『世界の片隅』



 体温計が計測を終える音が、薄暗い部屋に響く。脇に差し込まれていたそれを、ゆっくりとした動作でつまんで抜き去る手。映し出された数字を見て、裕一は呟く。
「三十七度七分っておいおい……げほっ!」
 声を出したところで、裕一の胸に痛みを伴いながら咳は続く。咳を堪える体力も無く、反動で体は跳ねるまま。自分の上に覆い被さっている布団がずれていかないか不安だったが、肩が出る程度で咳は止まった。
「えほ……ふぅ」
 動かすと悲鳴をあげる関節に顔をしかめつつ、裕一は布団を肩まで引き上げて腕を戻す。寝苦しさに目覚めてからほとんど動くことが出来ず、朝日が差し込むはずの窓はカーテンで遮られていた。隙間から差し込んでくる日が一筋の線となって部屋を横断しているのを目で追って行くと、自分の枕元に置いてある携帯電話が目に止まった。
 しばらく黙って見ていた裕一だったが、のっそりと手を伸ばして携帯電話を取る。午前十時を過ぎているのを確認し、メールが来ているのを確認。
 来ているのは二人。件数はそれぞれ二つ。どちらも言葉は違えど、今の講義に出てこない裕一に何かあったのかと心配するメールだった。
(…………)
 裕一は返信ボタンを押して文字を入力しようとし、動きを止めた。熱に揺れ、潤む瞳はほんやりと文字が入力されるのを待つ画面を見ていたが、腕の力が入らずに取り落とす。ちょうどカーペットに覆われていない剥き出しの床に落ちて、電話は硬い音を響かせた。それを枕元に戻すこともせずに、裕一は天井を見上げて自分の呼吸の音を聞く。
 静まり返った部屋。
 主が寝込んでいるのだから、それも最もだろう。
 静まり返った建物。
 学生マンションであるために、住人は大学へと通っているのか隣や上の部屋からは物音一つ聞こえてこない。裕一が前に寝過ごした際には掃除機をかける音が聞こえたりもしてきたが、今はどうやら音が聞こえる範囲に人は存在していないようだ。
 静かな、外。
 人通りが少ないのか、窓の外からは車がたまにマンションの前を通る音が入ってくるのみ。
(静かだな……)
 人の声も、物音も聞こえない。耳に入ってくるのは自分の熱を持った息遣いと心臓の早鐘。身体を起こそうとしたが、痛みに遮られて動作は緩慢になる。だが、裕一は布団を押しのけ、なんとか立ち上がった。
「風邪薬、飲まないと」
 声を出すたびに喉が痛むが、裕一は独り言を言いながら薬の瓶を探しあて、蓋を開ける。錠剤を三つ掌の上に乗せてからキッチンの蛇口へとゆっくり歩く。
「まったくよ……こんな風邪ひくなんて……ついてな――」
 突然来る寒気に身体が震え、錠剤を落としそうになるのを堪えた。しっかりと握り締めた手を身体に巻きつけ、裕一は襲いくる寒さを振り切って蛇口をひねる。コップに水を入れる手間を省き、口に錠剤を入れてから流れ落ちる水を横から補給する。水を前にして寝ている間に抜けた水分を身体が意識したのだろう。錠剤を飲み終えてもしばらくの間、裕一の喉は止まることはなかった。
「――ぷはぁ」
 水を補給したことで、少しだけ脳をとろけさせる熱が収まったのか、裕一の目の焦点はいつものものへ戻る。顎を伝い落ちる水を拭い、よろけながらも布団へと戻ってきた。のそのそともぐりこみ、再び上を見上げる。
 疲れた身体と意識を風邪薬はすぐに休息へと誘う。完全に眠りに付く前に携帯電話を取って時刻を見ると、最初に確認した時から三十分過ぎていた。そこまで過ぎているとは思えなかった裕一は一瞬うろたえ、そして何か寂しい気持ちが生まれる。
(――――)
 自分が思ったことが何か分からずに、裕一は意識を失った。


* * * * *


 ぴんぽーん。ぴんぽーん。
 聞こえてきた音に裕一は目を開いた。それからしばらく呆然としていたが、また鳴るチャイムの音に、身体を起こす。倦怠感はあったが、眠りに落ちる前よりは楽になっていた。携帯電話を見てみると午後四時。五時間ほど寝ていたことになる。
(誰も、着信もメールもなしか)
 携帯の画面には裕一が寝ている間にメールが来た痕跡も、着信があった証拠も存在していなかった。講義はもちろん休み時間もある。昼食の時間もあれば、今の時間ならばサークルまでの自由な時間もある。
 しかし、裕一の友人達は最初の二つ以外、特に連絡をしては来なかった。裕一にはそのことがやけに悲しく、寂しく思える。そんな思いを抱えつつ床に電話を置き、汗に濡れた寝巻きを脱ぎ捨て、代えのTシャツとジャージを穿いてから玄関へと向かう。自分を目覚めさせたチャイムが、この部屋のものだと思えたから。
 玄関に立ったところでもう一度鳴るチャイム。間違いなく、裕一へと向かう呼び出しだ。先ほど萎えた気持ちが少しだけ高ぶる。期待を寄せて覗き穴から外をうかがい――また気持ちが萎えた。
 鍵をあけてドアを開くと、立っていた男がはきはきとした口調で言う。
「どうも。山田運輸です。榊裕一様のお宅でしょうか?」
「……はい。すみません、こんな格好で」
「いえいえ。お風邪ですか? お大事にしてください。榊理恵子様からの荷物をお届けに参りました」
 身体の前で抱えないと少し辛い大きさのダンボールが置かれ、その上で裕一は証明のサインをする。ドアを閉めた後で、配達人が廊下を歩いていく音がやけに大きく裕一の耳に届いた。
「……母さんかぁ」
 目覚めに少しだけ回復した気持ちも、遠く実家から荷物が届いたことで萎えていく。気持ちは肉体までも萎えさせて、ダンボールを部屋に引き入れることも億劫になった裕一はそのまま中に引き返す。
 鳴らない電話。聞こえない物音。再び早まる鼓動。
 世界に一人取り残されたような感覚に、違う震えが裕一を覆った。
「……はは」
 自然と洩れる笑いは諦めを含む。いつも大学に行けば数人の友達に囲まれ、講義を受け、サークルに参加し、日々を楽しんでいた。
 だが、それが砂の上に築かれた城なのだと、裕一は気づいた。
 携帯電話を切り、部屋から出なければ、自分が一人だということに。
 大学生となり、様々な友と交流を持った代わりに、深い親交を育てるまでいけなかったのだと――――

 気づいてしまった。

「寂しいよな……」
 湧き上がる想いがそのまま口をついて出る。
 再び熱が上がってきたような気がして、裕一は薬を飲もうとキッチンへと向かった。そこには寝る前に飲んだ風邪薬の瓶が置いたままになっていて、多少寒さに震えながらも錠剤を手に取った。そこで、瓶に書かれている『食後にお飲みください』の字が視界に入る。
「食事も何も……作れるわけ……」
 ぴんぽーん。
 悪態をつこうとしたその時、チャイムがまた鳴った。意図しないチャイムの音に瓶を落としそうになったが、裕一は瓶を置いて玄関へと向かう。突然の郵便じゃなければ自分を訪ねてくるのは大学の友人だろう。だが、携帯電話はならなかった。もし大学の友人ならば事前に知らせる可能性のほうが高い。
 だからこそ、覗き穴から見えた人物に、裕一の心臓は風邪のせいではなく早くなった。
 ゆっくりと引き開け、見えたのは裕一よりも少し小柄の女の子だった。
「あ、裕一君。やっぱり風邪だったんだ」
「……中村。何しに来たん?」
 裕一の前に立つ中村と呼ばれた女の子はスーパーの袋を前に持ったまま裕一の部屋の中に足を踏み入れる。とりあえず玄関の扉を閉め、室内に女性に見られてまずいようなことがないのを確認してから、中へと通した。
「うわー。やっぱり裕一君の部屋って片付いてるね」
 言いながら中村――中村一紗(かずさ)は電気を付ける。それまで薄暗い中にいた裕一は刺激に目を細めた。
「あ、ごめん。裕一君は寝ててよ。おかゆでも作ってあげる」
 一紗はキッチンへと入り、そこにある風邪薬の瓶を見ながら言う。
「やっぱり薬の前にご飯食べないとね。お米どこ?」
 マイペースで徐々に食事の準備を進めていく一紗にようやく思考が追いついたのか、裕一は焦りながら口を出した。
「お、おいおい。どうしていきなりおかゆ作ってくれるとか言うんだ? 別に彼女でもなんでもないのに」
 一紗の行動は裕一の考えからはみ出していた。サークルも一緒で大学で仲がいい女子であり、会えば一緒に昼食を食べたりもする間柄ではあるが、病人のために食事を作るまでの関係ではないはずだ。
 広い世界に一人きりという寂しさを感じた後に巻き起こった台風に、裕一は冷静に考えられない。今度は知恵熱が出そうになる裕一に、一紗はシンプルに言葉を返した。
「だって友達だし。弱った時はお互い様だよ」
「……だって、彼女でもないのに」
「彼女がいるなら彼女にやってもらえばいいじゃない。でも、裕一君は彼女いないんだから、私がやってもいいでしょう? それに」
 一紗は一度言葉を切って裕一のほうを振り向いた。腕を腰に当てて少し困ったような顔をしながら、裕一の目を見据える。
「友達なんだから別にいいじゃない。裕一君は難しく考えすぎ」
 怒ったような口調でそう言って、一紗は再びおかゆを作る準備を始めた。その背中を見ていた裕一は、自分の中にすぅっと何かが入ってくるような気分になり、自然と顔が緩む。同時に体勢を軽く崩して、また布団の中へと戻った。
「ご飯と……ふんふん。うん、全部そろったから、できるまでもう一眠りしてて」
「ありがと」
「どういたしましてー」
 布団を口元まで引き上げて、心地よさに細まった目を一紗へ向ける。自分が感じてる心地よさがけして布団のぬくもりだけじゃないことを、彼は理解していた。今まで自分を覆っていた弱気が電灯によって生まれた光に飲み込まれていったように、裕一は思う。
 そこに鳴る携帯の着信音。メールが来たことを警戒に告げてから音が途切れたそれを拾い、メールを見る。
『今日はどうした? もし寝込んででもいたらメールするのも悪いと思ったからしなかったんだけれど……連絡ください』
 同じサークルの仲間からのメール。文面を読み終えて、裕一は自分の弱気な思考を恥ずかしく思った。結局は自分の被害妄想で、別に友人が自分をないがしろにしていたわけではないのだ。
「自分を孤独にしてるのは、自分自身か……」
「ん? 何か言った?」
 米を磨ぎながら聞いてくる一紗に「なんでもないよ」とだけ言って、裕一はメールを返信すべくボタンを押す。
 朝に出来なかった返信。
 ゆっくりと。一つ一つ。裕一は相手へと送る文章を打ち込んでいった。





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