終わりの終わり

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 こいつを呪ってやろう。
 ゴミ袋に僕の身体を入れたこの男を。
 そう考えたら身体が軽くなって、いつの間にか僕の身体を運んでいく男の背中を見ていた。この状態は知っている。
『ゆうれい』と言うんだと、前に見た人間の『ゆうれい』が教えてくれた。思い残したことっていうのがあれば動物も人間もこんなのになる。しばらくはこの世界で暮らしていけるんだと。
 僕らのような猫や犬は『ゆうれい』が見やすいらしい。だからきっと、僕は『ゆうれい』になりやすいんだろう。よくは分からないけど、まだこうして周りを見ていられるのは確からしい。
 遠ざかっていくのは黒猫みたいに全身が黒い人間。どうやら雄らしい。人間では男という。あの『ゆうれい』のおかげで少しは言葉が分かる。手や顔だけが肌色で他は黒。いろんな色をしている人間がいるけれど朝の時間帯はこういう人間が特に多い。ゴミ捨て場に僕を捨てた人間はそのまま僕のいないほうへと歩き出した。
 すぐ傍にあるゴミ捨て場に置かれる黒い袋の中にある僕の身体。自分の身体と別れてしまうなんて変な気分だった。
 僕自身は、足元を歩く蟻が足をすり抜けて行ったり、人間の足が僕を通り抜けていったりするくらいで、普通じゃないかもしれないけど、普通だ。死ぬまでの間に比べれば心地よいくらい。身体を引き裂かれる痛みがしばらく続いていた時は本当に死んでしまいたかった。動くことも出来ずにただ痛み続けるだけ。ようやく死ぬってところで袋に入れられた。
 あいつを呪ってやろう。
 僕がこうしていられるうちに精一杯。
 ――でも。
「バカ野郎! こんなこともできねぇのか!」
 男の背中を追っていって大きな建物の中に入ってから、男は怒鳴られ続けている。
 今は男を三人くらい並べたような身体の人間が叫んでいた。意味は分からないけど、身体をびくっと震わせて背中を丸めている男を見ると、怖い目にあっているらしい。僕も死ぬ時は小さくなって、身体が震えて、動けなくなった。男はでっかい人間から逃げていく。自分の居場所についたのか、男の動きが止まると、隣に座ってた人間が小声で話しかけてきた。
「全くよ。使えないよなお前」
 男の身体が固まった。僕はなんだか寂しくて。密着していた隣の人間の鼻を引っかいた。手はそのまま通り過ぎて。
「いて」
 鼻を押さえて人間が離れていく。男の顔を見るとなんだか悲しそうだった。なんで悲しむんだろう。きっと馬鹿にされていた。僕も他の皆に嫌われたら悲しい。馬鹿にされたら怒るのに。どうして悲しむんだろう?
 悲しんでいいかもしれない。だって、僕はこいつを呪うためにいるんだから。
 男は色がちかちかする箱の前で指を動かしていた。その間に呼びかけられて立って、行って、大きな声で威嚇される。それが何度も続いて男の辛くなる気持ちが僕の中に入ってくる。
 嫌だ。嫌だ。どうして死んだ後にまで苦しまなくちゃいけないんだろう。苦しめようとしているはずの人間に苦しめられるなんて逆じゃないか。
 だから、人間達の手や鼻や顔を引っかいて、男への威嚇を抑えた。そうすると僕はほっとする。でも男は少しだけほっとするけれど、あとは申し訳なさそうにしていた。
 どうして? どうして?
 いや、僕はこいつを呪うんだから、こいつが苦しむならそれでいいはずなんだ。他の人間をひっかいたりすればこの男は悲しむ……怒鳴られていたのにどうして後になって悲しむんだろう。分からないのが嫌で、腹いせに男を引っかいてみた。
「いて」
 やっぱり痛がって、嬉しかった。でも呪うってくらいかというとそうでもない。何度も手を出せばもっと痛いだろうに引っ掛けなかった。
 また人間に呼ばれていった男は今までで一番でっかく怒られた。
「いい加減にしろ! 作り直して来い!」
 紙の束を投げつけられた男はよろめいて、僕は怒鳴った人間の前に下りる。傍にある手を叩いてみたら、やっぱり痛いと呟いた。
 男にはもう触れる気がしなかった。僕が呪わなくても十分呪われている気がしていた。


 ◆ ◇ ◆


 息苦しい建物から出て男は朝に来た道を戻っていく。僕は肩に乗らず、後ろをとてとてとついて行った。
 男は一日中、あそこにいる間ずっと、怒鳴られたり悪口を言われたりしても言い返さなかった。僕の分からない何かをずっとしていて、最後には怒鳴っていた人間も周りで何かさげすんでいた人間も何も言わなくなった。こそこそと呟くのは聞こえたけれど。その姿を見ていたら、自然と呪おうなんて気持ちは消えていた。
 この男はどうして怒らなかったんだろう? 理不尽なことをされていたような気がする。僕が突然死んだような。
 怒ってしまえばいいのに。背中を見上げて考えていたからか、突然止まった男の足を潜り抜けてしまって前に少し歩いてから立ち止まる。振り向くと男は横に視線を向けている。辿ってみると、ゴミ捨て場があった。夜にまぎれてしまいそうだけれど、ゴミ袋があった。
 僕の身体が入った袋に間違いなかった。
「ごめんな、朝は」
 男はゴミ袋を拾うと今まで歩いていた道を外れた。この先に何があるのか僕は知ってる。昨日まで遊んでいた公園だ。楽しくて、これからもずっと、ではないかもしれないけれど遊んでいけるんだと思ってた。昨日みたいな日がくるのはもっと先だと本当に思っていたんだ。でも突然車にはねられて、道路の脇に飛ばされて。朝になるまで『死に続けた』んだ。
 誰のせいなんだろう。
 誰を憎めばいいんだろう。
 僕の明日を奪ったのは誰なんだろう。
 そう思うと悔しくてたまらなかった。誰かに怒りをぶつけたかった。だから最後に見えた人間の男を恨んでやろうと、思ったのに。
 僕の身体を公園の花壇に埋めている。手で土をかきわけて場所を作って、僕の身体へと土を優しくかけてくれた。痛んで虫が沸いてきている僕の頭を撫でながら。
「どうしてこんなことを?」
 人間に通じるわけがないけれど、言ってみた。もしも伝わるんだったら聞いてみたかった。
「単にあのままじゃ可哀想だから、かな」
 男が、しゃべっていた。僕の言葉に答えて。しかも、意味が伝わる。人間の言葉なんて分からないのに。頭に直接意味が届いてくる。
「肩に乗ったときからうすうす気づいてた。何か見えなかったけどなんとなく猫かなって。猫、好きなんだよね。猫の幽霊ってやっぱり怖くない」
 僕の身体を埋め終わって、男が振り向く。その顔は寂しそうに笑っていた。僕の姿がちゃんと見えているのか、一歩ずつ近づいてくる。
「だから、あのまま道路に寝かせておくのは嫌だった。でも時間もなくて。今日はゴミの日じゃないからきっと大丈夫だと思ってゴミ捨て場に袋ごと置いたんだ……悪かったと思ってる」
 僕の前でしゃがんで男は言う。僕も背筋を伸ばしてちゃんと座った。そうすることがいい気がして。
「会社で皆が痛いってなるたびに君の姿は見えていたよ」
 どうしてだろう。男の言葉が嬉しい。そして切ない。
 どうしてだろう。身体から力が抜けていく。自分の意識も消えていく。もうお別れなんだろうか。
「どうして、怒らなかったの」
 分からなかったことを聞いてみる。今なら、いや。今しか聞けないこと。言葉が全然足りないだろうけど、男はちゃんと分かってくれたらしい。
「怒られるのは理由があるからだし。自分がやることをすれば怒られなくなるし。分かるかな?」
 最後のほうで、怒られなくなった男。
 怒って、何かに反論しないで男はやるべきことをやっただけなんだ。
 だから疲れたし、寂しいけど、辛くはなかった。判る気がする。僕だって生きている間はそうだった。遊んだり、ご飯を探したり、疲れたし、お腹空いたし、寂しい時もあった。でも、辛くはなかった。
 なら、僕が今しなければいけないことは?
 決まってる。しなければいけないこと。最後にこの人間に、心からの言葉を送ろう。もう時間はない。短くてちゃんと伝わる言葉で。
「僕を埋めてくれて、ありがとう」
 言葉と共に僕の身体が浮く。ゆっくりと見上げていた顔が水平になって、下になっていく。これが本当に死ぬってことなら、とても安らかに眠れそうだった。
 誰でも良かったんだ。ただ、あのまま道路で寝たままで鴉とかに食べられるのだけは嫌だった。
 死んでしまったことは仕方が無かった。ただ、ちゃんと土に返りたかった。
 ゴミとして捨てられるのも嫌だった。公園の土になりたかった。
 それが叶わないと思ったから、誰でもいいから呪いたかった。怒りを納めたかった。
 でも、僕の願いをこの男は叶えてくれたんだ。
 言わずにはいられない。感謝の気持ちを伝えずには、死ねない。
 だからもう、思い残すことはなにもない。
「さようなら」
 僕を見上げる男の顔は、寂しそうだけど嬉しそうだった。朝は僕が見上げて、今は僕が見上げられてる。
「さようなら」
 呟きと一緒に、僕の意識は消えていく。
 ありがとう。
 さようなら。



 空も沢山走り回って遊べる場所が、あればいいな。


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