『金魚救い』





「ふわぁあああ!」

 お父さんの肩の上で、ミヨちゃんは大きな声を上げました。見渡す限りの人に、ミヨち

ゃんちょっと興奮気味です。お祭りに初めて来たミヨちゃんは、小さく丸い顔が遠心力で

飛んでいきそうなほど振り回していました。初めてづくしに飲まれて自分を見失いつつあ

ったのです。

「はぁわあああ! あーん!」

「こらこらミヨ。変な声を出すんじゃありません」

 お父さんは自分の首をまたいだまま、上半身を揺らして喜んでいるミヨちゃんを注意し

ました。変な声を出すミヨちゃんをじろじろと見上げる周囲の人達の視線がお父さんには

痛いのです。錯乱三歩手前まで行ったミヨちゃんは動きを止めて、お父さんの薄い髪の毛

に手を伸ばしながら口を開きました。

「なんかね、寝てる時に聞こえてきたの。あーん! って。ミヨ、ちゃんと寝てるよ?」

「……人に迷惑がかかるから、騒いじゃ駄目だよ?」

「はーい」

 大人しくお父さんに従うミヨちゃん。まだ同年代の異性を意識するほどではない小学校

一年生のミヨちゃんにとって、お父さんは憧れの男の人でした。お母さんがよく叫んでる

言葉を分からないなりに理解すると、どうやら『よんさま』に似た顔であり、声は『きむ

たく』で頭部は『びばがっつ』だということです。どの例もミヨちゃんは実物を認識でき

ませんでしたが、つまりそんなお父さんが大好きなのです。

「さて、ミヨは何に興味があるかな……って初めてだから、お父さんが案内してあげよう」

「うんっ!」

 大好きなお父さんの首をまたいだまま、ミヨちゃんは再び上半身を揺らし始めました。

「あふーん! あふーん! あふーん!」

 甲高い変な発音が人の波に消えていきました。



* * * * *
 頭一つ高い視点から大人の中を抜けて行く事は、ミヨちゃんには驚きの連続でした。下 を見ると自分と同年代の子供が親やきょうだいに手を引かれて歩いていくのが見えたり、 上を見上げるといつもより少しだけ空が近いのです。いつも昼過ぎのこの時間に真上から 自分を照らしてくれる太陽も近いです。最初のうちは喜びに腕を振っていたりしたのです が、他の人の額に掌がメガヒットしてしまい怒られてからはお父さんの髪の毛を掴んで引 っ張ったり緩めたりしています。 「ミヨ……あたた。髪の毛な……いたた。掴まないで……いたたた! くれあいいいあい いあい!」 「ぽへ?」  お父さんの絶叫と共に突然ミヨちゃんの視界は斜めになりました。下を見てみると、ど うやらお父さんが少し前にかがんだまま動かなくなっています。 「お父さん、どうしたの?」 「ミヨ……ちょっと降りてくれるかい?」  ミヨちゃんは降りたくはありませんでしたが、このまま肩の上にいても先には進めない と思ったのか、潔く身体を伝って降りました。傍を通る人にぶつからないようにするのは 大変でしたが、なんとか降りてお父さんの顔を見てみると、脂汗が滲んで苦しそうにして いました。 「どうしたの? お父さん」 「ミヨな、ちょっと離れてくれる?」  少し苦しそうにお父さんは言い、ミヨはそれに従います。離れると言っても前後左右は 人なので、後ろ側に回り込むだけにします。そこでミヨちゃんは見ました。  お父さんの太ももに焼き鳥の串が刺さっているのを。 「お父さんが焼き鳥!」 「大きな声出さないでね」  お父さんはゆっくりと太ももに刺さる串を掴み、「ふっ!」と息を吐きながら抜きまし た。さほど深くは刺さっていなかったようでミヨちゃんが見る限り血もついておりません。  ミヨちゃんが自分達が来た方向を見てみると、親に手を引かれた男の子が名残惜しそう に彼女達のほうへと顔を向けて歩いています。どうやら焼き鳥を買った子供が手に持って いた串がお父さんに刺さってしまったようです。 「お父さん大丈夫?」 「ん。大丈夫だと思うよ。触っても痛くないしね。ごめんね、ミヨ」 「ううん」  ミヨちゃんは全力で首を振りました。お父さんが少し寂しげな顔をすることがミヨちゃ んには耐えられないのです。前に髪の毛の話をした時に初めてそんな顔を見てしまってか ら、いろいろと自粛しているのです。 「もういいから、首を振るの止めなさい」 「はー……い」  首を振ってふらついたミヨちゃん視界に、興味深い物が飛び込んできました。頭にタオ ルのはちまきをしたおじさんと、その下にある水槽。その中を泳ぎ回る金魚達。その前で 手に何かを持って真剣に水槽を見下ろしている、ミヨちゃんよりも少し年上の子供達。ミ ヨちゃんの視線はそこへくぎ付けになりました。 「お、金魚すくいか」 「金魚すくい?」  ミヨちゃんはお父さんの言葉を反芻します。視線を水槽から外してミヨちゃんはお父さ んを見上げました。自分に向けられる知らない物への期待と不安に満ちた顔に、お父さん も気分が高揚してきました。そして、ちょっとした悪戯心が芽生えたのです。  小さな嘘を、つくことにしました。 「ミヨも金魚は知ってるだろ? ほら、ホームセンターに行ったら入り口のところにたく さんいるじゃないか」 「……うん! あるある!」  お父さんの言っていることを記憶の中から探し当てて、ミヨちゃんは喜びます。でも、 次の瞬間には高揚に赤く染まっていた顔が青に変わりました。 「あの金魚達はな。ここで皆にもらわれないと……捨てられてしまうんだ」 「捨てる……? 捨てる!? 捨てられるの!?」 「いや、お前じゃないぞ! 皆さん! 僕が娘を捨てるわけじゃないですよ!」  ミヨちゃんは『捨てられる』という言葉に驚愕してしまい、また大声で叫びました。道 行く人達はお父さんにいぶかしげな目線を向け、中には「あの子捨てるって公言されてる よ。かわいそうに」という声までありました。お父さんは必死に周囲に頭を下げながら誤 解を解こうとしますが、ミヨちゃんはそんなお父さんを尻目に金魚すくいの露天前まで走 っていきました。  露天の前には先ほど金魚をすくっていた子供が、ビニール袋に二匹を入れて去っていき ました。ミヨちゃんは水槽の前に仁王立ちをして金魚の群れを眺めます。 (いち、に、さん、よん、ご、ろく、なな、はち、きゅう、じゅう……いち、に……)  ミヨちゃんはまだ数字を完璧には数えられず、また動き回る金魚達に惑わされて正確な 数は把握できませんでした、とにかくたくさんいるということだけは分かりました。 (この金魚さんたち……全部取らないと)  自分よりも大きい子でさえ二匹だけしか取れていなかったのに自分は何匹取れるのかと、 ミヨちゃんは生まれて初めての緊張に身体が震えます。しかし、今の彼女の肩には金魚達 の運命が乗っておりました。ミヨちゃんの中だけですが。 「お嬢ちゃん。やるかい?」 「やるーっ!」  露天のおじさんはもはやミヨちゃんにとって敵でした。弱いところは見せられないと言 うどこから学んできたのか自分でも分からない思いに突き動かされて、ミヨちゃんは叫び ます。 「やりかたおしえてー!」 「元気が良いね。でもお金がないと出来ないんだよ。親は?」 「おとーさんがあとでお金くれゆよー」  はやる思いにろれつが少し怪しいミヨちゃんに、露天のおじさんは微笑ましさを感じた ようです。先ほどのミヨちゃんとお父さんのやり取りがおじさんにも聞こえていたようで、 まだ人の波にもまれて謝っているお父さんを確認してから、ミヨちゃんへと言いました。 「じゃあ、おじさんがサービスしてあげるよ」  そう言ってミヨちゃんの前に差し出されたのは肌色のモナカでした。モナカの一部に柄 が長めの洗濯バサミがついています。それを受け取ってミヨちゃんは上から下から舐める ように見回しました。 「二匹までなら上げるよ。三匹取れたらさすがにお父さんにお金をもらうよ」 「……うん! おじちゃんありがとー!」  それまでおじさんに抱いていた警戒心がミヨちゃんの中で薄れていきました。そして、 次の瞬間にはそのことも忘れて水面に向き合います。  ミヨちゃんの中にあるのは金魚を捨てられるのを阻止すること。  金魚を救うこと。  水槽にいるのはそよそよと泳ぐ金魚達。  ミヨちゃんは「むむむ」とうなりつつも金魚達の動きを見ています。 「――えいっ!」  水面に近づいてきた金魚目掛けてモナカを振りますが、金魚はすぐ逃げてしまいます。 「たー!」「えい!」「にゃ!」  威勢のいい掛け声と共に何度も挑戦してみるものの、ミヨちゃんのモナカの中に金魚は 入りません。肩で息をするミヨちゃんの瞳に徐々に涙が溜まり始めました。 「とれないよぉ……」 「もっと静かに救うんだよ」  そろそろモナカも水を吸ってふやけてきました。ミヨちゃんも、もうチャンスは一度し かないだろうと感じておりましたが、どうすれば金魚が取れるか分かりません。露天のお じさんの声も何を言っているのか聞こえてきません。お祭りの中を歩く人の声が入り混じ り、ミヨちゃんは誰も知っている人がいない中に取り残されたような気分になってしまい ました。  寂しい思いから涙がぼろぼろと溢れます。泣き叫びそうになった、その時――。 「ミヨ」  一人ぼっちの世界に、知っている声が聞こえました。そして後ろから自分の手に添えら れる大きな手。それは今まで何度も見てきた手。  優しく大きく暖かい、お父さんの手でした。 「金魚さん達は驚き屋さんなんだ。だから優しくすくってあげないとびっくりして逃げち ゃうんだよ」 「う!――うん」  ミヨちゃんはいつものように大きな声で返事をしようとして、金魚達を驚かせまいと囁 きました。お父さんのにこりとした顔を見て、先ほどまでの泡だった気持ちが落ち着いて いきます。一つ深呼吸をして、ミヨちゃんはお父さんの手から離れました。  もう、大丈夫です。 「――――」  ミヨちゃんは出来るだけ水平にしたモナカを水面近くまで浮上してきた金魚へと近づけ ました。  交錯する一瞬。  水が跳ねる音と、金魚がびちびちと跳ねる音はほぼ同時に聞こえてきました。そしてミ ヨちゃんはモナカの中を元気に飛び跳ねる金魚を満足げに見たのでした。 「お嬢ちゃん! はやく袋に入れないと死んじゃうよ!」
* * * * *
「金魚さん。まだまだいたけど、みんなもらわれていったかな?」 「ああ。みんなミヨよりも上手いから、きっとみんなもらわれていったよ」  心底嬉しそうに前を歩くミヨちゃんへと、お父さんは内心の思いを打ち明けられないま ま相槌を打ちます。脳内では嘘をついたけれど生き物を大切にする心は大事だったんだと むりやり今回の騒動をまとめる作業を行っていました。 「わーい! わーい! 金魚さん! ご飯買ってあげないとー!」  ミヨちゃんは金魚の入ったビニール袋を前後にぶんぶんと元気良く振り回していました。 その動作自体がミヨちゃんの嬉しさを現していて、お父さんも「金魚は脳震盪起こしてる だろうな」などメルヘンな思いに包まれていました。  だからこそ、悲劇は起こったのです。 「あっ」  声と同時に投擲されるビニール袋。  下手投げにより中空へと放たれた袋は、陽光に照らされ道路に虹色の軌跡を描いていく。  びしゃん、と水が弾ける音。  それまで二人の中に溢れていた幸せの気配は、その音と共に弾けてしまいました。 「――金魚さん!」  ミヨちゃんが急いで、その後をお父さんも急いで放り投げられたビニール袋へと駆けつ けました。袋は完全に破れ、水はアスファルトに染み渡るかのように広がり、中心で金魚 がぴくぴくと身体をひくつかせています。 「金魚さん! 金魚さん!」  金魚を両手の上に乗せて呼びかけるミヨちゃん。しかし、金魚はその身体を動かすこと を、ついに止めました。水がなくなり呼吸が出来なくなったこともあるでしょうが、道路 にたたきつけられた時の衝撃は、金魚の身体に重大なダメージを与えていたのでしょう。  あまりにもあっけない、すくい出した金魚の最後でした。  動かなくなった金魚を見て、その場にうずくまるミヨちゃん。お父さんも次に何を言え ばいいか分からずに、ミヨちゃんの背中をずっと見ていました。 「……金魚さん、埋めてあげないと」  ミヨちゃんが涙を止めて口を開いたのは、お父さんの時計で十分が過ぎた頃でした。 「そうだね」  幸い、ミヨちゃんの家は一軒家で庭もある程度は広く、金魚一匹の遺体を埋める場所は 十分にありました。お父さんの肯定の返事にミヨちゃんも涙でくしゃくしゃになった顔を 少しだけ微笑みの色へと変えます。金魚を落とさないようにゆっくりと立ち上がり、歩き 始めたミヨちゃんの後ろをお父さんはついていきます。  ほんの十分ほどで、ミヨちゃんとお父さんの中にあった思いは正反対になりました。  でも帰る道は同じ。金魚が辿るはずだった道は同じ方向なのです。 「お父さん」 「……?」 「来年も、また連れてってね」 「……うん」 「今度は、ちゃんと金魚さん、連れて帰るから」 「そうだね」  お父さんは歩きながら器用にミヨちゃんの頭を撫でました。ようやく幼稚園を卒業した ばかりの子供が遭遇した事故が、何を残したのか。不謹慎ながらも、お父さんはその後の ミヨちゃんの成長を考えてしまうのでした。


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