Little Christmas

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「今日はクリスマス。幸せな日ですよね」
 そう言った男は俺の視界から徐々に外れていった。前に進む車両。その慣性の力に逆らわず、ただ身を任せて転がっていく。隣に並ぶのは中身を無くした空き缶だ。誰かが立てて置いていったそれを、俺が座った時に倒してしまったらしい。
 しばらく耳障りな音を立てていたのを聞きながら、いつの間にか俺は寝ていた。そして、目が覚めた時にかけられた言葉がさっきのものだ。
 男は車掌室と乗客の座る場所を隔離する壁に当たり、動きを止めている。缶コーヒーは彼の膝のところに。電車が止まる時までしばらく、ああやって壁にもたれているんだろう。一般的なサラリーマンが着るような黒いスーツ。ただ、帽子は何故か黒いシルクハットで、目深に被っているために顔は見えない。
 とりあえず疑問を尋ねる。
「あんたは、何をしてるんだ?」
 おそらく、というか間違いなく「転がっているんだ」と答えてくるだろう。問題はなんのためにしているかなんだが。
 男は答える。
「俺は何もしていないさ。人間は誰もが、何もしていない。そう、錯覚しているんだ」
 意味が分からない。関わらないほうがいい部類に入るのは間違いなかった。でも話しかけてしまった時点で俺は過ちを犯している。どうすればこの状況から抜け出せるか。
 簡単だ。この車両から逃げ出せばいい。隣に行けばこの男からは逃れられる。この男は慣性力に任せて転がるだけだと断言できる。
 この状況も、この男も理解できないがそのことだけは信じられた。でなければ、あんな真似は最初からしない。
 だが、身体は動かなかった。今ここに展開している事態が異常なものだとようやく頭も理解したらしい。下手に動けばどうなるか全く分からない。でも、このままここにいてもどうなるか分からない。
 俺の周りには誰も居なかった。乗客が誰もないということほど怖いことは無い。時刻は深夜零時。いつもならば俺と同じように夜遅くまで働いた男――いや、漢達や漢乙女達がいるはずだ。同じように疲れ、顔色を悪くしながら今日の自分を褒めたりけなしたりしている帰路。その象徴なのが車両内だったはずだ。
 おかしい世界に俺はいる。ただただ、恐ろしい。俺はどこに迷い込んでる?
「皆さん、あなたが寝ている間に降りていきましたよ」
 男が徐々にこちらへと転がり始める。車両が止まりかけていた。急制動がかかり、今度は進行方向とは逆に力が生まれて男の背中を押している。
「今日は聖なる夜。クリスマスですよ。たとえ辛くとも足取りは軽い。あるいは恋人とどこかで泊まるかも知れない。何にせよ、いつもとは別次元の速度で帰路を駆け抜けていきましたよ」
 男の声に含まれるのは確かな喜び。他者の幸福を祝うことこそ自らの喜び、というように。そんな聖者みたいな奴がいるのか。
 よく分からない状況への恐怖が薄れていく。
 他人の喜びなんて俺にはそうそう喜べない。クリスマスイブやクリスマスなんてキリストの誕生日なだけじゃないか。もう二年お世話になっていない日に、お世話になりまくっている奴らを祝福できるのか。
「あなたもこの日にはお世話になったんじゃないですか? 周りが祝うからという理由で彼女をデートに誘い、ワイングラスを打ち付けあい『ここから見る星はとても綺麗ね』という彼女に向けて『君のほうが綺麗だよ』と、言う。彼女はうっとりしてその後の燃え滾る、滾る、たぎぃる夜に思いを馳せる」
 背筋が、凍る。錯覚じゃない。確かに凍った。ぴしりと俺の身体を覆う氷は一瞬で体温を奪っていって。
「あ、あ」
 凍って、いなかった。確かに凍ったと思った。でも俺は変わらず座っている。
 誰も居ない場所にただ一人。
 たった一人で、座っている。惨め、過ぎる。
「お前、誰なんだよ。何で二年前の一部始終、知ってやがるんだ」
 男が語ったのは確かに俺が体験したものだ。
 二年前。二十六歳の冬。ようやく給料も贅沢が出来るほどにはなって、奮発してちょっとだけ豪華なホテルの屋上にあるレストランを予約した。
 街の夜景がとても綺麗なその場所で、俺は気取って「君のほうが綺麗だ」なんて彼女へと言ったんだ。
 幸せな時だった。このまま続くと思っていた。来年の今頃も、ここで笑いあうんだって信じて疑わなかった。
 手には幸せって二文字を掴んでいたはずだった。
「でも幸せはあっさり消えた。彼女の心はその手をすり抜けて落ちていった」
 男が転がる。次の駅でまた近づいてくる。すると、目深に被っていた黒帽子の下にある顔がかすかに見えた。
 俺の顔がそこにあった。
 男は口調をあからさまに変えて話し出した。自分の声や口調を他人として聞くとこうなるのか。
「空虚な俺とこの缶コーヒー。どっちも大差はない。転がるだけさ。垂れ流す中もないままに」
 からっぽの男と、からっぽの缶。
 同じように転がっている『俺』が、そこにいた。彼女を失って、何もかも無くしたと絶望していた自分が。
 でも、缶と俺は同じじゃない。違いはある。
「中身、あるじゃないか」
 身体を押さえつける力は無くなっていて、俺は『俺』の元へと歩き出す。また壁に寄りかかっている俺の身体の下へと腕を入れて一気に起こす。壁に押し付けて向かい合った時、そこにいたのは無表情の『俺』
「どんな中身が?」
「希望だよ」
『俺』が息を呑む。身体が小刻みに震えだすのを見ながら、俺は続ける。
「人の幸せを、さっき願ってた。お前が過去の俺なら、それは俺がしていたこと」
 そう。思い出した。去年の今頃、俺は今よりももっと早い時間の車内で人々の幸せを願っていた。すでにいちゃついているカップルや、これからのデートに胸を躍らせる女性や、家族へのお土産をどうにか潰さないよう必死になっている男を心底羨んで、心底祝福した。
 俺も一年前まではあんたらみたいだったんだよ。
 浮かれる気持ちも分かるよ。
 だから、相手を大事にしてやれよ。

『俺も来年こそは、心から好きになれる女性と一緒に』

 過去の俺から最後に出てきたのは、希望だった。自分に希望があるからこそ、人も祝福できる。きっと自分が辛くても他人を祝福できるのが本当にいい奴なんだろうが、俺はさすがに無理だ。
 だから、過去の俺は一時的な聖者。紛い物だけど、だからって幸せを祈っていて悪いわけがない。
「仕事も忙しいし、女と会う機会もない。そんな生活が一年続いて諦めてた。いつの間にか、他人を呪うようになってた。過去の自分よりも色々中身が詰まったけれど、人間は希望がないと生きていけないよな」
 昔の俺はもういなかった。残ったのは転がる缶コーヒー。
 次の駅にそろそろ付くのか電車は動きを遅くして――


 * * * * *


「――んぉ?」
 肩を叩かれたような気がして、目が覚める。最初に左を見て、次に右。真正面に何かがあることは見えていても頭が理解することが遅れた。何か夢を見ていた気がする。大事なような、どうでもいいような。
「お客さん。終点ですよ」
 車掌が不機嫌に顔を染めて言う。
「あ、はい」
 答えて立ち上がると、転がっていた空き缶を蹴ってしまった。車掌は俺が置いたものだと思ったのか、あからさまに不快感を出してきた。とっととここから出ていけというように。対応悪いってアンケートボックスに書くぞ。
 そうやって心の中で毒づくしか対抗手段はなかった。
 外に出てみると、もう終電が終わっているらしい。まあ、二駅しか離れてないし道も分かっているから、歩いていけばいいだろう。
 これから取る行動を決めて改札に向かうと、前を歩く人影が見えた。髪が背中まで落ちた女性。綺麗なストレートの黒髪だ。この人も終点まで寝てしまったんだろうか。
 こいつは、チャンスじゃないか。クリスマスに神様が用意した出会いの。
 期待を込めて足を早めようとしたが、携帯を取り出して大きな声で女は話し始める。
「うん。じゃあ待ってるからね、タカシ」
 声の口調が相手が彼氏だと物語ってる。どうやら最後まで寝ていた俺にはプレゼントはないらしい。時計はもうすぐ深夜零時。あと数分で、クリスマスが終わる。
「メリークリスマス」
 妬みはなかった。あの女が彼氏とこれからどんな時を過ごすのか、想像できる。俺も昔体験した、甘酸っぱい一時。
 だからこそ、幸せを実感する二人を蔑めない。
「いい夢見ろよ」
 改札の奥に消える女に言ってから、歩みを再開する。
 時刻は深夜零時。
 俺の小さなクリスマスは、終わった。


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