『益荒王』



 月が優しく照らす夜の出来事だった。


『眞子(まこ)。このお守りをいつも持っているんだよ』
 胸元のお守りが左右に揺れる。連続して起こる震動にお守りは乳房の間という定位置に収まることなく揺れ続ける。
 猪上眞子の脳裏には、一月前に病死した父の言葉が甦っていた。幼き時から家族を、自分を優しく抱擁するように見守ってきた父親の、末期の言葉。それは病室を覆い、最後を看取った家族の身体に染み込んでいた。
『このお守りは……お前のことをきっと守ってくれる。お父さんも、一緒になって守ってやるからな』
 残響が体内にこだまし、耳へと入る。父が死んだ日から毎日、その言葉に癒され心を支えられてきた眞子だったが、今、息を荒く駆けている中では、その言葉はあまりに無力だった。
(お父さん……助けて!)
 少女の心の叫びに応える者はなく、周囲は人気がほとんどなくなっていた。ちらほらと民家が立っているが、どこも明かりは付いていない。
 都会の喧騒から離れ、母親の実家で休息を取っていた眞子が誰にも告げずに家を出たのは午後九時半。それまで過ごしていた都市ならばまだまだ明かりは多く、人の波が収まる時間帯ではない。しかし、視界の半分が田んぼというこの土地では月明かりがメインの光であり、眞子には新鮮なものに写った。月の明かりで身体が浄化されるようなイメージを、彼女は持っていたのだ。
 しかし――
「あっ――!?」
 踏み出した足が地面に引っかかり、上体が宙を舞う。視界が縦に回転して、咄嗟に突き出した手を擦りむきながら眞子は倒れる。上はノースリーブで下は膝より少し短いスカートと肉体の露出が多く、道路を滑ったことであちこちに傷を負った。だが、眞子はその痛みに構うことなく起き上がろうとする。
「捕まえた!」
 迫ってきた足音と、声。四つんばいの状態で眞子は両足を捕まれ、口をふさがれた。必死に両手を振り回してもがくがその手も違う手に力強く握られて動けなくなる。
「――ぅや!」
「黙れや!」
 男声の一つが眞子の口に布を詰め込んだ。何日も洗われていないような臭いを放つ靴下。それだけでも嫌悪感は膨れ上がり、込み上げる酸味を何とか押さえ込む。我慢するために硬直したとこを見計らったかのように、男達は眞子の身体をひっくり返し、道路へと両手足を縫いつけた。
「へへっ……やっぱり都会から来た女は可愛いな」
 金髪でリーゼントの出来そこないのような頭をした男が月を背負い笑う。男の他に手足を抑えているのは三人。いずれも目は鋭く、髪はそれぞれ赤青黄色に染め上げられ、チューインガムを噛んでいる。三人は同時にガムを膨らまし、破裂させ、下で口の周りに張り付いたガムを舐めあげていた。いずれも眞子が数日前にこの土地に来た際、駅で全身を舌で舐めまわすように見ていた男達だった。
「ちいせー街だからな。よそ者がきたら目立つんだよ……お前みてーな女は特にな」
 両手を抑えて頭部方向から眞子を見下ろすようにしていた赤色髪の男は「ぬーん」と唇を突き出しながら眞子のそれへと重ねようとした。眞子は詰められた靴下を思い切り噛み、勢いをつけて頭突きをその唇へと喰らわせる。赤髪はうめくものの、手はしっかりと拘束されていた。
「へへ……嫌がる女を無理やりってシチュエーションは大好きなんだよ。おまわりがここを見回りにくるまで、あと三十分はあるんだ。その前に楽しませてもらうかな」
 金髪がそう言いながら取り出したのは握る部分が左右に割れ、刀身を包むように収納するバタフライナイフだった。ゆっくりと、まるでみかんの皮を剥くように丁寧にナイフの形にして、更に緩慢な動作で眞子へと近づいていく。そうすることによって、これから先に待っている行為に対する恐怖を増大させる。実際に眞子はいすくんで、無意識のうちに股を閉めようとする。その動作そのものが男達を更に刺激した。
「いっつしょーたーいむ」
 お世辞にも英語には聞こえない言葉を言って、金髪はキャミソールの右肩の紐の下と身体の間にナイフを通し、上に引き上げる。あっさりと紐は切れ、露になる裸体を想像し、男達の息が速まる。
(嫌だよ……こんな……変な奴等に犯されるなんて……)
 口は靴下で汚され、身体は男達の汚物で汚される。これほどの屈辱はない。眞子はついに堪えていた涙を流した。恐怖や悲しさよりも、悔しさで。
 その様子を屈服と捉えたのか、金髪は眞子に構わずキャミソールを切り刻んでいく。まるで折り紙で切り絵をするかのように、衣服をただの布へと変質させていく。
「おいおい……遊んでないで、もうむいちまおうぜ!」
「そうだな。じゃあ、ご開帳ー」
 切り刻まれたキャミソールが男の右手に捕まれる。衣服を剥がされ、自分の上半身までも剥がされていくような気がして、眞子は心の底から叫びをあげた。
(助けて! お父さんっ!)
 その、瞬間だった。
 月明かりと男の欲望が支配していた空間に、第三の気配が生まれる。
 眞子の露になりかけた胸元から発せられる光は不可視の圧力を生じさせ、押さえ込んでいた男三人と金髪を勢い良く弾き飛ばす。叫び声をあげて倒れた男達は眞子を凝視しつつ、動けなかった。それは眞子も同じだったが。
「何、これ……?」
 お守りが浮かび上がり、黄金の光を放っていた。まるで誰かが持っているかのように、首にかけられた紐が外れ、お守り自体が宙を舞う。そこから数秒間浮かび続けたお守りは、急に光を消して落ちた。
 時が止まる世界。誰もが今の現象を説明できず、どう動こうか判断できない。
 そこに走ったのは絶叫だった。
「うわっ!?」
 声をあげたのは青色の髪をした男だった。指を金髪の男のほうへと向けて身体を戦慄かせている。
「あ、兄貴……ううううううしろ!」
「何だ?」
 ゆっくりと振り返った金髪の視界に移ったのは、赤銅色の岩だった。急に現れた岩。わけが分からず触ってみると、それは微かに湿り気を帯びて熱を持っている。もう少し顔を後ろに向けると色が違う部分があった。それはちょうど逆三角形になっていて、起伏としては少し金髪のほうへと突き出す感じとなっている。
 正体は分からなかったが、全体的に暖かく、夏の湿気とは違った熱気が空気を伝って顔にかかった。
「一体なんなんだよ」
 そう言って青髪のほうへと視線を戻した金髪は、信じられないものを見つけてしまった。青髪、赤髪、そして黄髪。自分の仲間の後ろに直立する物を見てしまったのだ。
 それは三つとも同じような形をしていて、一つは黒褐色。一つは乳白色。一つは茶褐色だ。色は違えど一つだけ共通していること、それは岩でも何でもなく、人体であるということだ。
「じゃあ、俺の後ろの奴も?」
 人の、肉体なのかと金髪は考えた。
 急に寒気を感じつつ、金髪は後ろを改めて振りかえる。だが、そこには何もなく、田舎の夜が広がっているだけ。不思議に思いながら前に顔を移した時、鼻先に生暖かい物が触れた。
 それは先ほど見た逆三角形の三次元頂点だった。
「ひぃいっ!?」
 金髪は後ずさりし、相手の全貌をようやく視界に納めた。
 下半身。そして上半身にかけて明かりが乏しい中でさえくっきりと浮かび上がる赤銅色。硬質的な印象を相手に持たせるも、どこか肉という柔らかさを表現する裸体。顔はマスクで覆われていて、額には『漢』の一文字が輝いていた。
「知っているか? ○ァ○ァ○○の半分は優しさで出来ていることを」
 漢マスクマンの声は見事なベース声。腹の底から発せられるその声は細胞から呼応し、揺らされてるかのような錯覚を金髪へと与える。
 マスクマンはふわっと宙に浮かび上がり、あ然としたまま道路にへたり込んでいる眞子の上につま先を揃えて静止した。他の三人の後ろについていた者達も同じように漢マスク。違うのは筋肉の色だけだ。
 それぞれのマスク、というより筋肉が語る。
「知っているか? ○○○の声は○○○ちゃんの○○ちゃんの声だということを」
「知っているか? ○ー○ー○ー○の最終回直前に、主役の声が変わったことを」
「知っているか? 探し物は見つけにくい物だと」
 意味の分からない言葉を発する筋肉達に、四色の髪の毛は徐々に下がっていた。間合いを取るためではなく、単にこの場から逃げ出すため。だが、四つの筋肉の同化した咆哮がそれを遮る。
「外見だけ整え、中身がない若者よ! ナイフを使わねば女性の裸体に触れることも出来ない若者よ! 我等が刻んでやろう。漢ということを!」
 刹那、撹拌(かくはん)機のごとく宙に浮いた四マスクが回転し始めた。急加速して四つが八つ。八つが十二となり、やがてマスクだけが一つの輪となる。その過程の中で周囲に飛び散る熱い液体。回転速度の上昇と共に飛び散る範囲も拡大し、テリトリーの中に入る不良四髪。下半身が動かず、その液体をなすがままに浴びる。どこか粘り気があり、微かに黄土色をした液体は、身体の中へと染み込んでいく。
「あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”……」
「ぎゃぁああああがぁあああああ」
「やめやめやめやめめめめめめねねめっめめめっめめめめ」
「げぼぉおおえがふ!?」
 四人はそれまでの緩慢だった動きが嘘のように道路をのた打ち回り始めた。白目を剥き出しにし、液体と涙と鼻水と唾液が混じりあって道路を濡らす。明らかに常軌を逸し始めた人間と、常軌を逸している頭上の存在。眞子はそれらに挟まれて正気を失おうとしていた。
 その彼女を現実に押し留めたのは、口の中に収まったままの靴下の臭いだった。眞子は慌てて靴下を取り、叫ぶ。
「止めて! お父さん!」
 確証はなかった。だが、確信はあった。間違いなく頭上の肉の塊は父親が言っていたお守りから出てきたもの。そして父が死の間際に紡いだ『守ってくれる』という言葉。つまり、お守りの精に違いないと眞子は考えたのだ。
 眞子の叫びと同時に、不良たちの動きが止まった。痙攣することもなく、ぴたりと。眞子が真上に視線を向けると、四つあった肉が一つとなり、その大理石を切り出したような艶やかさとパーフェクトな均衡を保った肉体を惜しげも無く披露していた。顔全てを覆っていたマスクは鼻から下まで捲れ上がり、口元の白く輝く歯を惜しげもなく見せていた。
 黄金に煌く肉体の眩しさに眞子が目を細めていると、それは中空を移動していき、まず金髪の前に立った。
「眞子の痛み、思い知ったか?」
「……はい」
 苦しみから解放された金髪は手をつき、涙にくしゃくしゃになった顔を地面へ擦りつける。どうやらあの液体は眞子が得た苦しみらしい。その繋がりの不明と、脂っこい液体に対する嫌悪感で眞子は眉をひそめたが、彼女の思いを置き去りにして話は進む。
 金髪の他三人も黄金筋肉の前に座り、涙を流して懺悔している。よほど怖い経験だったのかごめんなさいというのも辛いほど疲れ果てていた。
「外見だけかっこよくても意味がないのだ。人は、心だ」
 優しい声で黄金筋肉は言い、その手を金髪の肩に置いた。すると、黄金の光が金髪の身体に移り、その身体が二倍に膨れ上がる。着ていた衣服が耐え切れず破れ、下から現れたのは張りのある筋肉だ。順番に触られた男達もその貧弱だった身体が成長し、それぞれ服を布切れと化しつつ盛り上がる。
「鍛えた肉体に、清き精神が宿る。お前達も真の男を目指そうじゃないか」
「……あなたの、名前は何なのですか?!」
 心打たれるものがあったのか、涙を流しながら叫ぶように問い掛ける金髪。すでに彼には少し前に眞子を襲った男の面影はない。
 男から漢へとその姿も心も変わっていた。
「私の名は、益荒王。全ての真の男……益荒男の頂点に立つ者」
 四人は王に付き従う騎士のように跪き、忠誠の証なのかその掌に口付けをする。その口がぬらぬらとてかったのを眞子は見逃さない。
「これからも益荒男足るために、精進を重ねるのだぞ」
『はい!』
 四人は涙と鼻水と唾液と黄土色の液体が混じった声で肯定すると、駆け出した。物体が空気を切り裂く音を耳に入れつつ、離れていく彼らを見ていた眞子は、開いた口を塞がないままに時を過ごす。
 あまりの展開に半ば呆然としていた彼女が正気を取り戻したのは、何度か口の中にハエが迷い込んだ後で見回りに来た五十過ぎの駐在が声をかけた時だった。
「お嬢さん……大丈夫かい?」
 駐在に答えて立ち上がった眞子は自分が襲われたことを言おうとしたが、自分のキャミソールが元に戻っていることに気づいて言葉を止める。襲われた決定的な証拠であろう衣服が何ともなく、あの益荒王と名乗るお守りの精らしき者もいないこの状況では、後から来た駐在には道に座って呆然としているだけにしか映らないだろう。
(何もかも、夢だった?)
 消えたキャミソールの傷跡。消えた筋肉質の四人。消えた輝く筋肉。
 いくつもの証拠が消え、残ったのは田舎の夜と月明かり。
 一体自分は何を見たのだろうと眞子はそれさえも疑う。それほど、痕跡は残ってはいなかった。
「もう十時過ぎているから、家に帰りなさい。送るかい?」
「いえ……大丈夫です」
 駐在は眞子の答えに頷いて、もう一度早く帰りなさいと言ってから離れていった。眞子にはどこから駐在が来たのか分からなかったが、去っていく方向は先ほど四人が走り去っていった方向と逆。もし本当にあの出来事があったのならば、道を駆ける四人と駐在は遭遇しているはずだ。だが、駐在の態度にその様子は見えなかった。
(本当に夢だったのかしら)
 そう思いながら歩き出した眞子は、お守りが落ちているのを発見した。自分の胸元を確認し、落ちたお守りを確認する。そしてふと横に視線を滑らした際に、くしゃくしゃになった靴下があった。
 ゆっくりと傍に寄り、掴みあげる。念のため匂いを嗅ぎ、口に含んでみると、その臭いもコクもまさしく眞子が咥えさせられた靴下だった。
(本当に、あった――!?)
 その瞬間、彼女の中を走り抜けたのは感謝と疑問と戦慄だった。
 それぞれの感情に震えながらお守りの紐に手を伸ばし、首に通す。胸元に落ちたお守りがぴちょ、という音を立てる。
 ぬらぬらとした液体に濡れたお守りと、靴下。
 まるで異界に迷い込んだような空間の後に残った確かな物を手に、眞子はふらふらと家へと歩き出しす。
「お父さん……ありが、と……う?」
 何故か、眞子は素直に感謝の気持ちを言うことが出来なかった。


 月が優しく照らす夜の出来事だった。




掌編ぺージへ