『あけおめ!』
『あけましておめでとう〜』
『今年もよろしくね』
『あと三百六十五日もしたら来年ですね。年の瀬ですね』
伊藤美羽(みう)は携帯に送られてきたメールを次々と読んでいた。でも返信する気力が沸かずに、全てを読むと先ほどまで自分を包んでいた布団の中に戻る。
年が変わった瞬間には携帯での連絡を管理するセンターがパンクでもしたか、結局繋がらなくて美羽は初詣を終えてからすぐに寝たのだった。
今まで生きてきて初めての、たった一人の初詣は意外と悲しくはなかったが、つまらないものだった。
(……それもこれも父さんのせいよ……)
一月一日の、陽光が地上へと降り注ぐすがすがしい日。
美羽は今年最初の怒りを喧嘩中の父親へと向けた。
旧年の十二月の初めに大学後の進路について喧嘩をしてから一月、実家と連絡は取り合っていない。
携帯の着信拒否機能を使い、両親からの電話はかからないようにしてある。メールアドレスも拒否対称に設定したためメールも送られてくることはない。
その結果としての、一人の年越しだった。
(大学院に行きたいっていうのに……何が「就職しろ」よ。「これ以上大学にいるな」よ。あー、腹立つ)
喧嘩の原因を思い出して、また美羽の頭に血が上りかけたその時、携帯に着信があった。
その着信音を聞いて、美羽は気分が一気に晴れていくのを感じた。慌てて布団から飛び出すと折畳式の携帯を開く。
着信は祖母からだった。
「もしもし? おばあちゃん?」
『あけましておめでとう、美羽ちゃん。年末に言っていた通り、今日のお昼にはそちらに行くからね』
「うん。……大丈夫? 迎えに行く?」
『いいよいいよ。待ってらっしゃい』
そのまま美羽の祖母は電話を切った。電話口から聞こえてきた声は少し擦れ気味ではあるが柔らかく、耳障りの良い声である。
美羽は昔から祖母が好きだった。その声を聞いていると無条件で落ち着くことができ、両親と別居している祖母の家が美羽の通う大学がある街にあることから、大学生となってから年に数回、祖母の下へと出向いている。
大学での対人関係や、勉強のことなどに悩むたびに両親よりも祖母に相談していたのだ。
そして美羽が父親との喧嘩から実家には帰らないことを祖母に宣言すると、ならば自分が美羽のところへと行ってあげよう、と言い出したのが前年の三十日だった。美羽からすれば嬉しいことだが、七十を超えたことで動きが鈍っている祖母を歩かせるのは気が引けた。だから最初は自分が祖母の家に行くと言ったが、美羽の住んでいる場所を見てみたいという祖母の要求を優先させることになった。
「……掃除しないと!」
自然と呟く声に柔らかさが混じる。
美羽は寝起き姿の自分を思い出して、まずは着替えから始めた。
* * * * *
美羽の住んでいるマンションの部屋。
そこに備えられているチャイムが鳴った。トレーナーとジーンズ姿で掃除をしていた美羽は掃除機で最後の埃を吸収すると、美羽は掃除機を片付けながら「はーい」と玄関口へと声をかけた。玄関の傍にある靴などを収納できるスペースに掃除機を収めて、玄関の鍵を開けるとゆっくり扉を押した。
「いらっしゃい、おばあちゃん」
「元気していたかい? 美羽ちゃん」
美羽の祖母、久子は目を細めて微笑んだ。目元によるしわ以外はさほど顔に深くしわは刻まれていない。七十歳にしては肌は若かった。だが、部屋の中に入る久子の動作は鈍い。
右足を少し引きずるように歩く姿を見て、美羽は後悔した。
(やっぱり私が行けばよかったな……足痛いのに、おばあちゃん)
久子が数年前に足を悪くしてから急速に弱っていったことを、美羽は悲しく思っていた。それだけに自分から出歩くと言った久子を止められなかったのだが、久子の姿を見てそのことを悔やむ。
「美羽ちゃん? どうしたんだい?」
美羽の様子の変化に気づいたのか、久子は首をかしげながら美羽を見る。彼女は慌てて首を振り、何もないと否定した。そのまま美羽は久子に座布団を勧め、お茶を入れるためにお湯を沸かし始めた。久子は持っていた小さいバッグを横において、座布団の上に座る。
「おばあちゃん。来るまで大丈夫だった?」
「大丈夫だったよ。タクシーで来たんだから。歩いたのはほんの数分さね」
「そう……良かった。あ、まだ言ってなかったね」
手馴れた動作できゅうすに入ったお茶葉を取り替えてながら、美羽は久子と話を続ける。その中で言い忘れていたことを思い出し、美羽は久子に向き直って姿勢を正した。
「あけましておめでとう、おばあちゃん。今年もよろしくお願いします」
「あけましておめでとう……」
久子の言葉をそこまで聞いた時、お湯が沸いて白い煙をやかんの口から噴出させた。美羽は慌てて火を止めると、きゅうすにお湯を入れる。それから二人分の湯呑みにお茶を入れて久子の傍へと座った。
「はい。おばあちゃん。今年もよろしくね」
湯呑みを受け取り、久子は頷いた。音を立てておいしそうにお茶を飲む久子に満足して、美羽は自分も飲む。音は立てなかったが、熱いお茶はおいしかった。
「そうそう。今日はね、このためにも来たのよ」
そう言って久子は一枚のはがきを取り出していた。
美羽はそれを受け取り、裏を見てみた。
小さい筆を用いて描かれた鳥の絵と言葉を見て、美羽はため息をつく。
「相変わらずおばあちゃんの年賀状って凝ってるね」
美羽も中学の頃は自分で絵を描いて友達へと年賀状を出していたが、高校にもなると親が頼んだ裏に絵柄などがプリントされた物に頼るようになり、大学になって携帯電話を持つようになると、年賀状では数人にしか出さずに大半はメールで済ませるようになった。
そうやって自分のスタイルが変わっていく中で、久子の年賀状は美羽が小さい頃から全く変わらずに自分なりの絵を描いて送ってきてくれていた。毎年、美羽は久子の年賀状を楽しみにしていたのである。
「あ、でもどうして手渡しなの?」
「ごめんね。年賀状を書こうかって時に少し風邪を引いてね。治った時にはもう元旦には届かなかったんだよ。でもどうしても元旦に渡したかったから、どうせなら自分で渡そうと思ったのよ」
「そっか……ありがとね、おばあちゃん」
美羽は嬉しくなり、また年賀状を眺めていた。久子と向かい合っているためにはがきで久子が隠れる形になる。はがき越しに、久子の声が美羽へと届いた。
「美羽ちゃん。親と喧嘩もいいけれど、やっぱりもう一度よく話し合いなさいよ。きっと分かってくれるから。だってあなたの親なのよ?」
「……そうなんだけど、思い切り喧嘩しちゃったからこちらから謝りづらいというか……」
美羽は自分の羞恥心を久子からも隠すように手紙を自分の顔に近づける。その時、手紙に違和感があることに気づいた。
今年の干支である鳥の絵は素晴らしく、何も足りない物はないが、そのはがきには何かが足りなかった。それを探す間にも、久子の声は続く。
「確かに美羽ちゃんから謝るのは恥ずかしいことかもしれないけれど、そこで意地を張り続けたら取り返しのつかないことになるかもしれない。そうなったら、おばあちゃんは悲しいんだよ」
「……うん」
美羽は不思議な感覚を得ていた。
自分は久子の話を聞かずにはがきの中の違和感を探しているはずなのに、その言葉は正確に美羽の脳裏に刻まれている。一字一句、聞き漏らしてはいない。相槌を打つのは反射的に出ているものだったが、話を理解していることで申し訳なさが生まれる。
「ここに来たのはね、美羽ちゃん。美羽ちゃんの背中を押すために来たんだよ」
「――え?」
その声は久子の言葉に対しての疑問ではなかった。はがきの中にある違和感に美羽はようやく気づき、しかしその意図が読み取れなかったのである。
はがきには素晴らしく上手い鳥の絵と、年賀状にあるべき言葉が書かれている。
『あけましておめでとう』
しかし、もう一つの言葉はなかったのである。
『今年もよろしくお願いします』という言葉が。
(そういえば……さっきも言ってもらったっけ?)
美羽は急に周囲が暗闇になったかのような不安に襲われて、思わずはがきから目を離して久子に問い掛けていた。
「おばあ――」
しかし久子への言葉は不完全な形のまま消えていく。
久子の姿はどこにも見当たらなかった。はがきを置いて周りを見てもどこにもいない。もともと一人暮らしのため部屋は小さく、死角といえばトイレと風呂場がある場所以外ない。立ち上がってそこを見ても、久子の姿を見つけることが出来なかった。
「どこに、いったの!?」
慌てて玄関まで行くと靴もなくなっている。振り返り、久子がいた場所を見ると持ってきていたバッグもなくなっていた。また部屋に戻ると、はがきが床に置いてある。湯呑みも二つあった。久子が飲んでいたほうは空となっている。
「どういうことなの……?」
美羽は恐ろしいと言うよりも不安で仕方がなかった。何か、体中の力が抜けていくような気がして、美羽はその場に座り込む。
そして、携帯が急に鳴った。
(おばあちゃん!?)
美羽はジーンズのポケットから携帯を取り出して相手も見ずに電話に出た。
「もしもし!?」
『美羽! ようやく繋がった……』
聞こえてきた声は久子とよく似ていたが、若干若い物だった。美羽は何が起こったのか分からず硬直し、動転しながらも言葉を紡ぐ。
「お、おかあ……さん」
『そうよ! あなた……今までどうして電話に出てくれなかったの!?』
美羽の中では、いつも落ち着いた調子で話す母親の印象が強かったために、少々ヒステリックになっている母親の声を聞くのは初めてで、よけいに混乱した。しかし、電話口の相手が変わる気配に、気を引き締める。
『もしもし。父さんだ。よく聞いてくれ』
母親とは逆に、美羽の中では怒った時はわめき散らす父親の印象が強かったために、静かに語りかけてくる父親の声は、美羽を落ち着かせた。
「なにか、あった?」
それは久しぶりに美羽から父親へと向かう言葉だった。父親は一度息を吐いたのか、息の音が美羽の耳にも入る。
『おばあさんが、亡くなったよ』
「……え?」
即座に美羽は自分の手に握られていたはがきを見た。そして、それをいつ自分が床から拾い上げたのか思い出せないことに驚く。冷静に事態を把握出来るようになって、疑問が噴出してくる。
『今、秋吉町の病院にいるんだ。あ、外には出ているが。おばあさんは年が明ける一週間前から入院してて、三十日に危篤状態になったんだ。美羽に連絡をしようと思ったが……刺激しないほうがいいだろうと、俺が判断した』
「そんな……でも……」
今、おばあちゃんが部屋に来た、と言おうとして、美羽は自らの涙のために言葉を紡げなくなっていた。出てくるのはただの嗚咽となり、電話の先の父親も声をかけられずに黙ったまま時間が過ぎる。
『とにかく、もう少ししたら迎えに行くから、用意をして待ってなさい。いいね』
「――うん」
ようやく肯定の返事だけを搾り出して、美羽は電話を切った。
それからもしばらくは出てくる涙を拭いて「おばあちゃん」と呼び続けていた美羽だったが、衝動も収まり、手に握ったままの年賀状を見た。
そして久子の言葉を思い出す。
『美羽ちゃんの背中を押すために来たんだよ』
美羽は久子が死ぬ前に自分に逢いに来たのだと悟った。自ら作っていた年賀状を渡したかったし、父親との連絡をまた取り合うようにするために、来てくれたのだ。
いつの間にか母親の携帯の着信拒否がなくなっていたのは不思議だったが、それは久子がこの場に現れたことに比べれば些細なことのように思える。
美羽は涙を拭くと、はがきの裏面を見る。
そこには『あけましておめでとう』の文字。一緒についてくる言葉がないのは、もうその言葉を言い合うことは出来ないからだ。美羽は再び悲しみが込み上げてきたが、その衝動は押さえ込み、目じりに浮かんだ涙を拭いた。
「ありがとう、おばあちゃん。今度はちゃんと、逢いに行くからね」
美羽は歪んではいたが、精一杯の笑顔をはがきに向けた。感謝の気持ちと申し訳なさが同居した奇妙な笑みを。
はがきに描かれた鳥の顔が、微かに笑みの形になったように美羽には見えた。
『完』
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