この扉を開けて中に入ったのは、母親が死んだ後だった。
この扉を出て行くのは、父親が死んだ後だった。
そして――
『クライ・クライン』
五段にも渡って本棚を締めていた論文や学術書。その一部が散乱している床を見て綾子が考えたのは、本棚に戻すということだった。
しかし、収めるべき場所は床と水平になり、主人を下に押し潰していたため断念せざるを得ない。横たわる父の口から吹き出たらしい血の跡。量は少なく顔の傍の床を変色させた程度だが、息をしていないことからも事切れているのは間違いなかった。
その次に綾子が考えたことは六年前に死んだ母のことだった。
当時暮らしていた家。当時高校一年生だった綾子は母の運転する車で高速を走っていた。平日の夕方、行き先もわからぬまま下校中に拉致同然に連れ去られてから綾子に取って永遠とも思える長い時間。永遠に続こうとした時間。
そして、彼女だけが永遠から逃れた。
「お父さん……」
膝をつき、父親の顔をそっと撫でる。すぐに離して、手に付いた血の匂いをゆっくりと嗅ぐ。かすかに香るそれに口の中は錆びの味が広がった。くらりと揺れる頭を何度か叩くと、綾子は立ち上がりキッチンへと向かう。その途中にも今日食べる予定だったカレーライスの食材が散らばっている。ジャガイモににんじん、たまねぎに肉。どれも父子家庭となった環境の中、綾子が六年の月日をかけて積み上げてきた練習の成果。母親の味に近づいていると父親も誉めてくれた綾子一番の料理。
屈んで一つ一つ拾いながら過去に思いをはせる。
母親が車と共に遠くへと旅立った時、綾子は腹部に大きな切り傷を作る程度で助かった。病院に駆けつけた父親と無事を祝い、母親のことを悲しんだ後に家を売り、このマンションへと引っ越してきた。
マンションの部屋に足を踏み入れた綾子。後ろには、母を失った悲しみが見えていた。
住居を移してからの暮らしは登校に時間がかかること以外は特に問題はなかったと綾子は思う。拾い集めている食材のような良質の物を集めたスーパーが近くにあることも利点の一つだが、何よりも綾子を喜ばせたのは無言電話がかかってこないことだ。
母親との最後のドライブの前には頻繁にかかってきた電話。綾子が出れば十秒ほど無言の後に切れ、たまに馴れ馴れしく名前を呼ばれたりもした。そんな時、綾子は気味の悪さとそれに反する思いが生まれて気分が悪くなったものだった。
綾子ではなく母親が出たならば一時間ほど電話は続く。
父親が帰ってきたならばすぐさま切られる。
その奇妙なやりとりを綾子は気持ち悪いと思いつつも口は出さなかった。そして、出す機会は消えた。
「これから、どう生きていけばいいのかな」
ふと思いついて呟いた言葉は、現実を一気に引き寄せる。
母はいない。父もいなくなった。これからは親戚に面倒を見てもらうのかと綾子は想像するも。その映像が浮かび上がらず、綾子は首を傾げた。
「そういえば、親戚の顔って知らないな」
役目を果たせなかった具達を全て集めて、三角コーナーに入れる。その理由は会ったことがないからだった。
特に自分からどんな人達なのかを聞いたことがなく、両親も里帰りや親族で集まる、という行事をすることもなかった。
「……そうだ。警察にも知らせないと」
ぶれる記憶の振れ幅も、現在の位置に落ち着いた。
過去の分析など意味がない。すでに過ぎたならば、あとは前を見るだけなのだから。
水道水で手に付いた血を洗い流してから、綾子は居間に戻る。やはり、本棚だけは父親の上からどけてあげたかった。元通りに出来なくとも、持ち上げれば陣取っていた本は父親の上に落ちる。そうすれば、綾子の力でも父親の姿をちゃんと見ることが出来るだろうと彼女は思う。
「不幸な事故だったの。かわいそうに……お父さん」
本棚が倒れてくるというのは完全にアクシデントだった。怒りに任せて綾子を突き飛ばした結果、父親がその場に残って本棚に押しつぶされたのだから。それまでの言い争いによって本棚のバランスが崩れていたとはいえ、不幸な事故には違いなかった。
「ん……うう!」
本棚はその重さを確実に減らしていた。中身が詰まっている状態ならば綾子の腕では全く動かなかっただろう。徐々にずれていって、父親の背中が見えてくる。
血に染まった背中が。
「痛そうだね……お父さん。ごめんね」
ようやく半分ほど父親を助け出した。血まみれの背中。口からの出血とは違い、大量のそれを見て綾子は「だから口からは少ないんだ」と呟いた。そして、もう止まった血の泉の中心。もう湧き出していない源泉に突き立つ包丁を、引き抜く。
「痛かったかな? でも……私も痛かったんだから……ここが」
父親に埋まった包丁を、今度は自分の胸に当てる。固まっていたと思っていた血が胸につき、綾子は不快感を露にした。口調にも怒気が混じる。
「なんで今になって実の父親じゃないとか言うのよ! お母さんと同じ! 私の両親は父さんと母さんだもの!」
綾子の視界が六年の歳月を遡及する。包丁がハンドルに変わり、車の中で何度も「帰ろう」と説得する綾子に対して言った母親の言葉が甦る。
『本当の父親のところへ行くわよ! あの男が追いつけない土地に行くの!』
両親の間に何があったのかは綾子には分からない。しかし、これから綾子は知らない場所へと連れて行かれて『本当の父親』に会うことになる。それはきっと無言電話の相手なのだと綾子は結び付けた。
浮かび上がったのは、純粋な嫌悪感だった。
『嫌だよ! 何でそんなこと言うの!? 友達とも……お父さんとも離れたくないよ!』
『言うことを聞きなさい!』
『いやぁあ!』
叫びと同時に出たのは、右腕。ハンドルを咄嗟に掴み、上に回す。
そのまま車は制御を失い、母親は絶叫と共にこの世から去っていった。その感覚がそのまま今に重なる。
「なんで襲ってきたのよ! お父さんにレイプされるなんて嫌に決まってるでしょ!」
包丁を両手で持ち、父親だった物へと突き刺そうとする綾子。だが、直前で思い直して力の限り投げ捨てた。鈍い音を立てて壁から跳ね返り、床を傷つける。
自分自身の激しかった息が収まる音を聞いて、綾子は頭が冷えた。カーテンを締め切っていても、外が夜となっていくのが分かる。
「これから、警察に行くね」
立ち上がり、自分の姿を確認する。上半身は剥き出しになっていて、下もスカートから伸びた足先に下着がかかっていた。父とのやり取りでぼんやりとした頭と、夏に入って暖かい気温が服を着ていなくとも良いと彼女に思わせていた。
「着替えてから、行くね」
自分の部屋に向かおうとして、足を止める。背中越しに振り返り、綾子は呟いた。
「悲しかったんだよ、本当に」
涙と共に、言葉は流れた。
この扉を開けて中に入ったのは、母親が死んだ後だった。
何かから逃れるように父親と共にくぐった扉。悲しさを抱えつつも、綾子は新しい生活を受け入れようとしていた。
だが――
この扉を出て行くのは、父親が死んだ後だった。
入り口も出口も、綾子へと悲しみを背負わせることになった。
「扉は一つだもんね。何にも、変わらない」
自分が思ったことに答えをつけて、綾子は扉をくぐる。トレーナーとジーンズという飾り気も何もない格好だったが、これから警察へと行くのならばそれでいいだろうと割り切る。扉を閉めようとして視線の先に父が、その向こうにあるベランダが見えた。
そして――
もう一つ残っていた扉が、開いた。
「そう、か」
綾子は笑みを浮かべて部屋の中へと戻った。ゆっくりと扉を閉めて、父の亡骸を超えて、カーテンを開く。
「出口、もう一つあったね」
夏の風が踊る。そして、綾子を連れ去っていった。
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