濡れたタイル。上がる湯煙。跳ねる水音。身体を流れ落ちていく泡。髪に積もった一日分の埃を落とすシャワーの音。多くの人が露出した肌をこすり、濡らしていく。
銭湯。それがここの名前。
裸の付き合いってどこまでのことを言うんだろうか。
低中高と温度別に三つ並んだ湯船の中で一番左を選び、お湯を溢れさせながら思考する。口元までお湯に埋まりながら眺めていると実にいろんな人がいた。大人も子供も裸。裸体の付き合い。裸体。十九画。裸の身体と書く。でも同性の裸体見てもさして嬉しくない自分がいるわけで。やっぱり裸の付き合いは異性とベッドの上かなと思う。生まれてこの方ご縁がないけれど。
それにしても、風呂は一日の疲れを癒す最高にパートナーだ。
マンションに一人。お湯が沸かせず注ぐしかない暮らしをしていれば、ぬるくなっていく周囲を気にせずにいられる風呂は極楽だった。
「きゃははー」
極楽蝶の舞を踊りだしそうになる身体を両手で抱えていると、目の前を子供が横切っていく。足元が滑るのがそんなに楽しいのか。未成熟の身体を存分に走らせていく足腰。きっと、あと数年したらふんどしが似合う立派な下半身に成長するだろうと思わせる。ふんどしは赤ふんがいいな。白いふんだと汚れが目立つし。身だしなみはふんどしでも大事だよ……とそこまで考えたところで「トシ、走るのは危ないから止めなさい」と髪なのか泡なのか分からない頭部を触りながら父親らしき男が叫ぶ。きっとシャンプーをつけすぎたに違いない。けして髪の毛が少なげふげふん。
でも父親の危惧は現実になった。走ってた子供が勢いを殺せずにシャンプーを洗い流した男の背中に手を突いてしまう。りっぱな金髪が水分を吸って少しくすんでいる、そんな男。後ろを振り返る視線にはあからさまな殺気が込められていた。子供もそれに気づいたのか俺から見ても分かるくらいに震えていた。ああ、これから子供は再び身体を洗わなければいけないほど汚れてしまうんだな、血で。
でも予想に反して男は「気ぃつけろ」と呟いて俺の入っている湯船に近づいてきた。まさか、子供にあたるのは大人気ないから大人にあたるのか? どうするの? どうするんだ俺は!? と気にしていたら男は俺の隣にある中位の温度風呂に入って深く息を吐いた。金色の草原の上にかぶさる白いタオルがアンバランスで面白い。顔に出すのは失礼だから心の中で微笑む。子供は父親の元に返り、説教を喰らっていた。
予想通り父親の頭はまばらな黒い草原だった。そんな頭皮を良く見ながら、自然と声が出る。
「いい湯じゃのう」
二十三歳だというのになんだこの言葉使いは、と自分で突っ込みを入れてしまう。でも出るものは仕方が無い。ちょうどよい湯加減は身体の力を完全に抜かせてしまう。まさにリラックスの王。ほぐしの王様、風呂王(ふろー)だ。
おそらくゆったりとした時、人間は皆でおじいさんになるんだろう。
母親の前で、恋人の前では赤ん坊に戻る男たち。
心の安心で赤ん坊に。
身体の安心でおじいさんに。
そして間にいる俺たち若者。両方を兼ね備えた存在。逆を言えばどちらも満たされていない状態なんだけれど。うむ。ゆったりすると思考力まで低下するな。脈絡なさすぎ。なんか視界も歪んでるし。
「おいあんた。のぼせてるんじゃねぇか?」
隣で風呂から上がる金髪屋が話しかけてきた。話を仕掛けてきたというほうが正しい。きっとこれから世界を制する頭脳戦が――
「目の焦点合ってないぜ?」
優しく伸ばされた手。この手をとったら幸せになれるかもしれない。根拠なくそう思える。
一人で入る風呂。足も全部は伸ばせずに、軽く膝を抱える状態で入っていれば誰でも寂しくなるよ。なんかさ、小学校でいじめられてる子が体育館の隅でしてるみたいじゃないか。大学から帰ってきても誰もいない。それまで友達とワイワイやってたから更に差が見える。そんなんだから銭湯来て何が悪い。何が悪いよ! 悪いって奴は出て来い! でも強そうな人は出なくていいから!
と、そんなことは金髪兄ちゃんには言えなかった。差し出された手を掴む。湯上りねっとり肌だから掌がぬめるかと思ったけれど大丈夫だったらしい。そのまま身体洗う場所まで連れ出されて金髪兄ちゃんは桶に水を浸してくれた。その中に足を入れたらのぼせたのも治るとのこと。
「ありがとう、兄ちゃん」
「気をつけな」
兄ちゃんは少し吐き捨てるように言いながら湯煙の外に消えていった。あれが噂のツンデレって言うやつか。つんつんしててでも優しい。熱が冷めてくるといろんなものが見えてくる。
今、凄く気持ちいい。今まではこの風呂空間にいたけれど、蚊帳の外にいた気がする。ぬるま湯に浸かりながら傍観者を決め込んで、広い風呂の中に一人だけでいた気がした。でも、今の俺はこの場に同化している。純粋に風呂を楽しむ。共に入る男たちと無言だけれど暖かい交流をする。心の交流。裸一貫、原始から与えられている肉体だけで繋がる意識。
気づけば、皆で同じ湯船の中にいる。大きな銭湯。男湯という名の湯船の中に。隣には女湯という別の湯がある。きっと、いつかは隔てる壁さえも越えて一つの湯船に俺たちは浸かることになるかもしれない。
「いい、風呂ですね」
「そうですねぇ」
足を冷やしている間に隣に座った老人に声をかける。優しい笑顔を浮かべたおじいさんは俺の二倍はある肉がついた腕を力強く磨いていく。肌色の宝石が輝きを増していく。
自らの持つ光を更に高めんとする老人の、一つ一つの動作が俺に力を与えてくれるようだった。
人は影響されて生きていく。そんな真理を垣間見た気がした風呂。
足を水から出して、最後の一っ風呂を堪能しに俺は歩いていく。
家庭用の風呂が広がって、次々と消えていく銭湯。でも、古いものの中にも新しい光は転がっている。
温かい世界の中には、幸せが詰まっている。
魔法の言葉を紡げば、誰もが肉兄弟だ。
『はー、いい湯だ』
気づけば人で埋まっていた浴槽から合唱が漏れる。これがきっと裸の付き合いというのだろう。
心も身体も、さっぱりさっぱり。
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