『ロングウェイ・ノンフィクション』





 さっぱり、という表現が一番似合う春の朝だった。

 五月とは言え、朝の六時の段階だと暖かいとまでいかない。冬と春の中間みたいな外

気が顔を撫でたことで、身体は暖かさを求めて震える。折角の三連休の初日の朝に何の

前触れもなしにモーニングコールをかけられて、朝の散歩に付き合うよう誘われるのは

一体どういうことだろう?

 そして断ればいいものを、断る前に電話を切られたからってこうして家の前で体操し

ている自分って一体……。

「お人よしというかなんというか、だよなぁ」

 言葉にすれば、正に一言ですんだ。

 まあ、こうして黒いジャージの上下に身を包んで身体を動かしていると悪い気はしな

い。元々身体を動かすのは好きだし、陸上部の朝練だと思えば別に辛くはない。更に、

今日は部の朝練よりも早い時間だからか、暖かくなる身体を空気がいい感じに冷やして

くれて、初めて体験する気持ち良さがあった。

 一通り準備体操をすませてしまうと、もう眠気も違和感もなくなっていた。

「おまたせー」

「うぉん!」

 両手を組んで真上に伸ばしていた所に、呼び起こした張本人が満面の笑みを浮かべて

走ってきた。栗色の毛並みに大きい身体の犬が先行してきて、俺の足にまとわりつく。

 大きい身体の割には可愛いもんだ。確か、ゴールデンレトリバーとか言う種類のはず

だ。

「おはよ、明」

「おはよ、梓」

 尻尾を振りながら靴に顔を擦り付けている犬の頭を撫でながら、梓に応える。

 朝日に照らされて、姉妹共通の栗色の髪が綺麗に光っていた。ほとんど制服姿しか見

てなかったから、今の白いトレーナーと黒いハーフパンツ姿は新鮮で、少しだけだけど

大人びて見えた。

「? どうしたの?」

「んや、なんでもない」

 まさか少し見とれてたなんて言えるわけがない。そんな恥ずかしい事を言ったらから

かわれるに決まってるし。梓は俺の真意を探るようにじろじろ見てきたけれど、すぐに

興味を失ったようだった。犬の首から伸びている紐を持って、少し俺と距離を取る。

「ごめんね。いきなり起こしたりして」

「……謝るとは珍しいな」

 軽めの蹴りが左足に入る。顔も笑ってるし、力もこもってない。

 じゃれ合いの蹴りだ。

 さっきまでまとわりついていた梓の犬の行動と同じ意味だし、学校で同じようなこと

をしているのに……この場だと何故か変に緊張してしまう。心なしか顔が熱くなってる

気がする。

「ところで、やっぱり犬の散歩に付き合わされるために起こされたのか?」

 梓に緊張を悟られないように、わざとおどけた口調で問いかけ、変な笑みを浮かべて

みた。きっといつも会わない時間だからいつもと調子が違うんだろう。梓は梓だ。別に

他の女の子になったわけじゃない。

「とりあえず、散歩に付き合ってよ。付き合ってくれれば分かるよー」

 そう言って梓は俺の返事を待たずに歩き出した。犬が「うぉん!」と元気に吠えて、

俺を急かしている。溜息をつきながら小走りに梓へ近づいて、横に並んだ。

「ところでこの犬の名前は?」

「あ、明はごーちゃんと初めて遭遇か」

「ごーちゃん……やっぱり、ゴールデンレトリバーだから?」

「うん。姉さんが命名したの」

 ……どうも命名だけ聞いてみても、梓と梓の姉さんという人が姉妹とは思えない。前

に、確か自分は父親似だって言ってたから、姉さんはきっと母親似だな。

「シンプルイズベストって言うしねー」

「はは、そうだな」

 梓は本当に楽しそうに笑う。ただ、散歩しながら話してるだけなのに、何でこんなに

笑うんだ? ごーちゃんも飼い主の楽しさが伝わってるのか、まるでスキップしてるよ

うに軽やかな足取りで進んでいく。

 十字路に差し掛かり、左折したところで梓の歩みが止まった。同時にごーちゃんもち

ゃんと止まる。何年飼われているのか分からないけど、ずいぶん賢いみたいだ。

「どした?」

 言葉をかけたけれど、梓は俺を見ることもしないでまっすぐ前を向いていた。視線は

遥か遠くを見ているようで、自然と俺も視線がそちらに向く。

「――ぁ」

 息が、洩れた。何を言ったのか自分でも分からない。

 どんな言葉でどんな感情を表そうと思ったんだろう?

 そんなことを気にすることが小さく思えて、思考が止まってしまう。

 目の前に広がる、遥か遠くまで続く道を見たことで。

 早朝だから車も通らない。そんな道路の真中に、俺達は立っていた。

 かすんで見える遥か先まで道が見える。続いている。

 障害物は何もない。

 道に沿って立ち並ぶ建物が完全に風景の一つとして溶け込んでいる。

 視界が届くところまで続いていく、コンクリートの道。

 少々形は崩れていても、そこは確かに、遠くとここを一本の線で結んでいた。

「これを見せたかったんだ」

 梓の声に含まれる嬉しさ。それが朝の汚れていない空気を伝わって俺の中に染み込む。

 圧倒的な圧力を持って眼に飛び込んでくる光景に呆然としていた思考が、梓の声をき

っかけにまた動き出す。

「歩こう」

「――うんっ!」

 目の前にある光景をただ立って見ているいるだけなんてもったいない。自然と呟いて、

歩みを進めていた。梓もごーちゃんを先行させて、俺の隣をぴったりと歩いていく。

 遠くへと固定された視界。歩みにあわせて上下にぶれるけれど、均整の取れた風景は

崩れることはない。徐々に進んではいても全く近づいた気がしない、遥かな道。

 聞こえるのは緩やかに流れる風の音と、俺達が刻む足音。

 ごーちゃんの四本足が奏でるリズムと短い周期の息継ぎ。

 小さな、でも確かに存在する合奏だ。

 そして徐々に暖かさを増してくる陽光とまだまだ冷たい空気。

 相反する二つが共存するこの瞬間。普段ならば聞き逃してしまうような他愛もない演

奏が、今はとても貴重なことに思える。

「不思議だよね」

 俺の心を読んだように、梓が口を開く。朝の空気を吸い込んで、梓の生の証が一つ生

まれる。

「いつも学校行く時に通ってるのにさ、時間帯が違うだけで、こんなに違う景色になる

なんて」

 ごーちゃんに引っ張られるように、梓が俺の前に出た。特に足を早めて隣に並ぼうと

はしないで、彼女の背中を見ながら歩く。梓の言葉に肯定の返事は不要だったらしい。

俺も同じ考えを持っているんだと分かりきっているとでも言わんばかりに、俺のことに

は無頓着で歩みを進めていく。

 左手に巻かれた紐。リズムを取るように揺れる右手。

 自然と、俺の左手が梓の右手へと伸びていた。この状況で、二人の手が繋がることは

当たり前のことのように思えたから。

 いつもは遠く離れて見える梓。気温の差が起こす錯覚なのか、俺自身の心のありよう

なのか。どちらにせよ、今ならすんなりと彼女の手を取ることが出来る気がする。

 あと三歩……

 あと二歩……

 あといっ――

「あら、梓ちゃんおはよう」

「あ、おはようございますー」

 飛び込んできた声に反応して、全身が粟立つ。電流を帯びて弾かれたように、俺は手

を引っ込めて視線を前に向けた。

 そこには少しぽっちゃりとした女の人と話す梓の姿。構図からして真正面から歩いて

きて、梓の前に立ったんだろう。犬同士も何度か顔を合わせているのか警戒する様子も

なくじゃれあっている。

「あら、今日は見ない人がいるわね? 彼氏?」

「やだあ! ただの友達ですよ! た・だ・の!」

 思い切り「ただの」を強調する梓が微笑ましくて、笑いを隠すために口元を抑える。

それから梓を軽く冷やかして、女の人は俺達が来た方向へと歩いていった。

「もう……変な誤解受けちゃっ――」

「嫌だった?」

 聞いてから、何を言ってるのかと自問自答。

 梓は予想外の問いかけに言葉を失って、口をぱくぱく動かしている。少し顔が赤いの

は照れているからかもしれない。俺もようやく自分の発言を受け止めて急激に顔全体が

熱くなる。

「うぉん!」

 顔を赤く染めながら無言で向き合う俺達の間。早く散歩を再開しようと、ごーちゃん

が催促するかのように吠えたところで、梓は口を開いた。

「ま、嫌ではないかな」

 まだ少し顔が赤かったけれど、いつも通りの顔でいつも通りの笑み。

 友達以上の笑み。異性に向ける笑み……とは少し違うと思える、笑み。

 だから俺も同じように返してやる。恋愛感情とか意識してないけれど、普通の友達よ

りも近くにいたい。その本当の気持ちを込めて笑みを、返す。

「さ、いこうかー」

「おうよ!」

「うぉん!」

 再開された散歩の中、俺はまた視線を少し前に向けた。

 多分、どこまで行っても続いているだろう道をひたすらに歩く。今はまだ家の近くま

でで精一杯だけれど、いつかあの霞んで見える場所まで行けるんだろうか?

 その時は――

「今日も一日天気良さそう」

「……そうだな」

 浮かんだ言葉は心に秘めて、梓の隣に再び並ぶ。

 どこまでも空は快晴。

 雲ひとつない真っ青な空。その下を俺達はただ、ゆっくりと歩いていった。





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