睦夫

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 睦夫(むつお)の唇は乾いていて、でもしばらくすると湿り気を帯びて弾力が生まれていた。口づけの瞬間はいつも恥ずかしい。でも、この行為で睦夫に素晴らしい今日を迎えさせることが出来るのなら、姉として正しいことなのだと思う。底にあるのが弟への愛情というよりも、一人の男の子へのそれだとしても。
「睦夫、おはよう」
 唇を離して呟くと、瞼がぱっと開いて下にあった瞳が私を見つめる。その黒目は澄んでいて、近親愛というどこか社会から外れた愛情を持っている私には痛い。胸の奥に待ち針がずっと入っているかのように、ちくちくと断続的な痛みを伴っている。
「おはよう。お姉ちゃん」
 それでも、睦夫の声を聞くとすぅっと傷口が塞がる。一つ一つ針に刺された丸い穴が、ビデオの巻き戻しのように修復されていく様子が手にとるようにわかった。睦夫の声には力があるに違いない。私の口づけに力があるように。
 いつもするように睦夫を抱きしめていると、ドアがノックされた。私の返事を待つことなく開かれたドアの隙間から顔を出したのは一輝兄さんだ。今年で二十五歳になる医学部生。医者兄弟の長男というだけあって、とても頭の良さそうな顔立ちと雰囲気をかもし出している。そんな兄さんを私は大嫌いだ。
「おはよう、伍子(いつこ)。そして、睦夫」
 いつものように睦夫へはおまけのように挨拶をする。口調は優しいけど、兄さんは睦夫のことが大嫌いだった。何しろ、十年前に階段から睦夫を蹴落としたのは兄さんだったのだから。それから睦夫はこんな風になったのだから。
「おはよう、一輝兄さん。大学に遅れるよ」
 内心で嫌っていても表では良い子を演じる。兄は兄である。そして、駄目な兄ならば堂々と嫌えるが、嫌っている私から見ても一輝兄さんは良い人間だった。兄弟六人をまとめるに相応しく。
 駄目なところは睦夫を嫌っているところだけで、それ以外は隙がない。たった一つの感情で敵対すれば私が説教されるのは目に見えていた。
「伍子も学校に遅れるよ。今日は中間テストだったろう?」
「きょうだいのスケジュールも管理できてて凄いですね。じゃあ、睦夫のことは知ってる?」
「睦夫もテストだろ。中学も高校もこの時期はテストだ」
「本当、詳しいわね」
 確かにそうだった。睦夫も今日はテスト。昨日の夜も私がテスト範囲を教えたのだ。昨日だけじゃない。春のテストも、中学の入試も、小学校の時も。ずっとずっと私だけが睦夫に教えてきた。私の上にいる四人の兄は話しかけはしてもけして睦夫を傍に置くことはなかった。まるで腫れ物を触るように。自分の兄弟ではないというように。
 睦夫の味方は私だけだった。時折親でさえも睦夫をいないものとみなしているように思えた。
 何故こうなったのか分からない。でも、それも全て睦夫が階段から落ちて意識を失った十年前から始まった。
 十年前。私が七つの時、一緒に階段の傍で遊んでいた睦夫を一輝兄さんは何を思ったのか蹴った。五歳だった睦夫の身体は軽々と転がり、そのまま階段を階下に向けて転がっていった。
 今でも目を閉じると甦る光景。
 絶叫する私。悪びれない一輝兄さん。私の声に集まってくるほかの兄弟。そして、口づけ。
 絵本か兄達からか、両親からか忘れたが、口づけをして生き返る人の話を聞いたことがあった。幼い私はきっとそれに感化されてしてしまったのだろう。何しろ、私はその時初めて睦夫を異性として愛していることを知ったのだから。初恋の衝動は私を行動させるには十分すぎた。
 私の口づけを誰も責めず、止めない。視界には入らなかったが、きっと誰もが驚愕していたに違いない。首が変な方向に曲がっていた睦夫の目が開いたのだから。私が口を離すと睦夫は自分で曲がった首を直し、私に微笑みかけた。そして言ったのだ。
「ありがとう」と。
 その言葉は私の心の傷を癒してくれた。同時に、私の口づけに人を生き返らせる力があることも知った。きっと神様が睦夫を失おうとしていた私を哀れんでくださったのだ。
 たとえそうじゃなくても、私はこの力を嬉しく思った。成績優秀な五人の兄達。いずれ医者の道で数多くの人々を救うだろう彼らと違って、私は頭が悪いから医大にはまず入れない。医者となって人々を救えない。
 そんな駄目な私に、人を救う力が与えられたのだから。
「じゃあ、遅れないようにな」
 ドアを閉める一輝兄さんに手を振る。扉が閉じた瞬間、私は睦夫に抱きついて口づけをする。睦夫は恥ずかしそうに頬を染めるけれど、身体をゆだねてくれた。
 睦夫を癒す私。睦夫に癒される私。唇を離して私と睦夫は制服に着替える。
 時間は七時。
 ご飯をゆっくり食べても十分間に合う。今日は何だろう?
 二人で部屋から出て階下に降りようと数段足を下ろして止まる。見なくても分かる。一階の居間には家族が全員揃っている。ドアを隔てたそこでは、皆が少し真剣な顔をして話をしていた。最近、家族がしゃべっている話の内容が理解できない。昔はもっと分かりやすい会話をしていた気がするのに。
 窓から入る光もなく、私は暗闇の中で耳をすませた。
「感覚は短くなってるんだろう?」
「徐々に現実に戻ることで、精神的ショックを和らげようとしてるんですよ」
「伍子は心の底では認めてるんですよ。口づけの回数も増えてるし」
「睦夫が生き返る周期が短くなってるってことだね」
 話題が出て、睦夫は私の手をそっと握る。かすかに汗が滲んでいた。私もそうだったかもしれない。二人の汗が混ざり合い、どちらのものか分からなくなる。
「十年、か」
 お父さんがため息混じりに呟く。声に含まれる疲れと、希望。離れていても、空間を伝わってくる、痛み。
「伍子が現実を受け入れた時、家族みんなで支えることが私達の罪を償う唯一の方法ね」
 おかあさんが涙をこらえながら呟いた。それに従ってほかのにいさんやおとうさんも頭をたれた。そしてかずきにいさんも泣きそうになってつぶやく。
「俺達がもっとあいつを構ってやれば、良かったんだよな。寂しかったから……あいつは……」
 じっさいに見えるわけがない。聞こえるわけがない。でも、見える。聞こえる。壁をへだてた居間の中が。あつまる家族が。わたしを哀れむ声が。
 かこからの、よびごえが、きこえる。
 過去からの、呼び声が、聞こえる。
「帰ろう」
 睦夫がきゅっと私の手を握って言った。私は頷いて足音を立てずに部屋に戻る。
 扉を閉めた瞬間、睦夫は床に倒れた。私の生命の息吹が切れたんだろう。でも、また口づける気力は無くて、代わりに枕に顔をうずめた。布団を被り、寝る。いつの間にか制服を脱いでいた。あるいは最初から着ていなかったのかも知れないし、そんなことはどうでも良かった。
 顔を上げて動かなくなった睦夫を見る。でも、そこには古ぼけた男の子の人形が転がっていただけだ。首の部分は何か強い衝撃でもあったのか、補強しているセロテープに透けてひび割れが見えた。睦夫は私が顔をうずめている間にトイレにでも行ったんだろう。あの人形は単に床に落ちていただけだ。
 そう言えば、睦夫の身長とあまり変わらないように見える。十年前から睦夫の身長は止まっているが、それも仕方がないのかもしれない。睦夫は十年前に首が折れて死んだんだ。それを私の力で生き返らせているだけだから、成長はしないんだ。
「また明日、生き返らせてあげるから、ゆっくりお休み」
 床に倒れている睦夫を見ながら呟いて、布団を頭から被る。すぐに顔を出して時計を見る。
 時刻は午後八時。
 さっきから三十分くらいしか経ってない。でも気だるい身体はすぐ睡眠を運んでくれそうだった。
 今日は学校楽しかったな。あまり好きじゃない家族といるよりもよっぽど楽しい。睦夫がいなかったらきっと家出してるだろう。素敵な友達がいるし大好きな先生がいるし。でも何をやったかな。今日は確か分数の掛け算をした気がする。前に出て黒板に計算を書いて正解して先生に喜ばれたんだったかな。でもそれは昨日だったかな。一昨日だったかな。
 ……かな。
 布団越しに伸ばした手は睦夫の手に繋がる。
 冷たかったけど、やっぱり安心した。


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