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 下駄箱に入った手紙というものがどんな意味を持つのか、黄金崎直樹(こがねざきなおき)には一瞬分からなかった。それでも機密文書なのだという思考展開をする。目撃者が他にいるかもしれない眼前で渡されるのではなく、当人しか分からないよう下駄箱という閉鎖空間に入っていたのだから。そこを開くのは使用者である直樹本人しか本来はいない。つまり、直樹が空手部の練習を終えた夜六時半に上履きを入れてから登校してきた朝七時半……つまり今現在までの十一時間の間に他者の指紋がついたことになる。
「ぬぅ……」
 誰に聞かせるつもりもないうめき。そもそも三十分くらいストレッチをしようと早く来ているのだ。直樹の言葉を拾う者などこの場にはまだいない。それでも周囲を確認し、素早く鞄の中に落としてから屋上へと向かうべく階段を三段飛ばしで翔け上がっていった。
 ストレッチでほぐそうとした身体は緊張に固まっている。身長は百七十と男子ではもう少し背が足りない。それでもその身長を持つ一般学生よりも体重を増加させている要因である筋力と、スポーツ刈りの頭の下にある頬まで筋肉と揶揄される顔立ち。二つを備えている存在が風を切っているのは正に百七十センチの弾丸とも呼べるほどだ。その様子を見た数少ない生徒の「ぶつかりたくない」という心の声が直樹には聞こえていた。
 被害者を出さないまま、鍛え上げられた下半身はさほど時間もかけず直樹を目的地へと運ぶ。用意されていた座布団に尻を投下させてから手紙を取り出すまでに停滞は無い。手紙を止めるのに使われていたハートマークのシールを破かないようにそっと引き剥がした。
「その前に私のお腹からお尻を剥がして」
 座布団の声には耳を貸さず、直樹は文面に目を走らせていく。縦長の封筒に入っていた紙は一枚。ルーズリーフの丸穴部分をカッターで切り取って作った紙。三十行ほどあったが最初の数行だけが黒芯で埋められている。

『はじめまして。私は【ひしひわ】と言います。本名を知られるのが恥ずかしいのでペンネームにしました。学校に轟いている名声を持つ貴方と違って、私はただの一般市民なので許してくださいね。お手紙を出したのは私という存在を知ってほしかったからです。貴方が知らないところで貴方に頬を染めている私がいることを。またお手紙を出したいと思います』

「それ、間違いなくラブレターね」
 座布団の言葉に同意して直樹は何度も文面を読み返す。行間の奥に潜む相手の存在を看破するために。現代国語十段階評価を十である高一の男の洞察力を見せ付けてやるかのごとく。
「身長は百六十五センチ。体重は五十五キロ。髪の毛は手入れはどうやってるんだと言わんばかりの毛先が腰まで届いている長髪。
「瞳は中指と人差し指がずぶずぶっと入る大きさ。鼻はクレオパトラのように高い。見たことないが。口は触感豊かな小粒明太子。きっと繋がったならば酸味と甘味で美味だろう。
「胸は上から八十。五十。七十七。冬の制服に隠された肢体は、男子学生の妄想を暴走させるために設定されたと言っても過言ではない」
「分かったからお尻を剥がして」
「ぬ。おはようございます」
 直樹の下で座布団……ではなく、朝寝をしていた日乃下向日葵(ひのしたひまわり)が起き上がる。同じ空手部に所属している一個上。制服に身を包んでいる様は間違いなく女子なのだが、直樹はその異性に勝てたことは一度も無く、現在まで十連敗中の相手だった。最強のショートカット美人の異名は空手部内に轟いている。
「でも、女の子のお腹に気づかず乗る人に彼女なんて出来ないわよ」
「ぬ! ぬぬぬ……」
 言い返せない自分に腹が立ちつつ、直樹は冷静に受け止める。女子のお腹といえば生命を生む大事な箇所だ。もしこのままいけば異性と付き合うかもしれないのに、そこを大事にしないでは男がすたる。
「すみません、先輩……お腹、大丈夫ですか? 子供生めますか?」
「大丈夫よ。それ以上言ったら空手部の床に埋めるわよ」
 怒りを抑えているのか声を低くして言う先輩に対し、直樹は意味が分からないが押し黙った。
(謝ってるのになんで怒られるんだ。理不尽だ)
 しかし、その気持ちもラブレターに意識を戻すと霧散した。何しろ彼女というのは、ばら色の高校生活を送るための三種の神器の一つ。自らの努力だけでは手に入らない、RPGで出てくる、敵が落としていく最強武器のようなものだった。
「それにしても誰でしょうね。さっき、黄金崎が言ってた差出人の特徴ってミス高の”コスモス”でしょう?」
「何故分かるんです!?」
「そりゃあなたが入れ込んでるって部内で言いふらしてるからでしょ」
”秋桜”――今年のミス高校の秋山桜(あきやまさくら)のことを持ち出されて直樹は顔を真っ赤に染めた。手や足の先まで赤くなり、部活では「全身血まみれかよ」と言われるほど、彼は照れると身体が真っ赤に染まった。
 試合で活躍した結果の体温上昇で真っ赤になるものだから、言葉は的を得ているように直樹には思えた。
「とにかく、がんばんなさい」
 向日葵は起き上がってスカートに包まれた尻と腹をはらうと、階下に降りていった。それを見ながら直樹は思案する。
(絶対、差出人を突き止めたい)
 長丁場になると思えた。しかし、その機会は思ったよりもかなり早く訪れた。


 ◆ ◆ ◆


『あなたが、好きです。あなたに会いたい。会って話がしたい。今日の部活後、体育館の裏で待ってます』

「展開早すぎ!」
「そうねぇ」
 驚きを隠せない直樹に向日葵は欠伸をしながら相槌を打つ。何しろ、初めての手紙から一日。また手紙を出しますというから直樹の中では十回以上手紙のやり取りが行われると想定していたのだ。返信する手紙まで用意して下駄箱に入れておこうと登校してみれば、下駄箱の中には一通の手紙。開けてみれば普通のルーズリーフに「会いたい」という内容。
 前日まで因数分解をやっていたと思ったら、今日になって三次関数やりますと言われるくらい間を飛ばしている気がした。
「その手紙の主、行間から読める?」
「……身長は百六十五センチ。体重は五十五キロ。髪の毛は手入れはどうやってるんだと言わんばかりの毛先が腰まで届いている長髪。
「瞳は中指と人差し指がずぶずぶっと入る大きさ。鼻はクレオパトラのように高い。見たことないが。口は触感豊かな小粒明太子。きっと繋がったならば酸味と甘味で美味。
「胸は上から八十。五十。七十七。冬の制服に隠された肢体は、男子学生の妄想を暴走させるために設定されたと言っても過言ではない」
「結局あなたの理想じゃないの」
 当たり前のことなのだが、向日葵は律儀に突っ込んで笑った。直樹も笑い声が耳にくすぐったく、頬を染めてしまう。ライバルと勝手に心の中で思っている相手に照れていることを気づかれたくなくて、直樹は立ち上がり咆哮した。展開が早くともこれは告白の申し出に違いないのだ。
「遊ばれてるんじゃない?」
「まさか!」
「でも昨日の今日だよ?」
「それだけせっかちさんなんです!」
「でも――」
「先輩は関係ないんだからもう言わないでください!」
 直樹は耳を塞ぎつつ振り替える。向日葵の顔に一瞬影が刺すが、すぐに霧散して不機嫌な表情が覗く。
「私の朝寝の場所に割り込んできたのは黄金崎なのに」
「ぬ、ぬぬぬ……すみません」
 不満よりも正当な意見が勝ち、九十度にお辞儀をしてから直樹は階段を降りていった。あの手紙の差出人からどういった告白を受けようとも、屋上にはまたしばらくはいかないだろう。そうなれば向日葵の安眠も保証される。
(そうだ。フラれるにせよ、つ、つつつつつつつつつつきあう! にせよ)
 自然とにやける顔。その様子を見た生徒の「かかわりたくないなぁ」という心の声が直樹には聞こえていた。それでも耳の右から左へと言葉は流れていく。教室に入り、一番後ろのドア寄り席――つまりは入ってすぐの席につくと、直樹は机に入れている一時間目の教科書を取り出した。
 開いたところには、一通の手紙が入っていた。
(なんだ?)
 手紙は下駄箱に入っていたのと同じく縦長の封筒。新品なのか真っ白で、裏に「黄金崎直樹様へ」とだけ書かれている。外の景色を見ると、窓際の生徒達が入ってくる日光にあぶられて意識を奪われている姿が良く分かった。今日も良い日よりだ。
(ラブレターもらい日よりだな)
 他のクラスメートに気づかれないように開けると、一枚の紙。普通のルーズリーフ。さっき下駄箱から手に入れた手紙と同じ物。そこにある文面はこうだ。

『部活後と思ったけれど、やっぱり今、会いたいです。体育館裏にこなければ諦めます』

(なんだそりゃ!)
 直樹は即座にドアの外に出て静かに扉を閉めていた。内にあった思いは、混乱。その奥には暗い炎がくすぶり出している。その一瞬の自分自身の変わりようが更に直樹を失望させる。
(さすがに遊びじゃないだろうな! わがまますぎる!)
 陶酔している間は振り回されている自分が愛しかった。恋されている自分が誇らしいし、嬉しかった。しかし、その状況は一日にして終わりが決められ、更に時間を早められる。下駄箱ではなく机まで来たことも、自分のプライベートに一気に切り込まれた不快感を生んだ。
(名前を明かさないのに、踏み込んでくるな!)
 足は羽根が生えたように軽く、下駄箱に辿り着いて外靴に履き替え、体育館裏へと走った。先客の姿を確認し、直樹は少し離れた場所に立ち止まる。
「……え……」
 切れた息を整えながらも動揺は隠せない。いるはずのない人物を見かけた時、人はこんなにも何も考えられなくなるのかと直樹はかすかに残った冷静さで呟く。
「せん、ぱい」
「ばれちゃった、ね」
 徐々に近づいてくる相手に直樹は硬直したまま。直立不動のまま接近を許し、相手の顔は徐々に直樹の顔に近づいていく。視界一杯に広がる異性の顔に頬が紅潮し、それを見て笑い洩れた吐息が鼻腔をくすぐる。
「どこで分かったのかなぁ。でも分かったなら仕方がないよね」
 視界一杯に広がった、醜悪な笑み。



 瞬間、後ろの殺気に反応して直樹は回し蹴りを放っていた。



「げはっ!?」
 吹き飛ばされる相手を確認せず、生まれた自分への敵意に反応して次々と拳を繰り出す。直樹を打ち抜いてくる怒号は手足を突き出すごとに消え、すぐに静かになった。
「さすがに一筋縄ではいかないわね」
 先輩という存在が敵となる。ファイティングポーズを取られた時点で直樹の視界に映るのは顔のない人形だった。飛んできた蹴り足をかわし、突き出される左拳を受け止める。だが、もう一つの拳が腹へとめり込み、間髪いれずに右足が突き出されて直樹の身体は後ろに下がった。
 それでも、直樹が掴んだ左拳は離れなかった。
「どうして、ですか?」
「ひっ!?」
 全く予想しない結果に、人は恐れを抱く。
 これだけの攻撃を受けてダメージを受けた様子がない直樹を前に、敵はただの年上の女性に戻っていた。
 手を離されて後ずさりしていく憧れていた先輩を、直樹はぼんやりと見ていた。自分に対しての恐怖で歪んでいる顔は、おそらく誰も見たことがない酷いものだと分かる。得したと思う反面、何か寂しい。
(喜べよ。黄金崎直樹。お前は誰もが憧れる先輩の、誰も見たことがない顔を見てるんだぞ? ラブレター貰ったんだぞ? 喜べよ……喜べ!)
 鼻の奥がツン、として悲しみが溢れそうになる。それでも、プライドが勝ったことで涙を押さえ込むと前に歩き出す。それを見て相手は尻餅をついて倒れた。
「習ってるんでしたっけ? 先輩も空手。でも……日乃下先輩には全然及びません」
 向日葵との組み手を思い浮かべるだけで癒されていく自分がいる。比較対象が現れて、改めて彼女の身体能力の凄さを知った直樹だったが、今は横に置いておく。癒しは消え、残るのは……。
「どうしてこんなことを? 秋山先輩」
 口調に宿る、痛み。
 スムーズに紡がれない言葉に気づかなかったのか、目の前の相手――秋山桜はただただ恐怖に見をすくませていた。
「憧れてました。本当に、憧れてました。手紙の相手があなただったら良かったと」
「あ、あなたがいたら弘が勝てないからよ!」
(弘……西高の沢渡か)
 地区予選で何度か対戦した他校の選手の顔が脳裏に浮かぶ。間違っていたとしてももう直樹には関係ない。
 憧れのミス高校は、自分の望みのために人を傷つけることをいとわない女だったのだ。熱が冷めるとともに、そんな女性に心奪われていた自分が恥ずかしかった。
「人は心ですね」
「な、なに偉そうなこと言ってるのよ! そうだわ! 本当はあなた、私と付き合いたいんでしょ? 弘となんて別れるから、あなたと付き合いたいわ! 今、あいつらを倒したあなたを見て一目ぼれしちゃったの! だからつきあ」
「うるさい」
 直樹はポケットから取り出した二通の手紙を倒れたままの桜へと突きつける。言葉の凄みに一瞬黙った桜だったが、意味が分からないというような顔になり首を傾げた。それがまた、直樹の逆鱗に触れた。
「あなたの我侭に振り回されただけで損した。先輩の気持ちが本当なら、答えます。僕は、あなたが、大嫌いです」
 それまでの憧れや何かを手紙に流し込み、直樹は思い切り破いていった。何度も、何度も何度も、細かく。
 舞台で使う仮初の雪のごとく、直樹は破り終えた紙を桜に叩きつけるように投げてから足早にその場を去っていった。
(ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう!)
 憧れのミス高校は、自分のために人を傷つけることをいとわない女だったのだ。
 内にあるのはいろいろな物を踏みにじられたという思いだった。
 自分の恋愛への憧れ。最初は友達からという流れ。
 秋山桜というアイドルの偶像。見かけ通りで性格も綺麗だという妄想。
 粉々に崩されたそれらのダメージを回復するのに、今日はもう帰りたいとまで思った。少なくとも部活など出ていられない。
 でも、そんな甘えは許されない。
 秋の大会も近いことで、優勝候補の直樹も練習をサボるわけにはいかない。私生活は私生活。授業は授業。部活は部活。ちゃんと分けられることも、精神制御に必要なものだった。
(あーもう。こうなりゃ最初から手紙の件を再生して、全部忘れよう)
 嫌なことを全部まとめて棄てるためには、全部を一度思い出す必要がある。それでまた痛みを伴うが立ち直りが早いならと割り切って、直樹は最初のラブレターを貰った時を思い出した。
「あれ?」
 引っかかった一つの違いのために足が止まった。


 ◆ ◆ ◆


(徐々に素直になるのには、いい案だと思ったのにな)
 向日葵はノートを自動的に取りながら思考は別の場所に移っていた。ノートの一番下から少しはみ出している、丸い穴の列を切り取った加工ルーズリーフ。さすがにもう手紙は誤解されるだろうと静かにため息をつく。
 最初に手紙を出してから中一日。もう一度出そうと朝早く行ってみれば、同じクラスの秋山桜が含み笑いをこらえきれないまま手紙を直樹の下駄箱に入れていた。気になってその後をつけてみれば、見覚えのある問題児達に「直樹を襲え」と囁いていて、急遽直樹と桜に偽の手紙を出したのだった。
 直樹には『部活後と思ったけれど、やっぱり今、会いたいです。体育館裏にこなければ諦めます』
 桜には『あなたの作戦は見破りました。ばらされたくなければ朝のホームルームの間に体育館裏に来てください』
 急に考えたからその後に起こる矛盾をどう乗り切るかは盛り込んでないが、明らかに悪いのは桜であり、そこを突き詰めていけば何とかなるという見切り発車だった。
 もし、直樹が手紙につられて桜と会ったならば、彼女の狙いを知るだろう。
 もし、直樹が手紙につられていかないならば、相手を諦めただろう。
 もし、桜が手紙につられて行って、直樹がいないなら少しめんどうになるだろうが、それはそれで何とかなるはずだ。
(素直になれればいいのにな、本当に)
 めんどうになっても彼女には後悔はない。
 好きな相手を守るためなら、なんでもするのが女の子だと納得させて向日葵は笑った。


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