ナイトウォーキング

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 舞台は歩いて端から端まで三十歩はあるフロアだった。
 男がいる場所から見て反対側の明かりが全て消えた。パソコンやプリンターの電源が消えていることを確認し、ドアを開けて去っていく社員の姿をパソコンのモニター越しに見ながら男はほくそ笑む。
 これでフロアにいるのは男ただ一人。北側と南側に別れた建物の三階。すでに男は、目が届かない北側のフロアに誰もいないことは確認していた。
 念のためトイレに行く振りをしてエレベータフロアへと出ると、横にある階段から降りていくスーツの後姿が見えた。これから暴挙を行おうという男にその社員は気づくことなく、消えていった。
「ふひひ。やった」
 時刻は二十三時。残業申請は深夜零時半まで出している。無駄に残っているわけではなく仕事が終わらないためだから、残っていること自体には責められることは無い。しかし、男の目的は仕事を片付けること以上にあることをするためだった。男の内心を上司が知ることとなれば、けして男一人残すことは無かっただろう。
「ふひひゃははは。これ、これで……これで!」
 いつもの男の姿、言動には何も問題は無い。髪は多少薄くなっている三十歳。順調に仕事をこなし、係長クラスの能力は備えている。単純に今の所属に係長がいるから昇進できないだけだ。後輩に優しく、上司にも変に媚び諂わない。上からも下からも慕われる人柄に、徐々に評価は上がっていた。
 だからこそ、男は暴挙に走ったのかもしれない。
「ふぅ」
 男は自分の机に戻ってくると、椅子に腰掛けて深く息を吐いた。これから挑むことに心臓が高鳴っていた。誰かに見られれば一瞬で今までの評価を失うことになろう。もしかすれば、任意退職を迫られるかもしれない。リスクを考えて誰もいなくなった時を選んだが、万が一警備員が残っていれば鉢合わせするかもしれない。今まで数度同じ時間まで残業して自分が向かわない限り警備員が来ることはないと確認しているが、不確定要素はどこにでも転がっている。正に、一世一代の勝負と言えよう。
(ちょうど仕事も終わったし、始めるか)
 パソコンに広がるエクセルファイルを閉じ、ディスプレイが表示される。
 平日仕様の壁紙から休日、残業仕様に変更されたディスプレイには、男性の六つに割れた腹筋のアップが映っていた。余分な箇所など一つも無い。紛れも無く腹筋の部分のみ。何故腹筋とわかるかと言えばへそと分かるくぼみが下に見えるからだった。
「へふぅ」
 まずネクタイを緩める。自分で朝締めたものだが首が圧迫されて仕方が無かった。ノーネクタイが許されており、いつもならば締めてはこないのだが、今回のカタルシスを味わうために男はあえて締めてきた。しゅるりとワイシャツの襟を通って抜けるネクタイ。衣擦れの音が鮮やかに男の耳をくすぐる。
「ぁ……」
 次にスーツ上。椅子にかけてから今度はワイシャツのボタンを一つ一つ丁寧に外していく。男を知らない乙女を相手にするかのごとく、壊さぬようじっくりねっぷりと時間をかけていく。この場合、壊れるものは自分であり、全く気を使う必要はない。でも男の目には徐々に剥かれて行く女の子の姿が映っていた。脳内妄想。強烈なイメージを投影させ、あたかも別の人間がいるかのごとく振舞う。ワイシャツを外されていく女の子は潤んだ瞳で荒い息を吐きながら、止めて欲しいと目で懇願する。
 男は耐え切れず、最後の二つボタンを外さぬまま力任せにワイシャツを引いた。
 ぶちっと取れるボタン。
(脳内で)響く悲鳴。
 男の嗜虐心は頂点に近い。荒々しく袖に通されていた腕を抜き去り、アンダーシャツを脱ぎさる。
 むき出しになった上半身。空調が切られているため室温が上がっており、興奮から生まれた汗が表面を撫でる。どろりと音が聞こえそうな濃厚さ。スプーンですくえば脂身が程よく出ている素敵汁となったことだろう。
「もう、少し」
 ベルトを外そうとすると、ひっかかってカチャカチャと音が鳴る。抑えきれずすでに股間は熱を持っていたが、慌てなくとも目標は逃げることは無い。問題があるとすれば時間だ。時刻は現在二十三時五分。あと一分もあればスーツ下とトランクスを脱いで全裸になる。靴下は脱がない。何故ならそのほうが良い体、もとい良いからだ。
 だがミッションをクリアするにはいささか心もとない。何しろぶつけ本番。シミュレーションは脳内だけで行っており、しかも仕事の合間だったため断続的だ。まとまった時間で出来なかったことがどう響くか分からない。予定時刻より三十分も他の部署の社員が残っていたことは多少計算外だった。
「それでも、いくしかねぇけどな!」
 フロア一杯に響くような声で叫び、トランクスと共にスーツ下をついに脱いだ。尻に直接当たる椅子のクッション。その感触はちりちりとして素肌には刺激が強い。しかし、その快感は今はプラスとして働いた。何しろ普段ならば絶対に感じることの無いものだから。
「はぁあああ。いいぜぇ。たまんねぇなぁ」
 しばらく感触を楽しんでいたが、本来の目的達成まで後一時間十五分となったところで我に返る。涎を拭いて立ち上がると、今まで感じたことの無い爽快感を男は得ていた。
 体中にみなぎる力。邪魔する物は障害物的にも服的にもどこにもない。今、この場にいるのは素のままの自分。視覚的にも飾ることは無い(靴下は覗く)、ありのままの自分だった。
「しゃ!」
 そして男は栄光へと走り出す。もとい、歩き出す。
 手を下にして。
 まず逆立ちでフロアの端にあるロッカーでつま先を支える。そこからちょっと足を使って前に体を進める。スタート地点から離れた男は、一歩ずつ手を進めて行った。上でふらつかせている足をバランサーとして倒れないようにしつつ、前に振ることで勢いをつけて進行速度を上げる。逆立ちは体力勝負。そして速度勝負だ。いくら体力があっても長時間では腕の力が持たない。何しろ三倍の力があるという足によって支えられている体重を二本の腕に変えているのだから、支えることに必要な力も三倍となる。ならば、速度勝負。ゴールまでは順調に行けば十分と男は踏んでいたが、逆立ちが崩れた場合はスタート地点に戻ると自分に枷をはめていた。だからこそ時間を多く取りたかったのだ。
 その、一回目がやってくる。
「おわ!?」
 バランスを崩して膝を付いてしまった。スタートしてからまだ五メートルほど。もう一度初めから。
 両腕を肩幅に広げ、両足を跳ね上げる。自分の体がほぼ直線になるようにバランスを取り、重心を出来るだけ胸の位置へと持っていく。数度足を振って状態を整えてから、二度目のトライ。フロアを掌が噛み締めて進む。普段から様々な社員の靴の裏に踏みにじられている床。カーペットの色も黒ずんでおり、その疲弊度が良く分かる。
(お前等も、辛かったよな。いくら踏まれるために生まれたと言ってもさ)
 どれだけの間、このカーペットは踏まれてきたのか。何十人。何百人の靴の後をその身に刻んできたのか。掌をついて、じっくりとカーペットを見つめている男にはその年月が重く圧し掛かる。肩に。今ははるか高き場所にある足の裏。立場の逆転。足の裏が辿るはずの場所を、今は掌が歩んでいる。一歩、また一歩と。掌低を黒く染めて。
(お、なんだかんだ言ってゴールじゃないか)
 思考しながらが功を奏したのか。さほど肉体的に疲弊しないまま、あと数メートルの位置まで男はたどり着いていた。一度意識したことでバランスを崩したが、持ち直して進む。あと、四、三、二、一……
 がちゃり。
「あ」
 足の裏がフロアの壁に付くのと。
 フロアへ入るドアが開かれ、誰かが入ってくるのは同時だった。
(お、おわ、った)
 あまりにもあっけない幕切れだった。最善の状況を作り出した。それでも無理だった場合、男はもう少し自分が言い訳をするだろうと思っていた。しかし、実際はゴールした姿勢のまま動かない。
 入ってきたのは恐らく警備員だろうと考え、自分の雄姿を目に焼き付けようと固まっていた。
 そう。ミッションはコンプリートしたのだ。

 全裸で逆立ちしたままフロアを横切る。

 たったそれだけのミッションのために今まで準備をしてきた。その準備期間。そして成功の瞬間。
 二つを超えた男にはもう、言うべき言葉は何も無かった。
 誇らしい自分を思う存分見せつけた後で、男は呟いた。
「……警備員さん、ですか」
 敗北宣言。勝負に勝ち、試合に負けた。つまりはそういう事だった。
「ええ」
 声が返ってくる。巡回しないだろうとあたりをつけていた警備員がきてしまったのは不運としか言いようが無い。その点で、男は負けた。
 しかし、返答には動揺が全くなかった。
 警備員からすれば、ドアを開けて入ってみると全裸で逆立ちをして壁に足をつけている状態が目に飛び込んでくるのだ。これに対して「何をしているのか」と尋ねない人間はいないだろうし、ショックも受けるはずだった。しかし、警備員の声には何も感情の動きが無い。最初、かすかに驚いた気配を男は感じたが、あくまでドアを開けた瞬間に何かがいた、という意味での驚きだろう。
 男は、逆立ちの状態をといて警備員を見て言った。
「なあ、なんでおどろか――」
 その言葉は途中で切れていた。
 警備員は、何も身に着けてはいなかった。
 帽子も、警備員の服も、ベルトも、靴も。
 ただ一つ、紺色の靴下のみ身に着けていた。
「よく、頑張りましたね」
 警備員の笑顔に、男の目から一滴の涙がこぼれた。


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