『成長の印』





 太陽の光が差し込む部屋の中に引き出された私の前へ、影が差す。壁になっている男は

拳を片方ずつ包み込み、指を鳴らす。その後に両手指を交差させて引き伸ばし、更に骨は

鳴り響いた。穏やかな陽気に包まれた朝に似つかわしくない闘気を相手は発散していたが、

好きなようにしてくれればいい。

 それは儀式であり、これから始まる死闘への決意表明でもあった。私は過去に対峙した

時と同じように彼を静かに見守っていた。四十代半ばに達して徐々に後頭部が禿げてきた

と嘆いていたあの父親が、目の前では戦う男の顔になっている。いつも母親の尻に引かれ

ていた情けない姿は全く想像できない。男はやる時にはやるもんなんだと悟る。

「ふぅ……今日こそは勝つ」

 上着を脱ぎ、シャツなのに腕まくりの動作。めくる対象はない。掌が滑った箇所の筋肉

を強調するも、そんなに盛り上がらない。だが、ある程度特訓はしていたらしい。最初に

私をここから解き放とうとした時は全く歯が立たなかったけど、今回は善戦……あるいは

勝利してくれるだろう、と思う。

「お前に敗れて三日。あの屈辱に耐えてきた俺に、もう恐れる物など何もない!」

 声高らかに指を突きつけてくる。その指を見ながらぼんやりと思う。

 本当に、勝ってくれるならどれだけいいだろうか。

 私は結局、明日への踏み台でしかないわけで。私を乗り越えていってくれることこそが、

私自身に取っても、おそらく彼にとっても最上の喜びなわけで。今の、宙ぶらりんな状態

が私には一番辛いのだ。彼が私に勝つことで、私は自由になれるし、彼も満足するはずだ。

そうすれば私は、生きながら最後の時まで至福の時を過ごせるだろう。

 早く私を今から解放して欲しいと切に願う。

「ふっ! ほっ! ほわたぁああ!」

 なにやら奇声を上げながら正拳突きを繰り出している父親を見て、やっぱり不安になっ

た。もし今日も破れるとなれば、また現状が続いてしまう。そうなればストレスも溜まる

し、私は内側から腐っていくだろう。自由への狂おしいまでの欲求が少しでも足しになれ

ばいいのだが、残念ながら私の生殺与奪は、父親が私を縛る鎖を断ち切れるかにかかって

いる。

「準備運動完了……ふしゅぅううううう」

 わざわざ構えまでつけて、父親は強そうに見える息を吐いた。シャツはうっすらと汗が

滲んでいて、対決前にもう疲れてるんじゃないかと不安になる。でもそんなことを思って

いる内に、彼は私へと一気に詰め寄り、自由への橋を掛け始めた。

「ふんっ! ――ぅぁあうあああああぁっ!」

 急激な圧力。拘束具がきしむ音が心地よく、私は生まれる快楽へと身を委ねる。解放さ

れた後の世界と貢献を想像して心が躍る。

 ああ、生まれてきて良かった! と思える楽しい人生が新しく始まるのだ。

「はぐぅういいいいいい……ぬぐぅおおおおおおお――ほぅふお!?」

 そんな楽しい想像も、父親の声に現れた苦しみにかき消された。

 父親のこめかみに血管が浮き出す。腕も限界以上の過負荷がかかっているらしい。あと

数秒しか、今のパワーは出せないだろう。でも私を縛りつける鎖は、伸ばされただけで千

切れるまでは行かなかった。微かな期待を込めるけれども、ついに力は弱まり、父親は私

から離れた。後ろにはどうやらソファがあったらしく、どさっと大きな音を立ててそこに

収まった。

 両手を振りながら「ふぅ」と一息入れる。一瞬でどれだけのカロリーを消費したのか分

からないが、汗だくになった彼を見て何ともいえない悲しさが生まれた。

「やるじゃないか……」

 三日前。初めて私の前に現れた彼が言った言葉。

 同じことを繰り返し、彼は再び私の前から消えるのだろうか?

 そして、私はまた窮屈な日々を味あわなければいけないのだろうか?

 ……お願いだ。誰でもいいから、私を解放して欲しい! 自由にして欲しい!

「何やってるの父さん?」

 不意に声がして、私は持ち上げられた。

 そのままカポッ、と音がして、外気が私に触れる。

 解放……された? 私は、自由になったのか?

 余りにもあっけない幕切れに、私も、そして父親さえも呆気に取られていた。父親の視

線は私を持つ人物――息子に向けられている。

「……ふぅわ。あれ? 母さんいないの?」

 起き抜けなのか、少し寝癖と眠気が残っているらしい息子。私を元々置かれていた場所

――居間のテーブルへと戻し、キッチンに入っていく。

「……ああ。朝から奥様方とテニスらしい」

「ふーん。ならちょうどいいね。トースト食べようか」

 平然と息子はトーストを探し当て、焼き始めた。そのまま台所に残る息子を眼で追って

いた父親だったが、もう一度ソファに腰を下ろすと蓋が開いた私を見て微笑む。その笑み

は嬉しさと悲しさが入り混じった、何とも複雑な物だ。

「息子の成長も嬉しいもんだな」

 そうだな。

 同意した声が聞こえたか分からないが、父親は更に破顔する。その顔を見ると私も嬉し

くなり、優しい気持ちが身体全体へと満ちる気がする。



 疲れた身体をこのイチゴの甘味で是非、癒して欲しいと願う。





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