ペイン トゥ ペイン

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「いってきます」
 返答がないことは分かっているけれど、言わずにはいられない。自分がまだ普通の人間として扱われていた時の名残。それさえも失ったのならば、存在全てが人間ではなくなってしまうような気がして、僕はずっと言い続けている。
 居間にはちゃんと気配が二つあるのに動こうともしない。
 感じるのは怒り。そして恐れ。
 向けられる想いを閉じ込めるように、扉を押した。淀んだ空気を持った部屋から外に出れば空は昨日よりも高く見える。小さくちぎれた雲の先にある太陽は今日も僕を照らして、身体を暖めてくれた。立っていればいつまでも。
 それでも心は冷たいまま。
「届かない」
 ため息をつくたびに肩に埃が積もるみたい。何年分にもなるそれらが、足取りをまた少し重くする。一歩ずつ足を踏み出すたびに胸に鈍痛が走る。呪われた右手を添えてみても針が体内にあるかのように内蔵を血にまみれさせた。もちろん、幻覚で気のせいなんだろう。本当に消してほしい痛みは消さないで、些細な痛みが消えていく。中途半端な力のせいで、今の僕がいる。
「おう、裕也」
「おはよう横山君」
 中学校までの道のり半ば。いつもの場所で会う、横山典弘とその取り巻き三人。いつものように、僕の歩く姿を笑っていた。それだけじゃない。僕の話す声を、顔を、動作を何もかも。
「いつものように頼むわー」
 言葉通り、いつものように三歩離れた少し遠い位置から投げられた鞄。次々と投げつけられた鞄を落とさないように受け取るのにもどうにか慣れる。ちゃんと掴んでいることを確認した時にはもう談笑しつつ先を行っていた。腕に走る痺れはすぐ消えた。特に力を使うこともない、一時的なものだ。
(本当。こんな力さえなければ)
 雑用みたいな生活をしなくてもいいかもしれない。
 最初に力に気づいたのは、自分の青痣に手を当ててからすぐに痛みが消えたことからだった。
 タンスの角にぶつけた小指を擦っているとあっという間に何も感じなくなった。最初はいたいのいたいの飛んでいけ、と母親の言う通りの呪文を呟いていたからだと思ったが、歳をとってそれが迷信だと知ると自分の不思議な力に気づいた。
 小学校二年の時、初めて他人に使ってみた。
 廊下を走っていて転んでしまい、膝小僧をすりむいた友達のそこに手を当てて撫でると、何もなかったかのように立ち上がり、飛び跳ねた。直前まで痛みに苦しんでいたのに。
「ゆうや君の掌凄いね」
 それが、最初にして最後の賛辞だった。苦労せず昇った山から落ちるのは本当に楽で、本当に一瞬で。存在の違いという波にさらわれた僕は二度とみんなの場所に戻れなかった。
『気持ち悪い』『なんか怖い』『テレビとかでれるんじゃね?』『超能力者ってか。はは!』
 それでも、怪我をしていた人には続けていた。気味悪がられても、いつか誰かが分かってくれる。僕は悪いことはしていないはずだ。痛みから解放されることは、苦しさから逃れられるってことだから。誰かのために、役に立っているはずだから。
 でも。
 言葉に拳が、足が混ざるようになったのは小学校四年の時だった。
 本当になんともないのかを試すと、体中殴られた。
 痛くて、苦しくて。泣きながら傷めた箇所を押さえると原因が消えていく。そこに痛みの全てが吸い取られるように身体全体から怪我がなくなる。
 残ったのは変わらない肌。青あざや赤い腫れも何もない。
 そして、誰もが逃げ出す。面白さよりも怖さが先に立って。だから僕は力を使うことを止めた。自分が怪我をしても、誰かが怪我をしていても。使い続けたから人が離れた。使われた友達も気味悪がって逃げていく。それは良い例で、汚いものに触られたように笑ってあざけって逃げてった人もいた。
 良いことをしたのに裏切られて、僕は何をやってるんだろうと思って。
 悟る。
 僕のしていたことは、良いことじゃなかったんだと。
「めんどい」
 やっぱり限界だったのかもしれない。いつもいつも続けていたかばん持ちがこんなにも辛い。中学に入学してから半年間ずっとずっと、鞄持たされて。学校では無視されて。勉強できてもいじめられるからバカな振りして。
「全部、お前のせいだ」
 学校に行くための坂の前で鞄を道端に捨ててから、僕は坂の隣に続く道に入る。通り過ぎていく友人達の間をすり抜けて、痛みがどんどん増していく。それでも僕の力は消してはくれない。物理的な痛みしか癒してくれない。心の痛みは、そのままだ。
 身体と心のバランスが崩れていく。どこかに痛みを消した身体と、痛みを持ち続けた心と。こんな意味のない力なんて、いらない。
「いらない。いらない。いらないいらないいらないいらないいらないいらないいらない!」
 口に出す言葉が大きくなっても気にならない。登校する道を逆走してるから同じ学校の生徒達とすれ違うけど、そんなの知ったことじゃない。もう僕は嫌だ。こんな世界とさよならするんだ。誰も知らない場所にいって、一人で死んでやる。
 早歩きから走ることに変えて、そのまま突き進む。酸素を求めて息も切れるし心臓も激しく動いて痛い。そうだ。もっと痛めよ。内から外から痛めつけてよ。僕をこのまま殺してくれよ!
 数メートル先に見える横断歩道。ちょうど赤になって、トラックが走り出す。ちょうどいい。アレに飛び込めば――
 次の瞬間、急ブレーキと共にトラックが動きを止めた。
 僕も弾かれたようにして、走ることを止めていた。とたんに身体が脱力して、歩けなくなる。
 流れ落ちた汗で滲む視界に飛び込んでくる血の色。少しずつ少しずつ、排水溝へと向かっていく血。空気に触れて黒に近くなった血液を見て、何をはねたのか確認した運転手は足で『それ』を歩道まで押しやってから去っていった。何事もなかったかのように動き出す時間。僕だけが何か、狭間に取り残されてしまったようで、被害者の下に行く。
 腹が裂けかかった猫が、痙攣していた。目は虚ろでどこも見ていない。閉じかけた瞳から思考が読める気がする。
 痛い。痛がってる。死ぬしかないのに痛みでこの世界に繋がってる。放っておいてもいずれは死ぬだろうけど、いつまで耐え続けなければいけないんだろうか?
 そう思うと、やることは一つだけ。手を伸ばして、生暖かい弾力を持った猫の腹に触れる。血が一番出ていた場所に意識を集中させると、痙攣がぴたりと止まる。次に猫の目が閉じられて、アスファルトに頬をゆっくりと付けた。これだけ。見た目で判断するしかないけれど、きっと痛みがなくなってすんなり死んだに違いない。
 結局、僕はこの力を使ってしまうんだろう。良いこととか悪いこととか別にして。
「戻るか」
 声に出すと少しだけ元気が出た。
 逃げ出したいけど、死ぬ勇気もない。自分の力からは逃れられない。死なない限り、ずっと一緒にいる。なら共存するしかないじゃないか。
 何度もたどり着いた結論。この力を得てからずっと同じところを回ってたどり着いてしまう結論。僕は結局、死にたくないんだ。だからこの力と共にいるしかない。他に道はないから。
 死ぬことを考えていたのに、猫を助けたらあっさりと選択肢から消してしまう自分に呆れても、僕は足を止めなかった。
 今頃は捨てられた鞄を手に入れて横山達は怒っているだろう。殴られるかもしれないけど、この力で痛みは消せばいい。
「まだ、もう少しがんばれ――いたっ」
 歩き出したと同時に急に腹が痛くなって、立ち止まる。折角また気を取り直したのに。
 って?
 掌から漏れて落ちていくのは、血だった。
「なんだよ、これ! いたたたた!?」
 物理的な痛みならすぐ消えるはずなのに、どんどん大きくなっていく。
 まるでタガが外れたみたいに腹の痛みが増していく。手で抑えても効かない。学生服が水を吸ったように重くなっていって。
 血が、吹き出た。
「あ、あああ」

 ――昔、疑問に思ったことがある。

「うわぁ、ああああ」

 ――僕は痛みを消せるけど。

「ああああ、あ、あ」

 ――その痛みはどこに消えるのか。消すことが出来た痛みはどこにいってしまうのか。

 心も身体も引き裂いて、痛みは僕の中から出て行く。
 最後まで戻れなかったな、皆の所に。
 トラックに轢かれたみたいな衝撃が、僕の感じた最後の痛みだった。


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