『肝試し』



「さて、これから肝試しを始めます」
 そう言って壇上に上がったのは黒いスーツに身を包んだ男だった。サングラスをかけて黒髪はオールバック。常に額に浮かぶ汗を拭いながら隠れた瞳以外を歪ませることはない。
 ライトが点灯した体育館内の体感温度は三十五度を超えていた。日中も三十度を下回ることがなかった一日の終わりに、熱気のこもった室内は外以上の暑さを持っている。さすがに集まった中の一人――たった一人である鈴木匡は苦しそうに言葉を発した。
「ていうか、いきなり肝試しって何で? そんなスーツ着て、小学校借り切ってまでさ」
「まだまだ甘いな、匡」
 スーツの男――匡の悪友である田中士郎はYシャツの首元をいじりながら笑う。その姿は、匡は同じ大学生なのにどうしてあそこまで堂に入っているのかと疑問に思うほどだ。
「何故肝試しだと? そんなもの夏だからに決まっているだろうが」
「いや、そりゃあ今は八月だし夏なんだけどな」
 匡は少しだけつっこんでから溜息と共に追求を諦める。士郎という男は気まぐれな男であり、やるといったら冗談でも何かをやる男だ。
 何しろ「富士山の水でカキ氷が何となく食べたい」との一言から本当に食い行くほどの男なのだ。
 そしてそれに悪態をつきつつも結局は付き合ってしまうのが匡という男なのだった。
「さて、ルールを説明しよう」
 匡の諦めの沈黙を肯定と判断し、士郎は持ち込んだホワイトボードに絵を描きながら説明を始めた。
「この小学校は二つの年代が一緒になってる三階建てだ。まずお前はこの体育館を出てから校舎の端にある一年一組に行ってもらう。次は教室の前にある階段を上がって反対側の四年三組。そして更に階段を上がって今度は五年一組だ。まあ、それだけ」
「……その説明だとお前はいかないのか?」
「俺はここで待ってる」
 士郎はサングラスの中心を中指で押し上げる。本当に堂に入った動作だと匡は思う。何か暴力団のボディーガードでもしてるように見える。格好よさに言おうとしてたことを危うく忘れそうになって、匡は頭を振った。
「それだと、俺がちゃんとチェックポイント通ってるかとか分からないんじゃないか?」
「それは最後に確かめるさ。それに! お前は不正をしないと信じている!」
 士郎の言葉に偽りは感じられなかった。心から信頼しているという波動が、匡の胸を震わせる。微細な震動が体内で共鳴し、全身へと増幅されて広がっていった。ぷるぷると振るえながら感動する匡に向けて士郎は更に一言。
「もし破ったらメリメリ君ソーダ味一年分おごりだしな」
「…………」
 それまで高揚していた気分が消沈したが、とりあえず匡はとぼとぼと体育館の入り口へと歩き始めた。さっさと終わらせて帰るに限ると今更ながら思ったからだ。
「生きて帰ってこいよー」
「ああ」
 溜息交じりの返答は、突如鳴り響いた雷の音にかき消された。


* * * * *


 足を踏み出すたびに、タイルが敷かれた廊下は硬い音を立てた。スポーツシューズを履いてるにも関わらず、コツコツと鳴る音が耳を打つ。それに呼応するかのように同じ感覚で稲光も発せられてるように匡は思える。
(夜の学校……やっぱりなんか怖いよな)
 匡の歩く右側に教室。左側に保健室など生徒共通の教室がある。明かりはそれらの教室に差し込む月明かりだけなのだが、今日は時折轟く雷光が強く廊下までも染め上げる。しかし、それも断続的なので、基本は暗闇の中を進んでいった。
 しかし、目的の教室は廊下の端なのですぐ分かった。雷の光から見えたのは一年三組の文字。そう言えば教室に行って何をするとも言われてないと気づいた匡は、とりあえず教室のドアを開けようとする。だが、ドアを覆い尽くすように紙が張っており、矢印と共に『天国への階段を昇れ』と蛍光ペンで書かれていた。
(……これはつまり、道を長くするだけか)
 匡は士郎の意図を察し、苦笑しつつも階段を昇り始めた。校舎の構造上、おそらくゴールであろう五年一組に向かうにはこのまま階段を上っていけばいい。奇数年のクラスが固まっている場所を階段で上っているのだから。二階にたどり着いた時、匡は一度上を見上げた。このまま進めばゴールである。士郎も見ていない。匡がそのままゴールに行ったことを知る者は誰もいないのだ。
 だが。
『お前は不正をしないと信じている!』
 浮かび上がってきた士郎の言葉。耳の奥に残っていた言葉が甦る。その言葉に口が笑みの形を取ることを、匡は止められなかった。
「しょうがないな」
 そして、彼の足は四年三組へと向かった。
 明かりは先ほどまでと同じく外からの稲光だけだったが、違うのは匡の心のありようだった。友との約束を果たそうという気持ちが、精神的な照明となって廊下を照らしている。暗闇に丸まっていた背中も胸を張ることで反られ、踏み出す足の一つ一つが力強い。
 その結果、たいして距離を感じることなく四年三組の前に匡は立った。扉は二つ。先ほど一年一組のドアに張ってあった紙は見当たらない。匡はそのまま素通りしようとも思ったが、何かの匂いに鼻腔がくすぐられる。ふらふらとドアに近寄ると、横引きのドアをゆっくりとスライドさせた。位置としては教室の後ろから入ったことになる。
 急激に強くなったのは、肉とソースの臭い。
 そして、教卓の前に立つ誰かに足をすくませた。
(…………誰だよ。あいつ、他の奴にも協力頼んでたのか!?)
 誰もいないと思っていたところにいたのは、長めの白髪が肩の辺りで外にカールし、怒りに歪んだ顔に鋭い瞳を乗せている男だった。匡が小学校の頃によく音楽室で見た肖像画そのままに、ベートーベンは腕を組んで匡を睨みつけていた。何故か漂う美味しそうな臭いを頭から除外し、匡の胸を跳ねさせるには十分だったが、思考を狂乱させるまでには行かない。大学に入った当時は士郎の悪ふざけに乗るのは匡だけだったが、最近では何人か匡が知らない友が増えているとも本人から聞いていた。
(……これを気に他の悪ふざけ仲間とも友達にっていうことか?)
 そう思うともう怖くなかった。ベートーベン――おそらくどこかの店でマスクを買ってきたのだろう――に「はろー」と言いながら近づく匡。教卓まで来ると、薄闇の中に浮かび上がる黒板に書かれた文字が見えた。
 どういう仕組みか分からないが、うっすらと文字が発光して暗くても読めるようになっている。蛍光ペンで黒板に書いたのかと肝試しが終わった後の対応を想像して困った匡だったが、文字の端を指でなぞってみるとそこは簡単に削れた。
「後始末はとりあえず大丈夫、と」
 隣にただ立っているベートーベンに向けて言ったが、彼あるいは彼女は言葉を返さなかった。幽霊は言葉を話さないというルールでも決めてるんだろうと、匡は気にせず黒板の文字を読んだ。

『ここが最終地点です。用意されてる串刺しバーガーを全て食べてください。合間にビールを五杯飲んでくださいね(は・ぁ・と)』

「……は?」
 いまいち意味が分からず匡は文字を読み返す。しかし、確かに文字はそのままである。視線を移すと先ほど歩いてきた時には気づかなかったが、一番前の机の上にはこんもりとしたハンバーガーが二つあった。それぞれのバーガーにはビールが入った五つのジョッキ。先ほど教室に入った際にも感じられた臭いが、今度は圧倒的な存在感を脳内に植え付ける。
 ハンバーガーの上と下、大きいのパンに挟まれた空間には、ハンバーグにとんかつにチキンに酢豚、トマトにエッグにキャベツにツナと言ったハンバーガーに入っていそうな食材が全て盛り込まれていた。高さは二十センチほど。バランスを保つためか、中心には木の棒が刺さっている。
 ビールは時折差し込む稲光に呼応するように、小麦色を机に広げていた。
「なんで、肝試しでこん――」
 独り言をしてみてようやく回路が繋がる。
 士郎の唐突な行動に慣れていた匡だからこそ、その場で連想できたのかもしれない。

 肝試し→勇気を試す。
 肝→五臓六腑。
 肝試し→大食いにビール飲みする勇気を試す。

「そういうことか!?」
 思わずベートーベンへと叫ぶが、相手は何も言わずに串刺しされたバーガーを持ち上げる。その光景を見て、匡は士郎の罠を理解した。
(あいつめ……)
 士郎の仕掛けたトラップ。
 それは、匡が約束を破って最上階に行ったとしたら、ここのイベントを通過しないことになる、というものだった。
 最上階がゴールだと見せかけて、実はこの四年三組がゴール。
 ラスボスであるベートーベンと共にハンバーガーを早食いし、ビール飲みをすることがこの肝試しのクリア条件だったのだ。
(あー、別に早食いまで付き合う必要ないよなぁ)
 一瞬、参加することを躊躇した匡だったが、結局はもう一方のハンバーガーの皿を取り、棒を外した。元から分解して食べることを想定していたのか、ナイフとフォークが用意されている。しょうがないな、という意味の溜息をつきながら、匡もまたハンバーガーを分解。そして一番下にあったハンバーグから口に運び始めた。
(全く……なんでこんなことしないといけないんだよ)
 早食いだと思ったが、意外と隣のベートーベンはゆっくりと口に運んでいるようだった。机一個分離れて暗闇とはいえ、口元に運ばれる肉がちゃんと食堂へと消えていく過程がよく分からない。口元はちゃんと穴が開いていて物を食べられる仕組みなんだろうかといぶかしむが、思考にふけって食べるペースが遅くなると思うと、匡は疑問を脳みその隅に押しやって食べることに集中した。
(本当……なんで……でも……美味しい)
 匡自身は気づいていないが、このように『別に意地になって参加しなくてもいいのに参加してしまう』性格が士郎と縁が切れない証拠なのだった。
 ハンバーガーを食べ終え、キャベツと一緒に酢豚を胃へと放り込む。ツナとチキンを口の中で混ぜ、トマトの汁で共に流し込む。最後に残ったエッグととんかつをこれまた一緒に飲み込んで、匡は立ち上がった。
 残るはビールジョッキ五本。
 早く帰りたいと言う思いが、悪態を付きつつ士郎の行動に付き合ってしまう人の良さが、ただ一つの行動となる。匡は片方のジョッキに口をつけある程度飲むと、今度はもう片方のジョッキにも口をつける。腰をかがめ腕を振り、ビールを飲む様はまるでスケートをしているように見える。
 リズムを崩さずにビールを飲み続ける様子を、ベートーベンはゆっくりと飲みながら見ていた。
「まず一周!」
 二つのジョッキを空にして、更にもう二つを手にとる匡。スケートのように見えていたが、本当にスケートをしている気になっているようだ。彼の眼前には氷のフィールドが広がり、レースを繰り広げているのだろう。
 一口、一口ジョッキに口が伸びるたびに急激に減る容積。
 二つで五分。空になる。
 最後のジョッキは両手持ちで威力二倍ということで、すぐさま空になった。
「飲んだぞオラ〜」
 雄叫び。
 隣を見るとベートーベンはまだ三杯ほどジョッキが残っていた。勝利を確信し、熱を持つ身体を匡は動かす。教室の外へと。
 言葉と身体は徐々に軟体と化しつつも、足は教室の外に向かう。背後からのベートーベンの視線がやけに冷気を帯びていることにも、ビールに沈んだ脳では完治できなかった。
「見事!」
 匡の揺れた視界に飛び込んできたのは、士郎だった。匡には二人に見えていたが、酒のせいだと分かっていたので特にお決まりの突っ込みはしない。
「ほーらほら。分身の術じゃー」
「……まったくよう、エキストラまで出しやがって」
「エキストラ? 何のことだ?」
 士郎の声に含まれた動揺に、ビールで形成された脳でも異変を察知していた。
「だから、あのベートーベン――」
 匡はふらつきながらも教室の方を向き、自分と戦ったベートーベンを探す。しかし、教室にあるのは空のジョッキと二人分の皿だけだった。
「あれ――」
 刹那、食道が焼け付くような激痛が匡の中に生まれた。足元から凄まじい寒気が這い上がる。こみ上げる、衝動。今まで自分を形成してきた要素が逆流していく。そんな錯覚に陥りながら、緩んだ脳を犯す恐怖に押されるようにして揺らめく世界の中を匡は翔けた。
 士郎の先にある、トイレに。
「うわああああ!」
 被害を食い止めるために絶えず叫び続ける匡の声が、ドアに遮られて消えていく。士郎はそれを見送ってから教室へと入った。
 二人分の空の皿。
 十個のビールジョッキ。
 どこをどう見ても、匡と死闘を演じていたベートーベンの姿は、確かに無い。肝試しが行われていた形跡と、その直後のあまりの差に教室自体が冷気を持っているような感覚を士郎も感じる。身体を震わせてから士郎は周囲を見回し、教室を出た。
 そこで士郎の耳に届いたのは廊下の奥から小走りで駆けてくる足音。薄暗い明かりの中で見えた姿は、ベートーベンだった。
「ご苦労さま」
 士郎は今も生死の境を彷徨っている匡に聞こえないように労いの言葉をかけた。
「上手く教室から出てくれて助かったよ。おかげでよりリアルに匡を騙せた」
 士郎は自分の計画が成功したことに喜びを得ていた。きも試しと肝試しの融合。肝の強さを試し、幽霊への恐怖を克服する。後者は実現できなかったようだが、むしろその結末を望んでいたのだ。
「このお礼はするよ。メリメリ君ソーダ一年分」
「あ、あのさ」
 ベートーベンのお面を脱いだ相手の顔は、汗が浮かんでいた。士郎は最初、食べ過ぎたからだと思ったのだが、苦しそうには見えない。違和感が空気を感染し、士郎の心にも徐々に浸透していく。
「どうした?」
 疑問を投げかける士郎に、相手は一度視線をそらして教室の中を見てから、言った。

「俺、今来たんだけど、終わったの?」

 時が、止まる。少なくとも士郎の中で、周囲の空気は止まっていた。急激に遠ざかる周囲の音。遠ざかる前の男。遠ざかる匡の酒に潰れた顔。
『俺、今来たんだけど、終わったの?』
 言葉が意味することは一つ。その一つを理解することで、離れていった現実は再び士郎の下へと集う。
 カッ! と窓の外が光る。稲光が身体を、雷鳴が耳を貫く。その音に即されるように、士郎はその場から歩き出した。最初はゆっくり。徐々に、早歩きで。
「おい? 終わったの? なあ?」
「……ああ、終わったよ」
 士郎は後ろから聞こえてくる声に答え、肩越しに振り向く。
 肩に乗ったベートーベンの顔と、目があった。
「――――!」
 声にならない悲鳴が、雷とともに校舎を揺らした。


 次の日、トイレで匡が。二階の廊下半ばで士郎が気絶しているところを警備員が発見し、教室を汚した責任と合わせて二人はこっぴどく怒られた。ベートーベン役の男は士郎が気絶した後に怖くなって帰ってしまったという。


 あの、豪快に飲み食いしていたベートーベンの存在は、闇に消えた。





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