最速の男

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 スロットルを握り締める手が汗ばんでいる事に気付いて、俺はライダースーツの胸元で掌を拭った。でも手袋をつけている事に気付いて、わざわざ脱ぐのもなと思い、そのまま手を所定の位置に戻す。
 やはり緊張しているのだろうか?
 何を緊張する事がある? 俺は最速の男だ。たとえ相手が俺を唯一脅かす存在だとしても、俺が勝つ確率は高いはず。案ずる事はない……。
 だが油断は禁物だ。十回に一回は相手に負けているのは、やはり俺の中で油断があるから。勝率を十割にするためには、俺の中にある慢心を除かなければいけないだろう。
「行くぞ……」
 慢心を祓うために呟く。言葉と共に身体の外へと何かがぬけていくような感覚。
 これでいい。
 俺はバイクの前にかけておいたヘルメットを被る。
 ちょうどスタートの準備が整い、シグナルの一番上が点灯した。そのまま下にさがり、シグナルはグリーンに輝く。瞬間に俺はフルスロットルで飛び出した。
 最後尾からのスタートだった俺は、得意のロケットスタートで一気に四台を抜き去る。
 残るは三台。視界の中に全てのライバルは収まっている。射程距離内だ。
 我が好敵手はトップだ。まずは邪魔な二台を抜き去らなければいけない。
 マシンの性能は同じであるためにスタート直後の巧みさで四位につけても、直線では差は縮まらない。俺は前を行くバイクを視界に入れながら、視界に浮かび上がるコース全景を確認した。
 コースは全長五千メートル。大きなカーブは全部で六ヶ所ある。
 好敵手は俺よりも少しだけ腕が劣るから、勝負どころである六ヶ所全てで巧くインを突かねば差は縮まらないだろう。
 なかなかきつい状況だが、それでこそ俺の中の血は沸騰する。
「いっくぜぇ!!」
 俺はヘルメット越しに咆哮し、まずは最初のカーブを曲がった。体勢を思い切り倒すハングオン。コースの淵ギリギリにバイクを走らせ、その外側を走っていた三位の奴を一瞬で抜き去った。所詮は雑兵。俺の敵じゃない。スロットルを全開にすることで鳴るエンジン音は聞いていて心地いい。実際はヘルメットで頭部が覆われているために聞こえることはあまりないのだが、ヘルメットを越えて鼓膜に入ってくる気がして、この時は俺が一番至福を感じる。無論、最後に誰もを負かすことが前提条件だが。
 思っている内に二つ目のカーブ。そこもさっきと同じようにスピードを全く落とさずにコースアウトすれすれに走り去る。前を走る二位の奴の背中が近くなってきた。
 バイクの色は白い。
 俺は何故か一瞬だけ自分のマシンの色を見た。
 赤色。
 情熱の、熱血の赤。闘いの赤。
 そうだ。俺は闘神なのだ! 全ての敵を屠り去ることこそ、俺の望みなのだ! だからこそ雑魚を相手にしている暇はない!
 一瞬で景色が変わっていく視界の中で白いマシンが徐々に近づいてくる。同じ性能のはずなのにそうなるということは、前を行くマシンがスロットルを緩めているのだろう。
(なんだ……?)
 俺はもう一度コース全景を視界の中へと浮かび上がらせた。と、その瞬間に自分がいる場所に気付く。
「しまった!!」
 そう叫んだ瞬間になんと前のマシンがスリップして俺へと突っ込んでくる。俺は何とかマシンを横に倒して直撃を躱した。それと同時に見える水色の道路。
 ここはわざと氷が張ってある地帯だったんだ!
 全速力で、しかも体勢を崩して突っ込んだ俺のマシンはスリップをして回る。どうにか転倒しないようにと勘でマシンを動かした。
「うおおおおお!」
 腹腔から叫び、気合を撒き散らしながらマシンを動かし、少ししてようやく真っ直ぐにコースを走っていた。どうやら直線部分ならば全速力を出しても滑らないらしい。
 ようやく落ち着いて、俺はふう、とため息をついた。ヘルメットのバイザーがかすかに曇る。しかし拭っている暇はない。このまでは好敵手に負けてしまうかもしれない。
「このままですむと思うな!」
 俺は再びフルスロットルで進んだ。


 五つ目の大きなカーブを曲がってようやく俺は好敵手の後姿を大きく捕らえた。あとマシン二つ分の距離。しかしカーブは一つ。相手が並みの相手ならばカーブの時にはスピードを落とすために俺のコーナーリングで逆転は可能だが、この相手は俺とほぼ同等のテクニックを持っている。カーブもほんの少しだけ速度を落とせば曲がりきれる。
 そのほんの少しの差は、俺と好敵手の差を逆転するには足りない。
「まだだ! 諦めてたまるか! 俺は勝つんだ! 絶対に勝つんだ! 勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ……」
 そうだ。こうして呟き続ければ好敵手に対してプレッシャーになる。卑怯なんかじゃない。勝者には強靭な精神力が必要なんだ。この心理的圧迫に耐えられない者など勝利者にはなれない!
 と、俺のスピリチュアルアタックが効いたのか、俺の視界の背中が揺れた。速度も落ちたところで最後のカーブへと突入した。
「俺は! かーつ!!」
 思い切りインに踏み込む俺。好敵手とコーナー端の間はほとんど隙間はない。そこへとマシンを滑り込ませて、そのまま俺は最後の武器のスイッチを入れた。
「バースト・オン!!」
 コーナーを抜けた瞬間に押されるスイッチ。するとマシンが急激に加速され、一気に好敵手を突き放す――
「何だと!?」
 好敵手は俺の後ろを付いて来ていた。俺と全く同時に『バースト・オン』を発動させたんだろう。俺の呼吸を分かっている。流石は長年のライバル!
 残り二百メートルの地点でまたしても同時に急加速をかける。一気にゴールが真近に迫っていた。そこで俺は致命的なことに気づいてしまった。
(もう、急加速できない!?)
『バースト・オン』は一度のレースに三回まで使える。しかし実はあのスリップしそうになった場所を抜ける際に差を縮めておこうと一度使ってしまったのだ。もしも好敵手が三回目を残しているとしたら……俺の敗北は必死。
(……頼む、もっていないでくれ!)
 最後の直線。俺は祈りながらスロットルを握り締めていた。マシンを安定させたままで好敵手へと視線を移した時、奴の右手が『バースト・オン』のボタンへとかかっているのが見えた。
(――ここまでか!?)
「うああああ!」
 諦めたくない。最強の座を。
 俺は渾身の力を込めて叫び――そのままゴールを駆け抜けていた。

 * * * * *

「ふ……ははははは!! 俺の勝ちだ! やはり勝者には運も味方するんだな!!」
 俺は勝利の衝撃に感動しながら好敵手――鈴木匡に指を突きつけた。
 茶色に染める事に失敗した髪はまばらな色をして頭部にくっついている。可哀想に……あれはあと数年したら禿げる頭だ。まあそんなことはどうでもいい!
「これで俺の最強が証明された! よって向かいのクレープ屋に今日発売している『激辛豚丼クレープ』を俺におごるが良い!」
 勝負で賭けていた新作クレープを早速催促してみる。しかし匡は特に悔しいという思いを顔には出さずに俺に告げた。
「ていうか士郎さ、ゲーセンの筐体に本物の格好して乗るなよな……大学生にもなって」
 匡はうんざりしたような口調でしかも言葉を発し終えると溜息までついた。まるで今の言葉を言うのさえも息の無駄遣いだというくらいに。俺はレーシングゲームの画面に映っているランキングに自分の名前を入力しながら言い返す。
「ん? 別にゲームセンターにこの格好で来てはいけないという法律などないだろう!」
 全く無実の罪を着せられたような不快さだ。これはクレープを二つ催促しなければいけないだろう。
「変な言葉で俺を言いくるめようとしても無駄だ。ささ、早くクレープを食べに行くぞ!」
 匡の手を引いて俺はゲームの筐体から離れる。いつの間にか人が集まっていて、人込みを掻き分けるのは大変だ。だが、そこを抜けた所に待っていたのは黒いスーツを着た男が二人だ。一人はどこからどう見ても黒人風の男。もう一人は白刃――白人風だ。
 黒人風の男が一歩前に出て口を開く。
「お客様。もう少し他のお客様のご迷惑を考えてください。五月蝿過ぎでございます」
「ふん。五月の蝿など最速の男の俺の敵ではない!」
 と、黒人男が一枚の紙をひらひらと見せた。
「あの筐体、今の無茶な動きから壊れたようなんですよ。賠償請求しますよ?」
「そんな催促など聞かん」
 俺はそのまま匡を前に押し出してその隙に入り口へと走った。
「おい! 士――」
「こら待ちやがれ!!」
「強気で行くぞコラ!」
 匡の悲鳴と黒人がモデルガンをぶっ放す音。そして白人が白刃を抜いて振り回す音が同時に聞こえてくる。それでも俺は走る! 走り続ける!
 俺は最速の男なのだから!
 そのまま俺はゲームセンターを出ると遠くへと走り去った。
 もうあそこにはいけないな。

 * * * * *

 二日後、俺の家に筐体の修理代金請求書が送られてきた。
 本当に催促するとは……これだから近頃の若い者はいけない。
 俺はとりあえずその催促の手紙を握り潰した。とりあえずほとぼりが冷めるまでどこかに行こうかな。
「よし。匡の家に行くか」
 もう二十一世紀だし、九月一日だし。
 どっか旅行するのもいいかもなぁ……。
 まずは匡の家に行こうと、俺は家を後にした。


『最速の男・完』


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