『にゃにゃにゅにょーん』


 山本さん宅の『きゃふん』(オス三歳)は空を見上げていた。白い毛並みが雪と混じって遠目から見ると見分けがつかない。
 家の中は暖房がきいていて少し熱い。大晦日の夜。あと数時間で年が変わるということで飼い主達はテレビを見て内心わくわくとしているらしかった。しかし、猫に年があける感覚はない。明日は明日であり、昨日は昨日。そして、今日は今日なのだけれど、食べたご飯の内容の豪勢さに何か特別な日なのかと『きゃふん』は思った。
「今日のご飯は美味しかったにゃん」
 言ってから口の周りを舌で舐める。ご満悦な様子をじっと見ていた二匹の猫のうち、茶色の毛並みで身体の大きい『もふん』(オス三歳)は足で耳の裏をひとしきり掻いて尋ねる。
「どんな味にゅ?」
 素敵なベースボイス。返答は、伸びやかなテノール。
「そうだにゃぁ……こう……一言では無理にゃ」
 首をひねり、身体をひねって言葉をひねり出そうとしている『きゃふん』だったが、そこに三匹目の猫が言った。
「きっと! お砂糖くらい甘いにょ!」
 透明感があり、冬の空気のように涼やかなソプラノ。唯一のメス猫であり、町内ではアイドルである『はふん』(メス一歳)が転がって白い腹を見せながら言った。背中は茶色。腹は白というコントラストがシンプルであり、印象がいい。この腹見せで落ちなかったオス猫は過少だったが、『きゃふん』も『もふん』も特に気にせずため息をつく。
「確かに美味しいけれど……砂糖じゃないにゃ」
「このまえ鈴木さん家の正男君が砂糖くれたにゅ。甘かったにゅ」
 言い分を否定されて落ち込む『はふん』だが、内心はそこまで落ち込んではいない。二人の話に参加できることでもう幸福に満ちていた。
 生まれたばかりの愛くるしさで、次々と町内のオス野良猫を篭絡してきた『はふん』は、大多数に嫌われていた。狙ってやっているのなら自業自得かもしれないが、『はふん』は天然で自然な動作としてやっていることから、直す方法がない。よって、町内のメス猫達には村八分にされ、母親も彼女を生んだあとにどこかに消えてしまったから仲間が誰もいなかった。
『きゃふん』達以外は。
「それにしても、雪が深くなると人間達がうるさいにゅ」
『もふん』は頭を後ろに回して背中を舐める。その口調には少し苛立ちがあった。
「そうか……『もふん』はこの頃に飼い主さんに捨てられたにゃん?」
『きゃふん』は目を細めて少し辛そうに尋ねる。一年前に初めてであった時にぶしつけに聞いて怒られてからは、その後に許されてもどこかおずおずと聞いてしまう。『もふん』は『きゃふん』の様子に気づいたのかそうじゃないのか、そのまま答えた。
「にゅ。飼い主が悪かったにゅ……」
『もふん』の、元々の長さの半分しかない尻尾が揺れる。飼い主に虐待され、その人間達が引っ越すと同時に捨てられた『もふん』は『きゃふん』のいるコミュニティにたどり着き、彼と仲良くなった。今では町内の中心猫として注目されるようになるまでになっている。苦労を知っているからこそ、深みのある猫となったのだと『きゃふん』は嫉妬交じりに思う。
(『もふん』みたいにかっこよくなりたいなぁ。声も渋いし、リーダーシップあるし)
 そんな『きゃふん』の心情を知らずに『もふん』は『はふん』とじゃれあっている。誰も一緒にいたがらない『はふん』と、『もふん』は近くにある廃屋に住んでいる。屋根はもう穴がいくつも空き、窓ガラスも割れていてもちろん寒さはそのままだ。『きゃふん』は冬の夜を外で過ごす『もふん』達を思うと身体をぶるるっと振るわせた。振るわせたというよりも、振るえたのだが。
 それを見て『もふん』は『はふん』とじゃれあうのを止めて言った。
「そろそろ帰るにゅ」
『きゃふん』が寒さに震えたことをちゃんと見ている。遊んでいる時でも相手の様子確認を怠らない『もふん』に、『きゃふん』は再び羨望の眼差しを向けた。
「かえるにょー。にょにょ」
 起き上がって尻尾を高く突き上げるように背伸びする『はふん』は、少し寂しそうに自分を見ている『きゃふん』に気づき、傍に寄った。
「じゃあ、また明日にょ」
 ほっぺたにキスをして、歩き出す『はふん』。その後ろを守るように進む『もふん』も「明日にゅ」と心地よい声を風に乗せた。『きゃふん』は二匹が消えていった箇所を見ながら思う。
(二匹は……寄り添って寝るにゃぁ)
 雪国で外で夜を明かすのは辛いことを『きゃふん』は知らない。しかし、今感じている寒さから想像することはできた。
 自分では無理だろう。
 最初から、ペットショップの檻の中で飼い主を待っていたような自分では。
 二匹が寄り添って寝る姿を想像する。寒さをしのぐために互いの毛を利用するところを想像する。
『もふん』も『はふん』も、『きゃふん』が知らない世界の猫だ。
 飼い主である山本さんは少し鬱陶しいくらい優しくしてくれる。ご飯もくれるし遊んでもくれる。母親は確かにどこにいるか分からないけれど、この町内にきてから野良猫達に嫌われたこともない。
(僕はずっとずっと、恵まれてるんだろうにゃあ)
 辛い経験をしている、更に野良猫。
 飼い猫である自分と野良猫である二匹の間に、見えないけれど確実に深い溝があるように『きゃふん』は思った。とても仲良くしてくれる『もふん』や『はふん』達が、実はとても貴重な仲間なのかもしれないと、今初めて思った。
「風邪引かないといいにゃあ」
 名残惜しそうにじっとしていた『きゃふん』だったが、玄関のドアが開いて飼い主の山本さん(女性六十歳)が現れると胸に飛びついた。
「きゃふん。風邪を引いてしまいますよ?」
「にゃー」
 山本さんの胸に抱かれながら、廃屋に戻って寄り添っている『もふん』達を思った。このぬくもりを二匹にも分けてあげたい。分けられないのなら、自分が彼らに少しでもぬくもりを上げたい、と。
「また初詣に行きますからね。鈴を鳴らしてね」
 言っている意味を理解できなかったが、山本さんの笑顔に『きゃふん』は鳴いた。感謝の気持ちをたくさん込めて。
 猫に年があける感覚はない。明日は明日であり、昨日は昨日。そして、今日は今日なのだけれど、きっと何か特別な日なのだ。
(なら、僕も特別な日にするにゃ)
『もふん』と『はふん』に対する、感謝の気持ちを特に祈る日。
 自らの大切な友人達へ送る日。
 ぬくもりにまどろみながら、『きゃふん』の脳裏に浮かんでいたのは二匹の声だった。
『にゅにゅーにょにょにょにゃにゅーにょにょにゅにゅにゅ……』
 戯れる三匹の姿が、夢の草原を走っていた。




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