『三重奏』





 もう少しで、日が沈む。

 はるか遠くに見える、太陽の沈む場所。間にいくつもの建物が並んでいるけれど、夜に

包まれて輪郭が消えていく茜色が見える。

 昼の躍動した空気から、夜の静謐さを持つそれへと変わる時間。

 昼夜の境界線上。

 今日も僕は、ここに立っている。

「♪はぁ〜愛〜さらば〜♪」

 僕がいる橋。その、一つ向こうにかかる橋。距離にして十メートルというところ。

 いつものように歌うたいがいた。

 外見からして六十代の男。恰幅の良い腹と丸い顔がどこか微笑ましい。

 歌い始めと同時に、僕は自分が立つ橋の手すりに体を預けた。彼の声を背中で受け止め

る形になる。

 彼は犬の散歩の途中にいつもあの場所にとどまり、人の視線も気にせず自慢の美声を披

露する。彼がいる場所は僕のいる橋とは違って車や人の通りが特に多いから、狙って歌っ

ているのかもしれない。だが、通り過ぎる人々は浮かぶ嘲笑を隠そうともしない。

 彼の歌は音が外れているわけではない。

 でも強弱がない。抑揚がほとんどない。

 ただ、声はいい。声楽でも習っていたんだろうかと思うくらいに。

 彼は歌い続ける。何の歌なんだろうか。

 最近はいつも聞いているんだけれど、僕の知ってるものではない。

 だから僕は耳をすませる。張りのあるバリトンが耳に心地よく、目を閉じて聞いている

と自然と体が揺れた。

 いつも同じ歌。演歌のようでいてポップスのバラードのようでもある。不思議な歌に魅

入られて、僕は鼻歌を紡ぐ。

「♪お前のために〜俺が〜いるのさ〜♪」

 歌はクライマックスに入り、それまで強かった声が更に大きくなる。どこから声を出し

ているんだろう? 僕は鼻歌で彼の主旋律をなぞっていたけれど、不意に思いついて音を

外した。彼の歌う音よりも少しだけ音程を下げた。

 しっかりとした主旋律に添えるように、旋律を紡ぐ。

 僕の鼻歌と彼の声。二種の音符が融合する。単音ではけして出せない音色が生まれ、耳

から伝わった衝撃は僕の身体を歓喜で包んだ。

 彼の耳にはもちろん聞こえない。距離も音量も違う。彼には届かない。

 でも空間を越えて僕等は繋がっていた。

 街が夜にとけるように。

 やがて歌が終わり、犬も散歩の続きをせがんでいるようだった。時刻も六時に近づいて

いて、もうすぐ夜が始まる。

 でも今日はいつもと違うらしい。

 自分の歌に満足したのか、彼はもう一曲歌い始めた。

 同じ、歌を。

 僕の視界には、新たな影が映っていた。

 学校帰りの女の子。制服からして、近所の高校生だろう。栗色のショートカットが微風

に揺れて、彼女の大き目の目が細められる。

 彼女は僕がいる橋の上で立ち止まり、歌うたいを眺めている。

 彼女もまた、何度も彼の歌を聴いていた。

 いつもの光景の完成。

 違うのは彼女と僕、歌うたいを彩る周囲の色。

 いつもよりも少しだけ深い藍色の中に、僕等は包まれていた。

 彼女の視線は歌うたいを柔らかく包んでいるようだった。頬を緩ませ、目を細め、笑っ

ている。その表情を見るたびに、僕はなんだか切ない気持ちになる。

 彼女はけして僕を見ることはないのに、僕は彼女を見ているんだから。

「♪ふ〜ふふ〜ん♪」

 彼女は持っていた鞄を後ろ手に持ち替えて、橋の手すりに体を預けた。ちょうど僕と同

じ体勢だ。手を少し横に伸ばせば、彼女の手に触れられる。

 この差がもう少しだけ縮まればいいのにと思う。

 彼女の鼻歌は、歌うたいとハーモニーを奏でていた。先ほど、僕がやったことと同じ。

違うのは、彼女の音程のほうが主旋律よりも高いことだった。女声と男声。異種の音が重

なり合って、僕が生み出した音とは明らかに違う音が生まれる。

 新たな音の広がりに我慢できず、僕は再び旋律を奏でた。

 主旋律の上と下。

 互いに誰とも分からない僕等が奏でる、奇妙な三重奏。

 六十を過ぎただろう大人と、幼さが抜けかけている女の子と、もう終わっている幽霊と。

 距離と、年齢と、生死を越えて繋がる声。

 すでにない肉体が、喜びに火照ってくるような感覚。それも生前からの錯覚なんだろう

けど、それでも良かった。

 この喜びがある限り、僕は世界から離れないだろうから。

 どこにも行けないけれど、世界と繋がっているのだから。

 やがて二曲目が終わり、僕等のアンサンブルも終わりを告げた。

 歌うたいも犬を連れて歩き出し、彼女も手すりから離れて時計を見る。意外と長く歌っ

ていたことに気づき、彼女は慌てて走り出した。

 すぐ横に僕がいたことも、僕の身体を通り抜けたことも気づきはしない。

 家路を急ぐ彼女の背中を見送って、犬に連れられている歌うたいの背中を見送って。

 今日も僕は、ここに立っている。

 どうしてここにいるのかも、何に未練があるのかも分からないままに。

 だけど今日の感動がある限り、僕は耐えていけるだろう。

 いつかこの場所から離れる、その日まで。





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