奇妙な電子辞書

掌編コーナーへ



 奇妙な話をしよう。
 あれは俺が大学受験に失敗して、一浪目を始めた頃だった。第一希望に落ちたショックってのがなかなか抜けなくて、四月に入って予備校が始まっての俺はいまいち燃えなかった。親に流されるままに入ったけれど、結局最初の二回くらい出てから休んでしまった。五月からは行く気があった。でも四月はちょっと休みたいと自主休校。今にして思えば親不孝だったと思う。親の金だってのに。
 でもやっぱり罪悪感があったのか、俺は自然と電子辞書を探していた。センター試験でも俺は英語が苦手で、単語を覚えられなくて失敗した。電子辞書でもあればスムーズに調べられて勉強の効率も上がるだろうと踏んだ。今休んでいるのはあくまで後々役立つ辞書を手に入れるためだ、と言い訳に使うつもりでもあった。正に一石二鳥だ。
 さて、いろいろ捜し歩いた俺だったが良い辞書に出会えない。ていうか、高かった。いきなり万単位の金を使えば嫌でも親に気づかれる。
『いや、辞書を買おうと』
『サボるな』
『あひぃ』
 という結果になるのは目に見えている。新品は無理だと俺は諦め、ぶらぶらと歩いた。普通に辞書使うか。手垢たくさんつくほど触っていたやつは医大受かってたしな。偉大な奴だぜ。でも普通の辞書を使って今の俺があるからな。紙製の辞書は今の俺を形成したワンピースなのだ。つまり『浪人して堕落し、予備校に通っているにも関わらず自主休校をして、その言い訳を半分目的にして電子辞書を探している情けない男』へと俺を変貌させた一因が普通の辞書なのだ。
 思っただけで腹立ってきた。やはり時代は電子辞書。アイティーだよアイティー。
「お客さん。お探し物ですか?」
 さて、アイティーとは何の略だと考えていたら不意に声をかけられて止まってみると白髪さえなくなってはげ頭と化した場所をさすっている爺さんがいて歳くってる割には腰も曲がっていなくて筋肉もある程度ついていてぇきっとラジオ体操を毎日欠かさずやってるんだろうなと思った。句読点つけないで説明してみても案外できるもんだ。
 とまあ、それは置いておいて。
「え、ええまあ」
 なんでその時、無視しなかったのか分からない。どうしようかと悩んでいたから思わず答えてしまったのか。その老人に得体の知れない予感を抱いていたのか。どちらにせよ、俺はその老人の後ろにある店に入ることになったんだ。
「ほほう。電子辞書ですか」
「はい。勉強に使おうかと」
 その老人はいわゆる好々爺といった感じの良い人で、俺はプライバシーな事情まで話していた。
 そして俺は電子辞書を得ていたんだ。
 何を言っているのか分からないかもしれないが事実なんだ。おじいさんに話をしたらこれがあなたに必要な電子辞書だと言われて渡されて値段を聞いたら八千円だというじゃないか。それならまだ許容範囲だと金を払っていた。何を言っているのかわから……いや、分かるかそうか。
 そんなわけでその電子辞書を早速使ってみたんだ。帰りの電車内で。まずは何から調べようかと電源を入れてみて初めて気づいた。キーボードがあかさたなはまやらわ、と日本語なんだ。これはつまり和英辞書なのかと。俺が欲しかったのは一応英和辞書だったんだがまあまずは日本語を英語に訳すことだなということで適当に単語を検索してみた。
『三ツ島ひかり』
 俺の思い人をとりあえず入れてみる。あるわけがないんだけれど、ほら、最近はインターネットで名前検索してみると引っかかるし辞書でも引っかかるかなと期待半分でやってみたんだ。
 そしたら、引っかかった。ちゃんと字まで合っている。三ツ島は俺の知らないところで電子辞書に出るような存在となってしまったのか……と感慨深い思いを抱きながらとりあえず見てみた。どんなものかと。
 そしたら。

『B:89 W:56 H:88』

 何故かスリーサイズだけが乗っていたんだ。画面の縦は最近の携帯ディスプレイの大きさ。横はその携帯が五つ並んだくらい。そんな結構な大きさなのに中央揃えでスリーサイズのデータのみ載ってる。他にボタンを押しても他のデータは出てこない。正真正銘、名前とスリーサイズだけ。
 これが、俺に必要なものだというのか。女性の顔とか全体像とかじゃなくて、スリーサイズだけが? いや、そもそも必要な物は英和の電子辞書だったはずじゃないか。俺には……英単語よりも人のスリーサイズが必要だというのか?
 勿論、なんの冗談だと他のデータを検索したさ。今度は試しに自分のをやってみたよ。あったよなんでか。

『B:94 W:89 H:92』

 見事なデブ体型。自分の図ったことないけど、ジーンズを買うときは確かウェストこれくらいだった気がしたよ。どういう理由かは分からないが、この電子辞書は人のスリーサイズの情報だけを持っているらしい。何故か一般ピープルである俺や三ツ島のも。
 じゃあ歴史上の人物はどうなんだろうと検索してみた。クレオパトラさんはかなり括れた腰をしていたようだし、アレクサンドロス大王は絶対筋肉だろう全身というようなでかさ。アーサー王は結構小さいようだった。少し幼女なんじゃないかと。いやでもあの人男性のはずだしな。りかちゃん人形は日本人女性的なスタイルだったし、キティちゃんはドラえもんと似たようなほぼ同じ大きさ。そりゃあんなぬいぐるみだし。
 そこで俺は気づいた。たった三つの情報だというのに俺の中に次々と像が結ばれていく。
 胸と腰と尻。
 三つの情報が複雑に絡み合って体つきが決定されると服が着せられ、見合った顔つきが生まれ、支えるべき足が出来上がる。たった三種類の数字が俺の中に実像を結んだ。服付きで。
 そして俺は今に至るわけさ。
 いまや立派な服のデザイナー兼イラストレーター。
 数字を決めるだけで脳内に人物像を浮かび上がらせることが出来る。絵はコツコツ頑張って、大学に受かった頃には漫画研究会レベルにはなっていた。そこからこの道を進もうと決意して勉強して。
 人生、何が転機になるか分からないよなぁ。
 ん? どうしてそんな話をするかって? 別に自慢したいわけじゃない。いや、自慢したいんだけどさ。いやそれだけじゃないって意味でさ。
 電子辞書はどうなったって?
 大学入学と同時に電池が切れたよ。新しい電池を入れてみたけど反応しない。電池切れというよりは壊れたのかもしれないがな。まあ、俺に必要なくなった、ということだろう。
 でまあ、なんで話をしたかっていうと先日、俺に電子辞書をくれた爺さんに会ったんだよ。んでまあ、話していたらいつの間にか電子辞書を買っていたんだ。何を言っているのか分からないかもしれないが事実なんだ。おじいさんと話をしていたらこれがあなたに必要な電子辞書だと言われて渡されて値段を聞いたら八千円だというじゃないか。それならまだ許容範囲だと金を払っていた。何を言っているのかわから……いや、分かるかそうか。
 で、また見てみたんだ。とりあえず三ツ島と調べてみたらやっぱりあったよ。スリーサイズだけじゃなくて今のあいつとかだったら面白いなーと。そしたら、こう出た。

『0:00:00』

 何の数字がゼロなんだろうな? 考えても考えようがないことに気づいたから、とりあえず俺も調べてみた。ほら、見てみろよ。

『−0:01:00』

 あ、昨日の今頃見た時は『−0:25:00』だったんだよ。
 一秒ずつ減っていくからとりあえず時間だということは分かった。つまり、なにかまであと何時間って意味で。マイナスってついているから「何かが終わるまで」というより「何かが始まるまで」ということなんだろう。他にもスリーサイズ調べた奴らを検索してみたら、みんな『0:00:00』だったよ。
 俺はあと一時間。さて、何が始まるんだろうな?
 不安でたまらないよ。誰か、教えて欲しいんだ。
 この数字は何が始まるまでのカウントダウンなんだ?

 俺には何が必要だったんだ?


掌編コーナーへ


Copyright(c) 2008 sekiya akatsuki all rights reserved.