見えない絆

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 生活臭、というものがある。
 人が住んでいる証。旅行で数日間留守にすると必ず冷えて堆積する。ドアを開けて空気を入れ替えたり、足を踏み入れたりすると舞い上がってまた広がっていく。けしてなくならない。
「臭」という漢字はなにやら嫌悪感が生まれるようなそれだけど、確かに臭いんだ。人それぞれの臭いは。
 その人がいるという強烈な臭いは、良い悪い関係なく人の中に何かを残す。
 でも、普通に暮らしていて自分はその臭いを意識することはない。臭いと自分は一体化してるし、空気があることを意識する人がいないのと同じだ。
 だからこそ、大半がダンボールに詰め込まれた今の状況では、意識せずにはいられない。殺風景な部屋からは、隙間を抜けていくように存在していたはずの臭いが消えていく。
 そんな、午前の空間。まるで徐々に強くなってくる太陽の光が彼等を追い出すかのようだ。
 抱えてようやく持てるダンボール箱七つを見つつ、俺は絨毯を剥がした板の間に腰を下ろした。前日まで触れる足裏や肌に暖かさを運んでくれたそれも、今は巻かれて横倒しになっている。テレビも布団も何もかも包まれた後で、俺の耳に残るMDプレイヤーのヘッドホン以外は退屈を紛らわせてくれるものはなかった。
「ようやく終わったぁ」
 独り言。溶けて無くなる様が見えた……気がする。
 引越し業者が来る二時間前に準備を終わらせるっていうのは正直時間の使い方が下手だ。でも「卒業おめでとう!」と大学に残るやつらに送り出しとして飲み会だったんだから仕方がない。特に一緒に頑張ってきた友達と道が離れるのは、やっぱり辛いもんだ。
 足を伸ばして、後ろに倒れそうになる身体を両手を突っぱねて支える。部屋を見回してみると、いろんなところに傷が見えた。床には座卓の足を引っ掛けてついた鋭角なものや、ガラスのコップを落とした時についたもの。
 この部屋に続くドアには彼女と喧嘩して思わず蹴ってしまって空いた穴。これから来るマンションの管理人に間違いなく金を払えと言われる。敷金じゃ足りないよな……。
 彼女との思い出も今はダンボールの中にだけ。意味を無くした誕生日プレゼントを捨てられずに詰め込むところが情けない。
 いつ捨てようかと考えると陰鬱な心地がして力が抜けた。
 だらっと背中から床に落ちて、視界が反転。板の間の天上に張り付くように、スライド式の小さなドアが見えた。背中をつけたまま、ずりずりと近づいて手をかける。
「お前ともお別れか」
 スライドさせて見えたのは、猫の形をした貯金箱だった。半透明の茶色の身体を丸めて目を閉じている猫は、お腹にお金を溜め込んでいる。一円玉がほとんどだったけれど、たまに五百円があって驚いたものだ。
 俺がこの家に来るずっと前からいるらしい、猫。
 管理人さんによれば、このマンションの一室だけ、微妙に空間が余ってしまったらしい。設計ミスといえばミスだけど、右手が少し入る程度の大きさで外から見ても分からず、構造計算にも問題はなかったということで苦情を言われたら封鎖しよう、とそのまま残っていた。そこに管理人さんは遊び心に猫の貯金箱を入れたらしい。
 立てられて十年ほど立っている大学生用のマンション。卒業まで使ったり、途中から入ってきたり、途中で辞めたりという人が繋がり、この部屋は俺を含めて六人住んだ。その中でこの猫は変わらずお金を蓄え続けたということになる。
「不思議な猫だね、お前」
 ニャーン、と鳴き声が聞こえることも無く、眠ったままでそこにいる。
 募金のように細かい銭だけだからか、丸ごと持っていく人はいなかったようだ。
 管理人さんの話だと、裏にある蓋を開けられた形跡も無いと言う。
 誰が頼んだわけでもないのにお金が入る。どうやら溜まったら募金とは考えていたらしいけど、ここまでとは思っていなかったと言われた。
「俺も結局、募金したしな」
 ポケットから取り出した一円玉を、頭から入れた。
 彼女に振られて百二十回目の音が耳に届く。ちゃりん、と鈴が鳴るような。 この猫の腹を満たしたのは間違いなく俺だろう。ほぼ三ヶ月を通してついに頭の半分までが銀色に染まったんだから。
「何とも情けないね。こりゃ」
 別れた彼女との思い出を込めて積み上げられる一円にこの猫はどんな思いを抱いているのか。きっと「未練がましいのう」とか鼻で笑ってるに違いない。でも、この部屋で過ごす最後の日まで続けた行為はある種の清々しさを俺の中に運んでくる。心に重く残っている思い出は持っているけど、その周りを徐々に削って、どうにか捨てられる重さになった。吹っ切る準備が出来たと思う。
 俺の前にこうしてお金を入れていた人達も、何か思いを込めていたんだろうか。最初の入居者も、その次も、六人目の俺と同じく。
 元々あるはずの無かった空間を守る猫。二人目の『管理人』に。
 この猫を通して俺達はどこかで繋がってるかもしれない。
 例えば社会に出て他の会社の、同じ大学を出た人と話す。
『ああ、あの猫のいる部屋にいたんだよ』『俺もですよ! 猫に募金したりしてね』『そうそう。俺、彼女に振られてねー。毎日五円玉入れてた』『俺もですよ! 一円を!』
 思いついた会話は寂しい。けど、こんな繋がりも悪くない。大学がある限り存在するだろうマンション。同じ大学ならまだしも、同じ部屋という繋がりを感じることはあまりないはずだ。十年前から今まで。そしてその先までも、僕らは猫が繋いでくれている。そんな気がする。
 じっと猫と見詰め合っているとチャイムが鳴り、業者の声が聞こえた。これから荷物を運んでもらい、彼等と一緒に俺も部屋を去る。
「じゃあな」
 ゆっくりと扉を閉める。
 俺の苦い思い出の欠片も、十年の積み上げも締め切る音で途切れる。
 この部屋で過ごした形跡も、これから消える。


 それでもなくならない物が、俺の中にはある。


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