『その場の空気お届けします』


 それはどこかにある未来。
 人々は減っていく収入から重なり続ける税金を支払うために多忙を極め、たまにある休みには睡眠による休息に終始。休日に遠出をするという行事をすることもなくなった。しかし、人々の都会から離れたいという欲求は逆に高まっていき、ついにあるサービスが誕生したのだった――。


 岩木滋(いわきしげる)は、額を締め付ける鋭い冷気に即されるようにして脂汗が滲み出てくるのを感じていた。四方八方から迫り来る気配は肌を、血管を、内臓を締め付ける。産毛がぴんと張り、肌の表面を静電気が走り抜ける。滋は歯を食いしばり、その場に座り込みたい衝動を押さえ込んだ。
(……きついな)
 気配が伝えるように、どこから殺意が来るか分からない。正に四面楚歌。滋は全身を闘気で包み込み、防御する。瞬間、鋭い一撃が背後から来る。前に移動すると今度は真正面から振り下ろされる不可視の刃。腕で受け止めると激痛が走るが、その場で踏みとどまる。しかし、そのことで動けなくなり、止まった標的へと次々と打ち込まれる打撃。身体を蹂躙されても頭部は守ろうと滋は腕で覆い、乱打に耐える。
(うおおおおおお!)
 心を折られないように、心の中心から叫ぶ。
 緊張と焦燥が最高潮に達したその時――すぅ、と空気が『消えた』
「――ぷはぁ」
 滋はしばらく拳を握って身構えていたが、やがて背筋を伸ばして息を吐いた。口の中で暖められたそれが発散される。それと同時に筋肉の緊張まで身体の外へと発散されたようだった。滋はその場に座り、顔を流れていた汗をぬぐった。
「この快感、止められないねー」
 滋は先ほどとはうって変わって快楽に染まった顔をほころばせ、床に置いてあったガラス瓶を取った。その姿にはどこも殴られたり蹴られたりした痕は見えない。実際に、彼の身体に外傷は一つもなかった。さっきの嵐のような出来事はあくまで錯覚なのだから。
 彼が取ったビンは中身はなく、透明な姿。その中の名残を追い求めるように滋は鼻先をビンの口へと近づけた。微かに香る、戦慄の尻尾。しかしそれも泡のように軽く弾けて消えていった。
 ある場所の『空気』
 空気、雰囲気、気配、いくつかに言い換えることができるだろう。目に見えず、身体や感覚で感じることができるそれらをまとめて『空気』と呼んだ。
 それをビンの中に詰め込むことができる技術という物がどのような仕組みで、いつどのような過程で開発されたのか一般人には分かることはなかった。だが、過去から存在した温泉の元のように、わざわざ旅行に行かなくともラベンダーの香りや沖縄の風を感じることができるこのサービスに、人々は特に深く考えようともせずにのめりこんでいった。
 正確には、それを気にする余裕がなかったというべきか。
 民間から始まった『空気』配送サービスは予想以上の需要から国営となり、全国で利用されない場所はなくなっていた。
 滋もまた、サービスの魅力に捕らわれた一人であったのだ。
 より、黒き魅力の。
 滋は夢現の瞳のままビンを持ち、冷蔵庫に向かう。部屋は居間と台所だけがある小さいもの。家具も机とタンスで布団は万年床。生活するには最低限の備えである。どこか空気が淀んでいたが、滋にはその淀みさえも愛しく感じるのか、頬を緩めながら滞留している空間を進む。
 冷蔵庫を開けると、中は整然と並べられたビンで固められている。その数は三十本超。一人暮らしの人間が使うような小型の物のため、倒して並べていてもビン以外の中にあるべきもの――食料や飲料など――は存在していなかった。滋は手に持っていたビンを入れ、代わりに中にあったそれを一つ取り出した。よく冷やされた表面をいとおしげに擦る様子は、まるで女性の柔肌の感触を楽しんでいるかのようだ。だが、擦っているのは冷気によって硬質的になっているビンの表面であり、二十五年もの間、滋に人肌の柔らかさを体感させてくれる女性はいない。
 頬にビンをなすりつけて息を吐いてから、滋のとろんとしていた目に力が戻る。記録を出し、次なる目標を目指すことに決めたアスリートのような瞳。きびきびとした動作でビンを冷蔵庫へと入れ、閉じる。そこからの動作は正に疾風だった。窓を締め切っているために動きがない空間に嵐が起こる。それは滋が思ったことであり、実際の出来事ではなかったが、彼からみなぎるオーラは、その場に第三者がいたならば同じように錯覚させられたことだろう。
 彼の情熱が向かう先、それは机の上に置いてあったノートパソコンだった。
 電源を入れ、滋ははやる気持ちを抑えるために机の横に折りたたんで置いてあった小さなダンボールの箱を取る。表面に書いてある文字は『配送サービス』というシンプルな物。
 普通ならば、そこには配送サービスの会社と詰められている『空気』の名称や注文者の住所などいくつも書かれている。更に、滋が持つ箱は黒一色であり、何が入っているのかぱっと見るだけでは分からないブラックボックスだった。
 電源が入ると自動的にインターネットに繋がるように設定してあったのか、ディスプレイにはあるサイトが表示されていた。
 大きく出ている『配送サービス』の文字。
 基調が黒なのは、滋の持つダンボールとの相似性を感じさせた。
「ははっ」
 心底おかしそうに笑う滋。ダンボールにはもう興味を失ったのか無造作に投げ捨て、椅子に座りマウスを動かす。注文リストというところをクリックすると、ずらりと項目が並んでいた。
『恋人との修羅場の空気』
『殺人をした直後の空気』
『バカップルのいる空気』
 エトセトラエトセトラ……。
 ざっと見ても三十以上の項目が並んでいた。どれも、国営のサービスにはない項目ばかりである。
「やっぱり裏がいいわ」
 滋は出てくる涎をぬぐい、次に選ぶ『空気』を探し始めた。
 ネット上の『裏空気配送サービス』は表『空気』配送サービスとでも言っていいものが、国営へとシフトしていった頃から存在を示し始めた。一部のコアなコレクターが始めたとも、実は国が裏で設けているとも言われているが真相は分かっていない。すぐに政府もネット上の非公式な営利サイトを規制するも、配送される空気その物のように現れては消え、いつの間にか違う形でサイトが復活していた。正にいたちごっこである。
 そのようなもぐらたたきのような状況でも、滋は初期からのユーザーであるからなのか、利用していたサイトが消えても数日経つと新たなサイトのURLが送られてくるようになっており、困ることはなかった。
「もう三回も『殺人をした直後の空気』体験してるからなぁ……さっきの『武器を持ったやくざに囲まれた空気』も大分慣れてきたし。そろそろ、違う刺激が欲しいかも」
 ぶつぶつと独り言を呟いて、滋は縦スクロールをマウスで動かしていき、目当ての項目を探し当てる。
『殺された瞬間の空気』
 それまで、死にそうになった時の雰囲気、気配やそこまでの過程を体感することはできた。しかし、結果の『空気』というのは珍しく、また怖さを感じた。どんな技術で今日のサービスがあるのかは知る由もないが、それでも実際にそのシチュエーションを作り出して、そこで生まれた緊迫感などを封入しているのだろうと漠然と滋は考えていた。
 だが『殺された瞬間』ということは、少なくとも死んだということだ。推測が正しければこの『空気』をビンの中に詰める場で、一人の人間が一つの肉へと変化したことになる。その事実を想像すると、滋は急に足場が消えてしまったような、すぅっと腰のあたりから冷えるような気がして、落ち着かなくなる。それに加えて、胸の奥からこみ上げる期待感を自覚せずにはいられない。
「よし……これに、しよう」
 名前をクリックすると、再度購入の確認画面があり、更に進んで住所や連絡用のメールアドレスなど必要事項を記入していく。最後に注文内容の確認でも肯定し、終了した。
「はー、また楽しみだなぁ」
 滋はパソコンの電源を落とし、急に鳴り始めた腹を擦りながら食料を調達に部屋を出ていった。



 それはどこからともなくやってきた。
 夜が空を覆う時間に腹を膨らませて帰ってきた滋は、電気もつけないまま床に倒れていた。満腹となり、いびきをかいて寝ている姿は特に危機を感じさせることはない。しかし――
「――っ!?」
 暗闇が動く。留まっていた空気が滋が起き上がったことにより押し出される。しかし、部屋全体に滞留するそれらは外に出ることもなく、中を駆け巡る。上と下。左右。かき乱され、やがて滋を中心に渦を巻く。
「な、なななんだだあ?」
 がくがくと振るえる顎。そうさせているのは身体の奥からこみ上げてくる衝動。起きたときに跳ね上がった鼓動は更に速度を増し、口から飛び出てしまいそうだと、頭のどこかで滋は冷静に呟いていた。
 気づいたのは、見えない様々な気配が踊り、翔け、混ざり合う気配だった。もちろん気配など見えるわけもなく、普通ならば気づくわけもない。しかし、何度も『空気』を体験しているうちに敏感になっていた神経は、何もないように見える空間で確実に起こっている現象を感じとれるほど鋭敏になっていたのだ。幾種類も違う質の『空気』がハイブリッドされ、禍禍しく重い物が、生まれる。
 次に来るのは息苦しさ。喉が外から締め付けられるような錯覚。自分で首を抑えると、更に締められた気がして滋は何度も咳をする。口内が、喉の奥が乾きを覚えて滋は水を求めた。立ち上がると足元からどろりとした感触。視線を向けてみても変わらぬ足が二本見えたが、おぞましい何かが這い上がってくる。見えない存在が、這い上がってくる。
「ひっ!」
 見えない。しかし、感じる。いる……見え――
「う、あ、あ、あ!」
 ふら付きながらもキッチンへと向かい、蛇口に手をかける。まずは水。水分を取り、冷静になり、逃げる。ひねる。出る。口をつける。飲――
「うげぇ!?」
 暗闇とは違う黒さを持つ水を吐き出すと同時に、胃からも酸が流れ出た。少量で食道を軽く焼いただけだが、滋には流れ出てきた墨汁へのショックのほうが大きく、また胸焼けの気持ち悪さは口内に広がる墨の味に冒されていた。
 口元を抑えつつキッチンから出て、そのまま外に向かおうとする。その時、滋は見た。
 天上に存在する薄紅色の何か。それは色の付いた煙といっても過言ではなく、ゆらゆらと揺らめいていた。やがて煙は天上から降下していく。通る空間を同じ色に染めていきながら。部屋の高さは滋が思い切り飛べば頭がかするほどのものであるため、すぐに滋の視界全てが薄紅となる。
 どこか甘い香り。それに伴い背中から女性に抱きしめられているかのような感覚。ふくよかな膨らみが背中に当たり、弾力がほどよくマッサージしてくる。脳の奥まで痺れさせる興奮に、見えない虫の大群も、身体全てを締め付けてくる圧迫感も、墨汁の苦味も全て消えうせていた。
「あは……あはは……」
 開いたままの口からは涎がこぼれ、目の焦点が失われていく。部屋から脱出することを考えていた脳はどろどろに溶け、残るのは快楽を感じる部分だけ。思考は停止し、目から、耳から、鼻から、毛穴から入り込む煙により引き出される興奮、甘美なる感覚。満たされた空気が、ふわりと動いた。
「あ……あ?」
 風船の口から溜めた二酸化炭素が噴きだすように、口へと――開けられた玄関口に流れていく。滋はその流れに乗るようにふらふらと玄関へと向かい、立っている人影にぶつかった。
「……あ?」
 自分よりも上背があり、筋肉の張りはまるでタイヤのゴムにぶつかったかのような感触だった。視線は顔に向いていたが、暗闇によって見えない。
「ひゃっ……はっ」
 甲高い、ろれつが回っていない声の後に衝撃が訪れた。重い衝撃に最初は腹を殴られたと、滋は思った。しかし、これまでの人生で殴られた経験と言うのは皆無だったが、それでも広がってくる痛みが打撃によるものではないと悟るには時間はいらなかった。
 突き刺さっている、ナイフ。垂れていく液体。おそらく赤い色をしているだろう。空気に触れたなら、黒い色に変化しているだろうか。いずれにせよ全てを飲み込んでいる暗闇と薄紅色には、他の色は存在など出来ない。
「ひ……ひひ……ひゃはっ」
 声も出せずに仰向けに倒れると、滋を刺した相手は視覚の外に消える。甲高い声はその笑いを強めていたが、やがてフェードアウトしていく。聞こえなくなる声。その時、滋の脳裏に閃くものがあった。刺された衝撃によって溶けていた脳が再構築され、思考の流れる道が出来たのだ。
(これは……本当なのか? それとも『空気』なのか?)
 滋は自分が寝る前に注文した品物を思い出していた。
『殺された瞬間の空気』
 そう。滋自身、こういった瞬間の雰囲気を体験したかった。今、彼が置かれている状況は正に殺された瞬間である。正確には『殺されるかもしれない瞬間の空気』だろうが、今の滋にその違いを考える余裕はない。
 何故なら急速に意識が消えていくのを理解できたから。流れ行く血と共に、精神まで消えていくようだった。
(どっちなんだ……? どっちなんだ? 『空気』? 本当? どっちどっちどっちなんだ?)
「ひゃっははは……はははははは……………はははっははははははは――」
 途切れていく声。閉じていく視界。闇に溶ける思考。
 答えも出ないまま、滋は気を失った。ただ、目が覚めたときに結果が出る、と信じて。



『一日午後十一時半頃、北海道○○市在住の男性(25)がアパートの自室で腹部を刺されて死亡しているのが発見された。第一発見者は男性の友人で、借りていた品物を返しに訪ねた際、玄関口で倒れていた被害者を発見。通報した。同じアパートに住む住民は特に争う物音も聞かず、静かな夜だったという。被害者の部屋には近年問題視されている『裏配送サービス』のビンが多量にあり、被害者はその中毒者だった可能性が高く、刺されたことさえも『空気』による錯覚によるものと思い、抵抗も通報さえもしなかったと考えられる。警察は殺人の疑いで犯人の足取りを追って――』




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