだ男性女性が座っている。
 田中の課は、まるで砂漠の真ん中にあるオアシスのごとく異質な存在だった。
「分からないことがあったらなんでも聞いてね。早く仕事を覚えてもらって一人でできるように。私は鈴木マリアよ」
「はい。よろしく、お願いします」
 田中は目線をそらそうとしても、マリアの胸元から目が離れなかった。田中瞳にはその単体戦闘力はG。上から七番目のカップ。正にG線上のマリア。
 田中の視線に気づいたからか、マリアは脇を締めて谷間を深める。
「どうしたの? そんな顔して」
「えーっと」
 明らかに誘っている。胸の谷間に向けて感想を言えと。その意図を感じても田中は最後の一線を守っていた。職場に着いた初日に変なことは出来ない。
「あの、可愛い下着ですね」
 無難な言葉だった。髪形や服を褒める時と同じように、豊満な胸の誘惑に負けずに言い切った。
 だが。
「田中君。それって、セクハラよ?」
 マリアはそう言って自分のパソコンへと向き直った。横目で見ながら「まずは――」と業務を説明し始めた。
 慌ててパソコンのメモ帳を開き記入していく田中。その心はしかし、荒れ狂う海の中でぽつんと浮かんだ島に手をかけているかのごとく寂しい。
(明らかに、この課自体がセクハラじゃないのか……?)
 そんな疑問を抱えて、田中の仕事初日は始まった。


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