『美由紀/深雪』





 痛みによって、俺は目を開けた。

 視界が開けても、ぼんやりとしていて見えているものが何なのか良く分からない。

 焦点がぼやけているんだろう。でも、その状況でも辺りが暗いことだけは分かった。

 頭の奥のほうからくる痛みが俺の意識を覚醒させていく。それでも回復しない視界に、

初めて恐怖が湧きあがってきた。

 俺は一体どうなったんだ?

 何をしているんだ?

 どうやら仰向けになっているらしく、背中に柔らかい感触がある。身体を起こそうとし

たら激痛が駆け抜けた。

「――ぁ」

 弱々しい声。口の中に広がる鉄の味。

 身体に走る痛みだけじゃなくて、何かに固定されているから立てないことにようやく気

が付いた。痛みに気をつけながらゆっくりと左に視線を向ける。自分の腕さえも良く見え

ないが、ほぼ真横に広げられているらしい。自分の身体から続いている黒地の服らしきも

のが見えた。次に反対方向へと視線を移す。

 頭だけじゃなくて身体からも痛みが噴出してきた。今まで活動を停止していた神経が俺

の意識の覚醒と共に目覚めていく。

 時間間隔も狂っていたが、一分ほどかけて首を右に向けると投げ出されている手が分か

った。そして、その下には白い物が広がっていることも。

 雪だ。

 俺は今、雪の上に倒れている。

 それを意識すると様々な情報が理解できるようになっていた。

 俺の身体は雪の上に倒れているんじゃなくて、雪の中に埋まった状態でいるらしい。そ

してその上に何かが覆い被さっている。少しだけ顔を上げ、正体不明のそれに頭をなすり

つけた。帽子は被っていなかったから、髪の毛越しに感触が伝わる。

 それは硬くて、平たい物だ。何度か頭でそれを叩くとコンッコンッ、と音がする。中に

空洞でなければまず鳴らないだろう。

 車のボンネットだ。

「そう、か」

 ようやく意識が完全に覚醒した。そしてこの状況になるまでの記憶も甦る。

 はっとして、俺は痛みを堪えて両手を伸ばす。確か美由紀が一緒にいたはずだ。助手席

に座って二人で笑っていたはずだ。そして彼女に気を取られて、崖下に転落してしまった

んだ。

 自分が動けないから手を伸ばすにも限度はもちろんある。しかし、左手の先に触れるも

のがあった。それは少し硬く、短い棒のような物が付いている。指で確認していくと、そ

の棒は五本あることに気が付いた。

「み――ゆ、き」

 俺と美由紀はどうやら崖下に落ちた際、車から投げ出されたらしい。そして、積もった

雪に埋もれて車の下敷きになったようだ。さすがに衝撃は俺達を無傷にさせてくれなかっ

たけれど、死ななかったことは奇跡だった。

「みゆき……だいじょうぶか?」

 スムーズに言葉が出ない。息が上手く外に出て行かない。それでも美由紀には聞こえた

のか、俺の手を握り返してきた。どうして声を出さないんだろう?

「みゆき、もしかして、こえがでないのか?」

 頷くように、俺の手が握られる。

 俺も視力が戻らない。どうやら美由紀は声をやられたらしい。声を、ということはない

だろうから、喉やあるいは肺などが危険な状態なのかもしれない。人間の身体の仕組みは

よく分からないけれど、声が出せないということはかなり危険なんじゃないだろうか?

「み、ゆき! ほんとうにだいじょうぶか?」

 うん、と一握り。

 握り返す彼女の力はけして弱々しい物じゃない。その手を伝わって「何が何でも生還し

てやる」という思いが伝わってくるような気がする。

 そうだ。美由紀は意志が強い。俺が辛い時にはいつも彼女が支えてくれた。彼女が追い

詰められている時に、助けられない自分を憎んだことがあるくらいだ。

 いつ救助が来るかも分からない。美由紀がどの程度の怪我か分からないけれど、俺の場

合だと全身から来る痛みはもう少しで俺を失神させるところまで行く気がする。冷たいと

いう感覚がないのは、もう俺の限界は近いのではないかと思わせる。この状況で意味があ

るのか分からないけど、眠ったら死ぬと思った。

「みゆき……楽しい、はなしでも、しようか」

 眠らないこと。それが俺の選択。息をゆっくりと吐くと更に雪の中に身体が沈んだ気が

する。実際、俺を包んでいる雪は粉雪と言ってもいいものだ。抵抗が薄くて動こうとして

も沈んでいって上手く動けない。昔のアニメじゃないけれど雪の中に完全に埋まっている

らしい。きっと上から見れば人型の窪みが出来ているはずだ。

 子供の頃に見た映像を思い出しているところに手を握られて、意識を戻した。

 どうやら寝てしまう寸前だったらしい。美由紀が俺を助けてくれた気がしたけれど、見

えない彼女が俺の様子を分かるはずもない。ただタイミングが良かっただけだろう。

「そうだな……俺達が、初めて、会ったときのこと……」

 それから俺はゆっくりと話し始めた。

 俺達の馴れ初めやつまらない喧嘩。

 初めての誕生日やクリスマス。

 たわいもない日々だったけれど、今は還りたい場所。

 付き合ってまだ二年目に入ったばかりだ。それなのに、このまま終わってしまうんだろ

うか。そう思ったら、涙が出てきてうまく話すことが出来ない。しゃくりあげることでも

痛みが胸に走る。咳き込むと血の味がする。目は良く見えないし、どうやら感覚も麻痺し

てきたようだ。残るのは彼女が掴んでいる右手の感触だけ。まるで左手だけが生きている

みたいだ。

「しにたく、ないよなぁ」

 生きていたい。今まではっきりと生なんて意識してなかった。だっていつもそれは傍に

あったから。ふと隣を見れば一緒に歩いていた。俺を包んでくれていた。

 でも生はもう俺から離れようとしている。感じないけれど、冷たい雪の中に溶け込んで

いく。俺から雪へ、拡散していく。

「いやだ……生きたい、よ」

 言葉が声になっているのかも分からない。徐々に外の世界と、俺の意識が分離していく

ような気がする。

 これが、死か。





『死ぬんだな』





 そう、覚悟したと同時だった。何かが、俺を包んでいるような気がした。

 しっかりと左手が掴まれている。

 美由紀の手だ。

「みゆき?」

 感じることが出来なくなったはずの俺に、再び甦る不思議な感触。

 それは掴まれた左手から全身に広がっていく。

 ふんわりとした綿に包まれているような、ふかふかのベッドに横たわっているかのよう

な気分。周囲にあるものを思い出して、俺は納得した。

「雪かぁ」

 もう俺は死ぬんだろう。

 それならばせめて気持ちよく死なせてあげようと、きっと誰かが考慮してくれたんだ。

 神様じゃない。神様だとしたら、まず生かせてくれと頼む。

「みゆき……生きたかったな」

 その瞬間、俺の身体を抱きしめる誰かがいた。

 とても心地よくて……いつの間にか俺は意識を失った。



『生きて』



 そんな声が、最後に聞こえた気がした。



* * * * *
 ぼんやりと、天井が見えた。  左腕には点滴されているらしい。視界はぼんやりとしていたけれど、ここがどこかくら いは理解できた。 「お気づきになられましたね?」  声に引かれて視線を移すと、スーツを着たらしい男がいた。見覚えは……まだぼんやり していて顔は見えない。 「私に無理して視線を合わせなくてもよろしいですよ。簡単な事情聴取ですから」  男の言葉に混じる単語で、職業は理解できた。その男――県警の刑事さんはもう少しで 俺の両親がこの病院に来ることを教えてくれた。 「あなたと恋人の……堺美由紀さんは、事故だったと。いうわけですね」  刑事さんは俺達の転落事故に事件性がないかを調べているらしかった。思い出してみて も俺達が勝手に車を滑らせて落ちてしまったんだし、特に誰も悪くはない。正直に言うと 満足げに「うん、うん」と頷いたようだ。  そこで俺は聞きたかったことを切り出した。 「美由紀は……どうなりました?」  刑事さんは少しだけ躊躇したようだけれど、一度咳をして呟いた。 「お亡くなりになられました」 「そうですか……間に合わなかったんだ」 「……」  俺の言葉に刑事さんは無言だったけれど、まるで奇妙な物に遭遇したような、そんな気 配が伝わってきた。それが少し不思議だったけれど、俺は言葉を続けた。 「俺が意識を失う前まで、彼女は左手を握っていてくれました。怪我をしたのか声は出せ なかったようで……俺が話して、彼女が握り返すということをしていたから、生き残れた んだと思います。俺も両手を広げた状態で雪に深く埋もれてましたから、彼女の姿を確認 は出来なかったけれど」  これだけ言い切るのにも息が切れる。ゆっくりと息を吸い、吐いたところで刑事さんは 俺の手を掴んだ。右手を。 「美由紀さんは左手を、左手で掴んでいたということですね?」 「? ええ……当たり前じゃないですか」  おかしな事を聞く刑事さんだ。同じ側の手じゃないと握れないじゃないか。今、刑事さ んがしているように。  それに、救助されたということはその光景を救助した人達が見ているはずだ。それを事 故の調査をしに来た人が知らないとは思えない。 「美由紀は俺の手を握っていたでしょう? 救助に来た人が、見たはずでしょう?」 「……確かに、あなたの手と美由紀さんの手は繋がっていました。しかし、あなたは彼女 と会話をしたという……それはありえないんですよ」  刑事さんの言葉が理解できなかった。繋がっていたなら、彼女が救助される前まで生き ていたならばおかしくはないじゃないか。 「あなたが握っていたのは、切断された美由紀さんの左手だったんですよ」  ……ナンダッテ? 「落下のショックで美由紀さんの左腕が肩の付け根からちぎれたようです。そして、彼女 の死体はあなたの埋まっていた場所のすぐ下から発見されました。つまり、あなたは彼女 の上に仰向けで倒れていたんですよ」  あの辺りの雪は深く、かなりの高さから落下すれば立ち上がれないほど深く埋まるらし い。人が一人二人重なって落ちても、雪が作る平面が崩れることはめったにないそうだ。 その上に新たな雪が積もって落ちた人の姿を隠すものだから、自殺の場所として県警も警 戒していた。  だから俺も事情を聞かれたんだ。俺達が自殺をしたんじゃないかということで。  刑事さんは放心していただろう俺に一礼して出て行った。  しばらく何も考えずに天井を見ている。  俺の下に美由紀がいた。すぐ後ろから、俺を見ていた?  刑事さんの話だと、美由紀は落下して左手が切断された時のショックで死んでいたらし い。だから、俺のことを見ていたとしたら、意思のない瞳が俺の頭部を映していただけの ことになる。  そして、切断された左手が、俺に応えてくれていたことになる。 「美由紀……」  上手く言葉にならなかった。だから、俺はただ感情に任せた。  溢れてくる涙を否定しないで、まだかすかに痛む胸を気にせずしゃくりあげた。  美由紀は強い女だった。  俺を最後まで支えてくれた。  死んでしまった後でも、俺までが出来るだけ生きようとするように。  深い雪の中。  もう死ぬと思った時も、彼女は俺を抱きしめてくれた。  味わった不思議な感覚は覚えている。  ふんわりとした綿に包まれているような、ふかふかのベッドに横たわっているかのよう な気分。  俺を抱きしめてくれる、誰か。 「ありがとう……みゆき」  身体に残る、柔らかい雪と美由紀の優しい感触。  俺は泣き続けた。  深く包んでくれた最愛の人のことを思って。


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