『愛の言葉』 タイヤが雪を上手くかまなかったために、明日真(あすま)が思った地点よりも車体が前にずれていった。一度舌打ちしてから、ギアをバックに入れて後退する。今度は滑ることもなく、明日真はエンジンを切って車の外に出て、うっとうしげに空を見上げる彼の瞳に迫るのは雪だった。車を滑らせた原因である雪。 (だから雪は嫌いなんだ) 寒く、滑る雪を明日真は幼い頃から嫌悪していた。自分が雪の多い地域に生まれたことを恨んだこともあり、大学は南を選んだ。それでも新年を迎えるときに実家で過ごすことだけは譲れず、嫌悪する世界へと帰ってくる。両親に諭されたこともあるが、何より自分が家族のぬくもりを無意識にでも欲していると、気づいていたから。 大学に入り三年。毎年の里帰りの中で生まれる暗い気持ち――地元の冬に埋もれる暗い気持ちを、家族と過ごす幸福なひとときで何とか埋め合わせをしてきたのだった。 (来年大学卒業するからかな……昔を思い出すの) これまでを振り返る自分を客観的に見る明日真。学生と社会人では環境が劇的に変わる。だからこそ感傷的になっているのだろうかと彼は思う。 夜八時。空を覆う灰色の雲。そこから降って来る雪はその強さを増していた。まるで彼を白く飲み込もうとするように。 一瞬、自分が雪に窒息する映像が思い浮かび、明日真は首のほうへと腕を持っていこうとした。だが、腕は動くことなくだらりと垂れ下がったまま。 身体そのものが、動こうとしなかった。 (なんだ……?) 白に吸い込まれていくような不安に心臓が高鳴る。徐々に息が荒くなり、温度差を表した白い空気が昇っていく。 「明日真? 何してるんだ?」 明日真を縛る白い鎖が瞬時に溶ける。空に向けていた視線を声のした方向へ移すと、久しぶりに見る父親の姿があった。一年ほど会っていなかったが、頭が薄くなった以外は特に変わらない。面長で眉が太く、少し切れ長の瞳に厚い唇。髪の毛を抜かして明日真とほぼ同じ顔の造形。 「た、ただいま」 一度唾を飲み込んでから答える。喉のがさつきが気になったが、二度三度咳をすると回復する。そのまま歩き出すと父親も家の中に入っていった。 後をついて玄関のドアを開けた時、明日真の胸に現れたのは安堵だった。 (やっぱり、里帰りっていいな) 先ほど生じた不安も綺麗に消える。そんな不安を覚えていたことさえも忘れて、明日真は靴を脱いで実家へと足を踏み入れた。 両足についた雪を玄関に置いてある箒で払い落とす。その中で視界に移る大小の靴を見ると自然と顔がほころぶ。どの靴がどのいとこのものか、姪のものかと想像をめぐらせて靴を脱いで上がり、ひんやりとした空気を抜けて部屋に入る。広がった光景は、集まって談笑する親族達の様子だ。 「おかえり、明日真」 「ただいま」 母親からかけられる言葉に答えると次々と挨拶を受けた。両親、父親の弟。その息子であり、大学二年と高校二年の従兄弟。明日真の姉とその夫とその娘。 明日真は新年を迎えるに当たり、ここまで集まろうとする気持ちに胸が一杯になった。 自分の子供を殺す親、情に薄い親兄弟が増えているように、明日真は一人暮らしの中でテレビを通して感じていた。そこで覚える寂しさもまた、家に着いたときの感傷的な気分を浮かび上がらせたのだろう。 そう自分を納得させると明日真は食卓へと向かった。 「年越しそば、量はどうする?」 明日真へと聞く母親の顔は、久しぶりに帰る息子への愛情に溢れていた。バイトなどでお盆に帰ることができなかった明日真にとっても一年ぶりの笑顔。自らを暖かく包んでくれた笑顔。冬の寒さ、雪の白さを嫌っていた明日真を支え続けたものの一つ。明日真は満面の笑みで返し、出された大盛りのそばを食べ始める。 「明日真君、就職どこか決まってるの?」 従兄弟の一人である慎が傍に寄って明日真に尋ねた。大学二年である慎にとってはあと二年後。それなりに思うところがあるのか質問に比べて不安な顔付きではない。明日真は目をつけているいくつかの企業を言い、来年から就職活動に入る旨を告げる。 「そうか……来年から大変になるね」 「慎もあと一年だろ? 趣味のバンドも今のうちに思い切りやってなよ」 「うん。来年はでかいライブやるから、音源送るよ」 そう言って慎は居間でテレビを見ている弟の祐のところへと戻った。格闘の試合を観戦している祐の後ろに慎は抱きつき、首に両手を巻きつけながら見ている。格闘家が拳を突き出し、蹴りを繰り出すたびに叫ぶ二人を見ながら明日真は思う。 (こいつらも来年、再来年集まれるのかな) 慎の弟である祐も来年は大学受験であり、こうして集まれるのかは不透明だ。明日真としては来年はおそらく就職が決まり、従兄弟二人が見ているテレビで流れているように卒業論文と格闘していることだろう。それでも帰ってくる気持ちを十分持ち合わせていた。 「来年もさ、帰ってくるから」 皿を洗っている母親に呟くと、その手を止めて母親が振り向く。 「うん。お願いね」 再び皿を洗う母親の後姿に、明日真は昔の姿を重ねる。今よりも少しだけ大きい身体が、今の母親を覆い隠す。少し痩せたのだろうと思うと明日真の胸に切なさがこみ上げた。 (帰ってくるから。冬は辛いけれど、やっぱり家族が大事だから) その感情がどこからやってくるのか明日真は分かっていなかった。これほど家族をいとおしいと思うのは今までなかったのだ。帰ってくるのも家族への親愛はあったが、今このときに思っているほどの感情ではなかった。 自分でもおかしいとは認識していたが、それでも頭を振って疑問を捨てる。 小さい頃から蓄積された家族との思い出がそうさせているのだと自分を納得させたとき、姉夫婦から離れて傍へと歩いてきた姪が視界に入った。二本足で歩けるようになったのはほんの一週間前だと聞かされていた明日真は、成長の速度に驚きを隠せない。不安はまた一瞬で消え去る。 (こうして成長していくんだよな。来年も、再来年も) 明日真は自分を見て笑いかけてくる姪に近づき、優しく抱き上げた。 「は〜い、おじさんですよ」 「あぁあ〜」 まだ一歳を過ぎたばかりの姪はニコニコとした表情を崩さない。涎を口の端から垂らしていて涎掛けに落とし、小さな手を勢い良く上下に振って「あーあー」と擬音混じりに笑う。その無防備さ。その中にも確かにある知性の光が、明日真にはたまらなかった。 愛しい感情がこみ上げ、明日真は姪を抱きしめた。きつく締めないように注意を払いながら背中を両手で包むと顎が肩に乗る。耳元で騒ぐ姪を意識しつつ、明日真は周りを見回した。 誰もが微笑んでいる。父も母も、叔父も従兄弟二人も姉夫婦も。自分と姪の交流を微笑ましいと思っているからなのか、明日真は思っているようにわざわざ新年のために集まる親族に満足しているのか。その笑みは変わることがない。 だが、並ぶ幸福な顔を見ていると逆に明日真の心には不安が堆積していく。 (なんだ……何が、俺をこんなに……) ――雪がその強さを増していく。まるで彼を白く飲み込もうとするように。 何故、こんなイメージが湧くのか理解できない。昔から雪は明日真を飲み込んでいた。雪かきをするのも辛く、学校から帰ってきたときも雪まみれになっていた。冷たく辛い記憶しかない雪が、目の前に広がっている。 家の中であるはずなのに。 「明日真。来年は――」 父親が姪を抱いたままの明日真へと話し掛けるが、声が届く前に消える。何か耳に詰め物でもしているかのように。 「あーちょっと、聞こえなかった」 明日真は手を動かして指で耳をかこうとするが、姪を抱きしめているために動けない。離そうとしても手が離れなかった。吸い付くように姪の身体を掴んでいる両手。怪訝に思い姪の顔を見るも、その顔は笑っているだけだ。生暖かい涎が頬を濡らす。汚いという感情は持てない。愛する姪の涎なのだから。 「しょうがないなー」 明日真はテーブルから離れて居間の床へと座る。寝転がり姪を身体の前で抱きしめる。心地よい重さ。ぬくもり。皆の笑みに囲まれて明日真は急に笑い出した。姪の重さに阻まれてか息が上手く出ていかない。多少の息苦しさを感じつつも、明日真は笑い続ける。 ――雪がその強さを増していく。まるで彼を白く飲み込もうとするように。 何故、こんなイメージが湧くのか理解できない。昔から雪は明日真を飲み込んでいた。雪かきをするのも辛く、学校から帰ってきたときも雪まみれになっていた。冷たく辛い記憶しかない雪が、目の前に広がっている。それでも、明日真の視界には家族団欒の光景が広がっていた。 吹きすさぶ雪を伴う風。マイナス十度を超える寒さ。それでも、車に押しつぶされた雪はささやかな暖かさを明日真に与えている。 車体の下敷きにならなかった顔。そこにある虚ろな瞳は、灰色の空を向いていた。 自分が転落してきた崖の傾斜に、目を向けていた。 それでも、明日真の目に映るのは家族だった。これから体験するはずだった未来。年越しの光景。続いていくはずだった時。 すでに感覚が麻痺し、壊死が始まった身体にも記憶による暖かさが満ちていた。 「もう、涎汚いよー。とうさん、テッシュテッシュ! 姉さんも義兄さんも笑ってないで手伝ってよ〜。慎も祐もさ! 母さんも休んでよ。俺があとは皿洗いするから。ね? 何? しょうがないなー」 元気良く紡がれているはずの言葉。明日真へと聞こえているはずの言葉は、動かない口から空気が洩れる音と共に消えていく。 それでも口は動き続ける。 未来をその場に繋ぎとめるように。家族への愛を、紡ぎ続ける。 「あ、もう紅白も終わりかー。今年も、よろしく」 白に消える親愛なる言葉。 誰にも届かない、愛の言葉。 |