『螺旋』 教室に入ると、まず水をかけられた。匂いからするとどこかを掃除したあとの水らしい。実行したクラスメイトは、僕を汚す代わりに校舎を綺麗にしたようだ。プラスマイナスゼロ。そんな皮肉を考えると自然と口元に笑みが浮かび、それを見たバケツを持った男が気持ち悪そうに唾を吐いて自分の席へと去っていく。その背中をぼんやりと眺めていたけれど、濡れた学生服が張り付く感触が気持ち悪くて、とりあえず上着を脱いでその場でしぼる。小さな滝を作り終え、ワイシャツはホームルームが終わってからしぼろうと自分の席へと向かった。 机の上にはガラスの花瓶が乗っていた。生けられてる花は菊。茎には黒いリボンが丁寧に添えられている。昔の学園漫画のいじめとかに使われた古典的手段。これまでに黒板消しを入り口にセットされてたり画鋲を靴に仕込まれたりしたから予想はしてたけれど、実際にされるとアホくささと、何とも言えぬ切なさがこみ上げてきた。 一本の菊が吸っているのは黄色い液体。椅子に座ってから鼻を近づけてみると化学の実験で嗅いだアンモニア臭が鼻腔をくすぐった。僕は僕が来る前にトイレでこれに尿検査のように自分の分身を向けている男の姿を思った。あるいはしゃがみこんでいる女の姿を思った。どちらにしても、労力に値するような結果は生み出さないだろう。 こんな風に。 「きゃあ!」 隣の席でにやついていた小宮山夏(こみやまなつ)に、僕は立ち上がって花瓶の中身をかけてやる。頭から被った小宮山は、半狂乱になって自分の制服に染み込んでいくアンモニア水を手で払っていた。黒い制服を更に濃く染めていく液体。手で払おうにも液体だけに大部分は手に付き、少量は飛散する。飛んできたそれに嫌悪して、更に周りの生徒たちが僕と小宮山から離れる。 「いや! いや! いやぁあ!」 急いで制服の上を脱ごうとする小宮山だったけど、水分を含んだそれは重くなり、更に肌に張り付いてくるから容易には脱げない。何とか脱ぐ間にはすっかり彼女の身体にはトイレの匂いが張り付いていた。水分とともに。 「何するのよ!」 自分を取り巻く匂いと、クラスメイトの嫌悪の視線に顔をゆがめながら胸倉を掴んでくる。特に何かを言う気にはならない。周囲も観察するだけで、近寄ってはこなかった。僕に直接的に関わることは汚いことだとみんな思っている。だから間接的にいじめを繰り返している。 僕は、ただ授業中にうるさいやつを注意しただけなのに。入学式から三日目。そこから、いじめは始まった。 教室のドアが開かれる音と同時に、小宮山は僕から手を離して重くなった制服を掴むと教室から出て行った。今から水洗いしてどこまで落ちるだろう? 「ほら、新山。席につけ」 「はい」 担任の葉山先生は全てを見ていたけれど、何の関心も示さずにホームルームを始めた。僕も席について終わるまで上着をしぼる。まだ少し落ちる雫。匂いは小宮山よりはましだった。 いつものように真っ黒に塗りつぶされた教科書を閉じて、授業は終わりを告げた。帰りのホームルームが終わると机が下げられ掃除が始まる。生徒は皆帰っていく。僕は一人、箒(ほうき)を手にゴミを掃く。葉山先生が入ってきて、僕の背中に向けてちりとりを投げつけた。ぶつかってもさほど痛みは感じないから合えて受ける。初めてされた暴力の時は、避けたために危うく骨を折られるかと思ったくらいだった。 「おい。上半身を出せ」 どうやら嫌なことがあったらしい。すでに制服は乾いていて、すんなりと僕は上着とワイシャツを脱いだ。先生のほうを振り向くと、頬を赤く染めて近づいてくる姿が目に入る。目の前に立つと、先生は僕から箒を取り上げると迷うことなく僕の肩に振り下ろした。 掃く部分がざらざらと棟から腹までを斜めに切り裂いていく。ざくりという痛み。どこかむず痒くて、それでいて鋭さを持つ痛み。鞭に打たれたことはないけれど、きっとこんな痛みが走るんだろう。でも、僕の意識と身体は分離でもされているのか、冷静に痛みを分析している自分がいた。 「この! くそ! あの! 女め!」 目は充血して、涙を流しながら僕を打っていく先生。後ろを向かせると、今度は柄の部分を直接背中に打ち付けてきた。今度はさすがに堪えきれずに、痛みにうめいてしまう。 「何、声出してやがる!」 縦の動きから突きの動き。唐突に背中を突かれて床に思い切り顔を叩きつけられてしまう。頭の中に火花が散ったような気がして、次には口の中に広がる鉄の味と、舌の上に乗る折れた歯を感じた。 ……なんでこんな痛い思いをしないといけないんだろうか。 急に、そんな思いが芽生えた。いじめが始まってから半年も経って、初めて生まれた、思い。 そもそも僕は先生が注意しない生徒を注意しただけだ。 あの時は先生もありがとうと言っていたはずだ。でも次の日から僕が孤立して、いじめられるようになってから同じような虐待を続けている。都合がいいはけ口が見つかったというがごとく。先生というのはそんなにもストレスがたまるんだろうか? 自分の鬱憤を晴らすために、いじめられている僕をそのままにして、自分の感情を吐き出す場所へとしていいんだろうか? 「なんで、です?」 倒れた状態で先生を見上げる。と、その途中に教室の入り口に立つ生徒の姿が見えた。 小宮山だった。結局、一時間目から体育ジャージに着替えて授業を受けていた彼女は、もう制服に戻っていた。学校で洗濯が出来たんだろうか? 先生は僕の顔を思い切り柄で張り飛ばしたけど、直前の視線の動きを見て取ったんだろう。後ろを振り向いて、小宮山を視界に入れた。 「こ、小宮山……」 「先生。これ返すね」 倒れたままの僕は横目で彼女が投げて床に落ちた物を見た。軽い音を立てて床に弾かれ、二度目に落ちたときはころころとそのまま転がった。 綺麗な指輪だった。 「じゃ、さよなら」 小宮山は僕を視界に入れないまま去っていった。先生は呆然としつつ指輪を拾い上げる。突然の崩壊か、前から積み重ねられた崩壊か。きっと後者だろう。小宮山は半年で五人の男を渡ってきたし、先生も渡られた一人になったんだ。これから小宮山はどれだけの男と付き合い、別れを繰り返していくんだろうと思った。 先生は涙を流しながら掌を覗き込み、思い切り指輪を投げた。開いたままのドアを超えて廊下に転がり出る指輪。 そして立ち上がる僕。 「何、立ち上がってんだ」 先生は興奮のほかに悲しみを加えた赤い目で僕を睨んだ。込められているものは、僕の背筋を凍らせる。きっとこれは、殺気というものなんだろう。目には見えないけど確かに感じるそれに、僕の内側から熱い物がこみ上げてくる。先生の姿が、赤く染まっていく。 ゆっくりと僕は先生から離れる。背中を見せたらいけないと何故か思って、先生のほうを向いたまま後退する。先生は箒を力の限り握り締めているようで掴んでいる右手が震えていた。 「ああああ!」 もう先生は狂っているらしかった。口から泡を出しながら箒を振り上げる。僕は咄嗟に後ろにあった机に上げられていた椅子を手にとり、力の限り横に振り回した。先生の箒と僕の椅子。 音が、消えた。 次に耳が回復した時には、迫っていた箒は飛んでいって、先生は床に倒れていた。 先生の目は白目で、何の意識も感じさせない。殺したんだろうか? 殺したんだろうか? 今頃になって打たれた背中の傷が熱を持ってきた。 痛い。痛い。殺した? 殺され……ようとしてた? 失神してるだけにせよ、最悪の結果にせよ、今言えるのは先生が倒れてて動かないということ。血が出てないから大丈夫かもしれないわけじゃないかもしれないかもしれない? 熱に浮かされてるからか、思考が上手くまとまらない。 単純な思考に落ち着いていく。 これを慣れっていうのかもしれない。 間違っていても、もう僕にはそれが間違ってるのかいまいち分からなかった。 どうでも、いい。 教室を出てみると、先生の叫び声を聞いたのか他の先生達が立っていた。でも、上半身裸のまま、制服を肩に載せている僕を見ても驚いたりもしない。その目はまるでクラスメイトのようだ。 その瞬間、理解する。 ああ、葉山先生もいじめられていたんだな。先生達に。 葉山先生はいじめられ、その鬱憤で僕をいじめた。先生方は、自分の鬱憤を晴らすために葉山先生をいじめた。クラスメイト達も、どこかでいじめられていた鬱憤を、僕に向けていたんだろうか? はけ口を奪ったかもしれない僕は、これからはけ口になるんだろうか? それとも、別のはけ口を先生方は探すのだろうか? きっと昔からずっと、誰かがどこかで痛めつけられていたんだろう。痛めつけられ、その辛さから逃げるために誰かを痛めつける。 これからも、ずっと、続いていくんだろう。 葉山先生を殴る時にこみ上げた熱い感情。もう、どこにもなかった。 「もう、どうでもいい」 僕はそのまま先生達の間を抜けていった。先生は大丈夫だろうか? 明日からの担任は誰だろうか? クラスのいじめは何だろうか? ずっと、続いていく。 回る回る。永遠に回る。 回る回る。回っていく。 脳内に浮かんだ妄想の中、僕はメリーゴーランドに乗っていた。後ろの馬に乗っているのは葉山先生やクラスメイト。その瞳はいつもと同じく僕を人間と思っていないような光をたたえていた。視線を前に移すと、そこにはかぼちゃ型の乗り物。乗っていたのは小宮山だった。 回る回る。永遠に回る。 次は、どう小宮山を―― |