最終裸痴漢筋電車

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「ねー、響子。気をつけたほうがいいよ?」
「何が?」
 響子は赤くなっているであろう頬にひんやりとした自分の手を当てて、熱さと冷たさのコントラストに酔いしれていた。週末にはやはり飲みに限る。それも同僚で最も気の合う雅美と共に、すでに常連と化した居酒屋で飲む酒は今まで二十四年しか生きていない彼女の人生の中でも最高の娯楽だった。
「わたしはぁあ。あと五分で家だけど、響子は終電でしょ?」
「なーによ。いつも終電で帰ってるじゃない」
「最近おかしいから注意してるんじゃない」
 雅美の言葉に含まれた怯えに、響子は立ち止まる。ちょうど二人の道が分つ場所。これから先、雅美は同棲相手が待つマンションへと帰り、響子はインコのアキラが待つマンションへと帰る。彼らはお互いにとってかけがえのない存在であるはずだが、確実に違う何かのために響子の心に少しだけ亀裂が入るこの別れの瞬間を、彼女は嫌っている。
「最近、終電に痴漢出るらしいよ?」
「ちかん?」
 両手ではさみこんで頬を軽く叩く。涼しい夜気と冷たい掌によって酔いは拡散していった。それでも気分はいつもより高い場所にあったが。
「なんかぁ。裸らしいの。黒コート着てるわけでもなく、裸」
「なによそれー。電車乗るまでどこにいるわけ! きゃははは」
「確かにそうなんだけど……私の友達も何人か遭遇したって言うし、終電で」
 雅美の心配そうな顔を見て、響子は事の深刻さを少しだけ悟る。馬鹿らしい話題ではあったが、何人も目撃証言があるのは信憑性が高いという証拠だ。そして響子がその痴漢にあう事を本当に怖れている。心配してくれている。
 その事実は響子にとって嬉しいことであり、心強く思える。
「ありがと! 大丈夫だよ。何かあったら叫んで逃げるからさ」
「そ……うだよね。響子は強いもんね」
「そうだよー。ほら私って、一週間前に会社に文句つけてきた相手の男さ、金的くらわせて床に頭落としたところを踏んずけた女だよ。あとで上司と謝ったけど」
 響子はそのまま笑いつつ駅への道を進んでいった。雅美はその背中をじっと見つめていた。そこにいる何かを視線で取り外そうとするように。
 そして、視線では足りずに雅美は声もかけていた。
「響子!」
「ん? なーに?」
 足を止めて振り返った響子に走り寄って、雅美は胸につかえているムカムカを押し出すように言葉を発する。
「あと……もう一つ。終電に幽霊が出るらしいの」
「――ぷぷ! 雅美ったら幽霊信じてるの?」
 意に介さずに歩いていこうとする響子の背中に雅美は叫ぶ。胸の焼け付きは止まらない。言葉を紡ぐたびに酷くなる。それでも、友人に向けて言い続ける。
「何か気になるの! 気をつけて!」
 悲痛な叫びに響子は足を止め、一瞬だけ俯くと雅美の方を振り向いた。顔には満面の笑みが広がり、少しも怯えを感じさせない。
「ダイジョブだって。幽霊と裸の人間だったら、まだ裸の人間のほうが怖いからさ」
 会話はそこで終わった。軽くステップを踏むように進んでいく響子の背中を、雅美はじっと見ていた。喉の奥に広がる焼け付く痛みは、酒の飲みすぎによるものだと信じたかった。

 ◆ ◇ ◆

(だーれもいないじゃないの)
 最終電車の先頭、一両目。自分ひとりしかいない空間で響子は拍子抜けしていた。嘘っぽい痴漢の話であれ、深夜の電車にはいてもおかしくない。今までも朝、自分のいた隣の車両から悲鳴が聞こえ、降りた時には車掌が男を後ろ手に縛って連れていったのを見たことがある。痴漢にあいたい、とは言わないがあわないのもそれはそれで寂しかった。
「痴漢するだけの魅力ないのかしら……それってセクハラじゃない?」
 雅美の忠告を聞いて張り詰めていた意識の糸が緩んでいく。
(あと……幽霊? 雅美もオカルト好きよねー。いわくつきの場所ならまだしも、終電ならみんな遭遇してるはずじゃないの……)
 柔らかくなっていくと共に意識までも溶け、すぐに響子の思考は闇に浸かった。
 ぬるま湯に浮かぶ中で、彼女は想像してみる。
 自分の足に伸びる手。
 太腿の裏から表に回ってきてスカートの中にあるショーツの端に、指が触れる。滑っていく掌の感触は彼女へ快楽を運び、まさぐられる嫌悪感とのコントラストが綺麗に分かれていく。胸の内から噴出そうとするものと、それを出すまいとする理性がせめぎ合い、かすかに負けた理性の横から悦の衝動がすり抜けていった。
「――ぁ」
 結果として、声が洩れる。いつもの声よりも三倍は高い。以前の彼氏の部屋で見つけたDVDに出ていた女優が良く出していた声だった。妹のほっぺたを突付きながら「あふん」と発していたものと同種類。
(もぅ。誰かに聞かれたら――)
 羞恥心が意識が覚醒させていく。眠りについてからどれだけの時間が経ったのか彼女には分からないが、最初は誰もいなかった車内に人の気配が満ちていた。電車が進んでいく音によって声がかき消されていることを祈るしかない。
 その時だった。響子の太腿に、ねとりとした感触が走ったのは。
「え」
 正確には、座ったことで少し捲れたタイトスカートから出る膝上にその感触は触れていた。手によるものとは違う。脛を滑って流れ落ちていく感触からも液体だろう。だが、正体不明のそれが流れきった場所は全く濡れてはいなかった。
(何なのこれ……)
 心なしか息苦しくなってきた気がして、響子は身体が小刻みに震えていく。周りからの圧力が増してきて、息が荒くなっていった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 そこで響子は気づく。人の気配が増えたのに、音が全く無いということに。最終電車は確かに疲れた人々の多くが寝ているために、会話などは無い。しかし、人は何かしら音を立てているものだ。座席で身体を動かすことで鳴る服の衣擦れ。いがらっぽい喉を浄化するための咳など……。
 しかし今、彼女がいる場所には全く音がなかった。電車が線路を進んでいくものだけ。
(一体――)
 そして、彼女はついに目を開いた。飛び込んできた物が何か分からないまま真正面を見る。
「なに、これ……」
 それは六つに分かれた何かだった。肉感的な平板のうち、ぼこっと六つの盛り上がりが出ている。たまにぴくぴくと動き、蒸気が噴出している。無意識に手を上げて触れようとし、響子は胸元へと手を引っ込めた。自分の身を守るために。
 その時、隣の席に座る者にも視線が被った。脚は赤銅色の素肌を晒し、秘部を覆うのは競泳用パンツ。彼も同じく身体のいたるところから蒸気が噴出していた。体感温度は二十六度と脳に伝わる。
(何なの! 何なのよこれ!)
 響子は思考を埋め尽くしていく煙に顔をしかめた。恐怖を感じていいのかそれとも羞恥を感じていいのか。すでに前にも横にもいる者の正体は、裸体でいる男だと分かった。ぴくぴくと動いていたのも筋肉だし、競泳用パンツを見る限り、テレビの選手権で見たようなボディビルダーだろう。
 視線を転じると、右隣も左隣も右斜め前も左斜め前も全て、色が同じ肌を持つ男が蒸気を噴出しながら立っている。最終電車の空気はその蒸気によってうっすらと白く染まっている。
(なんで電車にボディビルダーなのよ……)
 涙目で視界が歪み、顔ははっきりとは見えないが身体は見事な逆三角形を保っていた。そこに惚れることは惚れたが、響子は恐ろしい事実に気づく。
(周りが全部、ボディビルダー?)
 そして、先ほどの液体というのが彼らが流す汗だということを。
 そもそも、肉の瓶詰めのごときこの状況自体、異様に過ぎることを。
 感情がようやく一つにまとまった。
(い……いやぁ……)
 恐怖の黒へと染まった心は出口を追い求めて視界を動かす。涙を拭いたことから、車内は良く見えた。
 肉体を一つのパズルピースにしているかのように、電車内に隙間を残さずぴったりと、いくつもの裸体が連なっていた。壁に平行に立っていたり、横になっていたりとバリエーションは抱負。その結合部位はねちょりとした汗で縫いとめられているらしい。揺れるたびに部位から液体が飛び散った。
 毛虫が、身体中を歩き回るような錯覚。おぞましさを締め出すように、彼女は腕で身体を包む。
「や……あ……」
 必至に身体を小さくする響子。覚醒する直前に汗が太腿を濡らしていったのだ。正確には通り過ぎただけなのだろうけど。だが、見た目が明らかに油っぽいため、縮ませていた手を伸ばして太腿をはらう。
 その時だった。急に、耳の奥の気圧が下がったように線路を進む音が小さくなる。
「ドレミファソ裸ー」
「きゃ!?」
 突然、目の前に立つ男が歌いだしたことに驚いて、響子は声を上げて後ろに身体を飛び退かせた。だが、座った状態では頭をガラスに打ち付けるだけ。しかし後頭部の痛みはボディビルダーと視線があってしまったことで意識の外へと追いやられる。
 声を上げたことがいけなかったのか、それまで真正面を向いていた男の視線が響子へと下がった。
 頭に毛が全く無く、目は顔の半分ほどあり、口は耳まで裂けている。体脂肪率数パーセントであろう、豊満な肉体を惜しげもなく見せ付けながら巨大な口が最大に開いて、音符を中空へと飛ばしていた。
「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」
「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」
「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」
「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」
「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」
「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」「ドレミファソ裸ー」
 輪唱と言うのだろうかと、響子は錯乱寸前の頭で考えた。目の前の男が発した歌は次は両隣の二人。その次はその二人の前に立つ二人と目の前の男の後ろに立つ男、というように広がっていく。先ほどまで何も音が無かっただけに、急激な音密度の増加は響子の耳の奥を次々と傷つける。
「やめてよ! 何なのよあんた達!」
 立ち上がって抗議しようにも、前と左右にいるボディビルダー達はいつのまにか響子の横と前にぴたりと付いていた。以前、男をノックアウトしたように金的を打とうにも逃げようにも、空間が無ければ身動き一つ出来ない。
「ちょっと! はなれ――」
「裸(ラ)ー!」
 大音量が耳を襲い、響子は両手で塞ぐ。真正面の男が放った音波は彼女の座る席の後ろガラスを振るわせた。それが合図になったのか、また波紋が広がるように旋律が流れる。
「裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸♪」
 全てフォルテッシモ。音程が違っているだけで強弱は何も無い。ただ、ラという言葉がかろうじて旋律を保って響子へと襲いくる。
 それだけにも関わらず、響子の中に対象不明の恥ずかしさが広がっていった。ラという単語でもあるのだろうかと一瞬だけ考える響子だったが、すぐに内臓の痛みに顔をしかめた。
 何もかも単調な世界というのは、苦痛以外の何物でもない。
「止めて! もう止めて! 何なのあんた達は! 止めてって言ってるでしょっ!」
 ぎりぎりで繋ぎとめる意識。再び涙で歪んだ視界の中で、相手の顔が笑顔になる。周りの男達が一斉に。
「裸裸レ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸イ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸プ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸し裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸て裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸や裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸る裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸ぞ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
 不快な歌の中に混じる悪たる言葉。正確に聞き取れはしなかったが、響子の脳を蝕んでいく。
「や――」
「裸裸こ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸わ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸し裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸て裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸や裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸る裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸ぞ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
 直立不動の体勢から、徐々に曲げられていく腰。
「やめ――」
「裸裸こ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸ろ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸し裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸て裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸や裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸る裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
「裸裸裸裸裸裸裸裸裸ぞ裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸♪」
 斜め四十五度になった腰は止まり、膝が正確な幅を保って上体の高さを落としていく。
「止めて―――――!!」
 ついに、響子は恐怖の深遠へと落ちていた。目からの涙、鼻からの鼻水を垂れ流し、頭を振って周囲の世界を自分から追い出そうとする。
「いやぁはあ! 止めて! もう止めて! お願いだから! 止めて! 止めて!! やめてよォお! いやぁ!」
 響子は気づかなかったが、歌い始めてから一ミリずつ距離が詰まってきていたことで耳を塞いでいてもボリュームが上がり、身体の芯から油にまみれてくるような感覚を彼女へ抱かせる。
 実際、彼女がかいた脂汗は粘着性を十分に保っていた。
「いやぁああああ”あ”あ”ぁあああ”あああ”あ!」
 頭を抱えて前にのめろうとすると、おでこが腹筋にぶつかった。確実に聞こえたねちょりという音と、滑った感触。
「あ”あ”あ”あ”あ”――」
 響子の絶叫は、裸体の海に飲み込まれていた。

裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸裸――――

 ◆ ◇ ◆

「おきゃくさーん。終点ですよ」
「…………」
 響子は自分の身体を見下ろし、髪の毛をかきあげ、車掌の顔を見て、最後に周りを見回した。特にいつもと変わらぬ光景。最終電車の車内。車掌の言葉が正しいのなら、目的地についたのだろう。
「終点ですよ。大丈夫ですか」
「あ、はい」
 倒れそうになる身体を奮い立たせて歩き出す響子。電車から出たところで触れる夜の空気は冷たく、彼女の身体を全て浄化してくれるかのようだった。
 落ち着いたところで、先ほどの出来事をようやく思い返す。
(――夢、だったの)
 改札口を出てからもう一度振り返る。今日の仕事を終えた電車はドッグへと入るべくゆっくりと動き出した。それを見送ってる間にも彼女は考える。
(痴漢にあいたいとか思ったから……バチが当たったの? それとも、あれが雅美が言ってた裸の痴漢なの? あんなにたくさん?)
 甦ってくる裸体と、肉汁と、歌。
 特に歌は耳奥に淦のようにこびりつき、耳掻きをしなければ取れそうになかった。
 また、散らばった単語が頭蓋骨の裏側に張り付いているような感覚。どういった意味があるのか思い出せない。
「幻? 現実? それとも――」
(幽霊と裸の人間だったら、まだ裸の人間のほうが怖いからさ)
 第三の可能性を呟きかけ、響子はこみ上げる吐き気を抑えた。飲んだ酒が胃を荒らしているのだと信じて。
 けして油に満たされているわけではない。
 彼女はふらつきつつも、何とか自宅へと歩き出した。
 安らぎを得る場所へ。
 インコのアキラが待つマンションへ。
 残り百メートルほど先へと。

 ひた……ひた……

 背後から聞こえる、裸足がコンクリートを掴むような音は、まだ彼女には聞こえない。

 ひた……ひた……ひた……ひた……

 一つ一つ増えていく足音は、まだ、彼女には聞こえない……。



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