僕の世界と彼女のしあわせ

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 Sec.1

 僕が彼女に飼われるようになったのは、特に劇的な出来事があったわけじゃなかった。
 季節は春から夏に変わりかけていて、草も長くなり木も青々とした葉を付けていて、そんな中で僕はいつものように餌を求めて田中さんの家の前でご飯が来るのを待っていた。
 彼女はたまに遠くの道を通りかかっては僕のほうを見ていた。
 その顔に浮かぶのはほんわかとした何か。一度や二度ならまだしも、多分僕が数えられないくらいの回数はじっ、と見てきたんだと思う。
 そして、彼女は名残惜しそうに顔をしかめながら自分の家へと戻るんだけれど、その時はちょっとだけ事情が違った。
「おいでーちっちっちっちっ」
 手招きをしながら持っているビニール袋をちらつかせている彼女。中に何が入っているんだろう? 興味を惹かれて足を一歩だけ踏み出すと、彼女はとても嬉しそうに手を中に入れて、何かを取り出した。どうやら食べ物らしい。
「もらっていいの?」
 尋ねたら彼女は顔を輝かせて袋を振った。まだ中に入っている音がする。
「いいの?」
 そう、一声かけると彼女はもう一つ、丸いものを取り出す。剥がすような動作をして中身を取り出すと、僕に向けて投げようとしてきた。
 きっと、食べものだ。
「わーい!」
 お腹が空いていたからとても嬉しくて、足取りが軽くなった。傍によると彼女は笑って傍に近づいてくる。いつも遠くから見ていただけだったから気づかなかったけど、田中さんと同じくらい大きい人間だ。
「かわいー!」
 彼女は掌に食べ物を載せて差し出してきた。最初はちょっと戸惑ったけれど、ゆっくりと鼻を近づけるとおいしそうな匂いがした。大好きなお魚の匂い。一口食べたら、もう止まらなかった。
「美味しそうに食べるね」
 尖った耳の右から左に彼女の言葉は抜けていく。僕を満たすのは言葉じゃなくてご飯だ。美味しい。美味しい。
「か、かわいいー」
 唐突に彼女の声が甲高くなった。今まではどこか押さえ気味の静かなものだったのに。そして身体が地上から離れる。
「え、何? 何?」
 ばたばた動くけど彼女は離してはくれなかった。首の後ろを持たれたまま、僕は彼女に連れていかれる。少し痛かったけど、すぐに足元に手を置いてくれたから痛みは無くなった。
「離してよー」
「野良猫だし、飼ってもいいよね? 良いよね?」
 彼女は何かを言っている。僕の言葉にじゃなくて、他の誰かに尋ねているように。
「何? 何?」
「飼ってもいいよね? 良いよね?」
「なんなの? あれれ?」
 歩いていく先には物置。そこで彼女は僕をまた少しぶら下げて持ったまま何かを探し、それから物置から離れてカチャという音を立てて家の中へと入った。


 こうして僕は彼女の飼い猫になった。どこまで歩いても果てがない世界から壁のある場所へと僕の世界は小さくなった。



 Sec.2

 彼女の飼い猫となって一週間が過ぎていた。身体を洗われることから始まり、用をたす場所やご飯の時間などいろんなことを教えられた。
 幸い、僕は物覚えが良かったのか特に彼女に怒られる事はなかった。いきなり訪れた生活だけど、少しも悪い気持ちはしない。
「――は頭良いね」
 彼女はよく何か言葉を言って僕を抱き寄せてきた。それは僕の名前らしいけど、上手く聞き取れない。
 僕の身体は小さいから力を込められるときっと潰れてしまうけど、彼女は優しくしてくれる。何度も背中を撫でられるのは気持ちいいし、胸の奥が熱くなって嬉しかった。
「仔猫と抱擁するの、夢だったのよねー」
 そう言って笑う彼女の長い髪の毛が背中で揺れる。
 顔をひっつけられるとかすかに甘い香りが僕の鼻に入り込んできた。間近で見る彼女の顔はとても綺麗と思う。同じ猫達の顔の見分けはつくんだけれど、人間のそれは分からない。ただ、こんな甘い香りをしている人が美しくないとは思えなかった。
「ねえ。君はどんな暮らしをしてきたの?」
 彼女はどうやら問い掛けてきているらしい。でも、言葉の意味が分からない。
「何を言っているの?」
 問い返してみるけど彼女は「そう?」とか「ふーん」などと首を頷かせたりするだけで答えてくれない。不満に思ったけれど、そういえば僕も猫だし、彼女が理解できるわけないかと悟る。
「お腹すいたー」
 通じないものは仕方がない。
 ちょうどお腹空いたしと言ったら彼女は僕を置いて餌を取りに行ってくれた。どうしてか分からないけど、食事のことは意味が届いた。
「人間って不思議ー」
 餌が来るまで床にころりと横になった。高い天井とあかりが灯る物。外にいないから分からなかったけど、もうあかりがつく夜なんだ。
 狭い世界。
 一週間前まで僕がいた、広い世界。
 そう言えばその時の記憶ってあまりない。
 草がたくさんあって、寒くて熱くて障害物があってカラスとかいて、袋に入った食べ物があったりそれをカラスと取り合ったり色々大変だったのは覚えている。でも、この家には一週間前に来たけれど、広い世界に僕がいつからいたのかは分からない。それを教えてくれる人がいなかったように思う。
 きっと、僕の飼い猫としての猫生は新しく始まったんだ。
 それも悪くない。ここにいると食べ物はくれるしちょうどいい暖かさだし、楽だ。
「ご飯だよー」
「はーい!」
 体勢を戻して彼女がご飯の乗った皿を置いた場所へと走った。たどり着いた時に、ちらりと袖口にある傷痕が目に入った。すぐに手を上げてしまったから良く見えなかったけれど。
「人間も爪とぎ?」
 地面とかじゃなくて、自分の身体でやるんだろうか? 変だなぁ。
 食べてる間に彼女を見上げると、頭を撫でてくれた。少しだけ寂しそうな顔で、泣き出してしまいそうに見えた。


 こうして僕は彼女と暮らしていた。どこまで歩いても果てがない世界から壁のある場所で、餌をくれる人が田中さんから彼女へと変わって。



 Sec.3

「行ってきまーす」
 玄関から出て行く彼女の背中をじっと見る。
 どこか寂しそうに僕を背中越しに振り返りながら出て行く彼女。
 引き止めようと鳴いたけど、彼女は笑ってドアを閉めて出て行った。続いてカシャッと音が鳴る。
 ガララ、と外側のドアが開く音がして。
 周りは静かになった。
「ふみぅ」
 何もすることがないから、ちょっと呟いてみる。意味のある言葉じゃなくて、ため息みたいなものだ。
 僕は彼女がいない間は家の中の探検に終始する。確かに前までいた世界と比べたら小さいけど、それでも僕には大きな世界だ。
 いつもご飯を食べる部屋に行くと、今日は中央に大きな花が咲いている。テーブルの上にある花瓶に差し込まれた花。匂いは、しない。触ってみても外にあったような花の感触じゃなかった。
「へんなの」
 テーブルの上から更に高いところに昇る。傍にあったのはガラスの中にいろいろ入っている物。スペースを見つけて飛び移ると、ちゃりんと丸いものが音を立てた。ぽんぽん叩きながら周りを見る。
「誰もいないんだなぁ」
 独り言。
 それも空気に消えていく。
 今まで彼女と暮らしてきて、ここには彼女以外誰もいないと分かった。僕が来るまで彼女はどんな暮らしをしていたんだろう? 一人で寂しくなかったんだろうか。
 急にこみ上げてくる何か。
 この風景を僕は知っている気がする。
「なんで?」
 今までずっと飼い主を持たない野猫として外で生きてきた。雨が降ったら車の下や家の下に潜ったり、ゴミ箱やゴミ袋をあさって残飯を食べた。こんな暖かい家に記憶なんてあるはずがないんだ。
「でも……」
 知っている。
 頭じゃなくて、感覚が知っている。
 この光景を。
 隣を見ると、表面を透明な物で覆って木枠に囲まれた何かがあった。覗き込んでみると、彼女と誰かがいる。彼女は嬉しそうにもう一人の人間の腕に抱きついていた。
 彼女が、けして僕に見せない顔。
 優しくしてくれるけれど、見せてはくれない心からの笑顔。
(誰なんだろう?)
 彼女の隣で抱きついている人間は恥ずかしそうに頬を染めて笑っていた。心の中では嬉しいんだけれど、表に出すのが恥ずかしいという顔。
 うん。きっと、嬉しいんだ。照れくさいだけなんだ。
「うん?」
 僕は今、何を思ったんだろう?


 いつしか、この部屋には懐かしい匂いがした。


 Sec.4

 彼女との暮らしも二週間が過ぎた。彼女の隣にいた人間も他の誰もいない場所。狭い世界。彼女と二人だけの世界に、僕は今も生きている。
 帰ってきた彼女が取り出したのは、袋の先に紐がついているものだった。
「お守りだよー」
 彼女はそう言って紐をわっかにして僕の首にかけるけど、紐が長すぎたから何回か巻いてちょうどいい長さにしてから再びかけてくれた。
「これで安心だね」
 何が安心なんだろう? どこか彼女の顔に赤みが指している。吹きかけてくる息には嫌な匂いがした。つんと鼻を突く匂い。気分が高揚しているのか僕を初めて見た時のような甲高い声だった。
 一週間前に見せた少し沈んだ表情も最近は見かけない。そんなことがあったんだと全く感じさせない笑みを浮かべている。
 このお守りは多分、大事な物なんだろう。
 僕から離れた彼女は冷蔵庫から乳製品のカップを、違う場所から砂糖の入った小さな箱を取り出した。僕がこの家に足を踏み入れたときからずっと夜に食べている組み合わせ。それだけしか食べないで体を壊さないんだろうか?
 昔から彼女は変わらない。あの時も僕が――

 あの、時?

「君は一緒にいてほしいな」
 言葉に反応した時には彼女は一気に乳製品を食べ終えて、彼女は僕を抱きしめてくれる。今の一瞬で食べ終えたわけじゃないだろう。僕の意識が飛んだのだろうか?
 彼女は口の周りにつけたままでキスをしてくるから、ほっぺたに白い物がつく。
 そう、彼女はいつもこうして僕を困らせた。困った顔をして手で拭き取るとしてやったり、という顔で笑った。
「あのね、聞いてくれるかな? 私、今は幸せだよ」
 僕の脇に手を挟んで持ち上げる彼女。寝転がったことで僕が見下ろす形になる。
「あの人が死んで。いっぱい泣いて。いっぱい叫んで。いっぱい悲しんで。いっぱい怒って。いっぱい苦しんで」
 徐々に彼女の瞳に溜まっていく涙。僕の姿は、彼女にどう映っているのだろう?
「それでも、こうして生きている。世界は辛いことたくさんあるけれど、些細なことでも幸せもたくさんある。あなたにも会えたしね」
 顔の横を伝っていく涙。床に染み込んでいく。それでも、彼女の顔にあるのは悲しみではなくて、喜びなんだと感じる。
「私はこれからも生きていく。一人じゃないよ? 偶然だけど君もいるんだから……って、酔っ払ってるね私」
 はは、と笑って僕を降ろす彼女。
「君に言っても分からないよね。でも……新しい同居人には言っておきたかったの。ごめんね」
 確かに頬が赤くなっていて息もどこか酒くさい。よろめきながら風呂場へと向かう彼女の背中を見て、僕はようやく悟った。
「分かってるよ」
 一声鳴くと彼女は僕を振り向いて笑った。「分かってるの?」と呟いて、僕が頷くと目を細めて微笑んで、風呂場に消えていった。
「僕はここにいるよ」
 神様のいたずらなのか、一年前に死んだはずの僕が、ここにいる。野猫だった記憶が曖昧なのも当たり前か。一年前には人間だったんだから。
 どうして猫として生きているのかも分からない。幽霊ってことなんだろうか?
 僕が猫になっている理由も、酒が飲めなかった彼女が酒に酔っている理由も想像は出来るけど確証はない。
 ただ、確かなのは。
 彼女の手首にちらりと見えた傷痕は、今でもたまに引っ掻いている証拠だ。 きっと、僕が死んでしまったショックはいまだに彼女を苦しめているんだ。
 それでも、彼女は生きている。僕に向かってあんな言葉を紡げるように。
「いつまでこうしているか分からないけど……きっと、いるよ」
 僕の言葉は聞こえないのかもしれないけれど、きっと思いが届く時が来る。
 せめて彼女の手首に傷痕が増えなくなるまでは、彼女と共にいたいと思う。

 彼女が新しい幸せを見つけるまでは。



 世界は僕が死んだ時も、猫として外を駆け回っていた時も、彼女が悲しみに沈んでいた時も止まらない。
 でも、辛くても進み続けると、死んだ人間が猫になったり彼女と再会したりというような奇跡も起こるんだろう。
 辛いことや嫌なことがたくさんある中でも、些細な幸せを求められるだけでも十分だと思える。
 生きていける。


 きっと、彼女はこんな世界を好きだし、僕も好きなんだと思う。





 テーマ・幸せ

 お題「仔猫・お守り・抱擁・お砂糖・あなたのそば・あかり・花・お金」から四つ以上任意に選択。

 制限時間二時間。原稿用紙17.5枚。


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