『神様ありがとう』





『体育館の中から響くボールが跳ねる音。バスケ部の気合を込めた叫びが自分の背中を押

しているような気がして、隆夫は一歩足を踏み出した。しかし、目の前の女の子は身体を

震わせて後退する。瞬間的に足を止めて、武則は自分の顔が今どうなっているのかを思い

浮かべた。きっと緊張に恐ろしい顔になっているのだろう。そして、まとう気配の圧力に

耐え切れず、女の子は後退してしまったに違いない。そこまで思い、武則は反省する。こ

れから思いを告白する彼女に対して、怖がらせてどうするんだろうか。

「あ、あの……ご、ご用件は?」』





 武則はキーボードを叩く指を止めた。それまで書いた自分の文章を見て、首を振り、た

め息をつく。それから何度か文章を書くが、すぐに消した。数分の間ディスプレイとにら

めっこ。そして――敗北。

「駄目だなぁ……」

 時計を見ると午後四時。タイムリミットまであと二時間。あと二時間で、一つの終わり

が訪れる。

「あーあ」

 椅子から立ち、床に寝転ぶ。一人暮らしのマンションの一室。大学生の混沌が支配する

空間だ。彼が寝てる床の周囲には新聞についてきたチラシや本が散乱し、とても歩けた物

じゃなかったが、寝るスペースは確保していたらしい。顔を真横に向けて視線を巡らす。

うっすらと埃を被ったチラシから天井の染み、ぶら下げてある馬の人形、好きなアーティ

ストのライブ会場で買ったサイン色紙などを経由して、反対側の床に着地する。

 時計を見ると午後四時五分。あと、一時間後十五分。

(折角のチャンスなのにな……)

 頭を過ぎったのは喫茶店で話を持ちかけてきた友人だった。その時の服装から会話も大

体再生できる。それくらいのインパクトある話。

『俺が組んでる同人サークルさ、オリジナル小説でそこそこ売れてるんだよ。お前もネッ

トで小説書いてるんだろ? 一度載せてみない? もし好評だったら次からも一緒にやっ

てみないか?』

 自分の作品が金銭でやり取りされると言うのはかなり魅力的だった。プロ作家など少し

も目指したことはない武則だったが、書いた話で金をもらえるという話に、彼は甘い夢を

見た。

 それが一月前のこと。

 そして、書こうと思っても書けない自分にいらつきながら今までの時間を過ごしてきた。

少しでも書きやすいようにと主人公の名前を自分にしてみたが、結果は先刻のように輝か

しい結果は生まれなかった。

「悩んでても時間は過ぎてくか……」

 嘆息しながら身体を起こし、散らばったチラシを眺める。六時に締め切りとは言え、友

人のところへと持っていく時間は考慮されている。六時までに書き終えれば、一緒に出し

てはもらえるのだ。ならば、最後に閃光のように集中するのも手だろうと、武則は少し開

き直った。そして開き直りは武則の空腹感を刺激したらしい。最後の追い込みの前に何か

の出前を取ろうとチラシをいくつか見ていく。

 その中の一つに、目が止まった。

「漢が作る熱き血潮のラーメン」

 チラシの言葉を口ずさんでみる。それから何度か繰り返し、首をひねった。チラシは質

の悪い再生紙でも使っているのか乾燥してかさかさ。文字は何故かお化け屋敷で使われて

るような書体。おどろおどろしい言葉で『おいしさ百倍。勇気満腹。身体の芯まで熱湯消

毒』と書かれている。電話番号と住所を見ると、どうやらこのマンションから数分歩けば

着くような距離。

(全然知らないけど……近いからここにするか)

 携帯に向けて番号をプッシュ。頭のどこかで「止めておけ」という声がしていたが、些

細なことは気にならなくなっていた。ラストスパートへの集中力がもう出ているのかチラ

シを配ってるのだから大丈夫という安心感があるのか。

 やがて呼び出し音によって、武則の心の声はかき消されていった。

『はい。こちら雪漢(ゆきおとこ)研究室』

「あのラーメンの出前頼みたいのですが」

 おかしな言葉が聞こえたような気もしていたが、武則は構わず用件を言った。余分な時

間を割いている暇は、彼にはないのだ。

『味噌・塩・しょうゆ・とんこつに野菜にねぎに筋肉ラーメンがありますが?』

「味噌で」

『ありがとうございます。お届けは十分ほどかかります』

「分かりました。住所は――」

 それから出前のやり取りは終了し、チラシを投げ出してまた寝転ぶ。変な言葉が聞こえ

たのはきっと空耳だろうと思い、目を閉じて出来た暗闇に目を向けた。

 暗闇が明るくなり、創作のネタが映像と化して流れていく。

 先ほどまで書いていた恋愛物だ。

 友人の同人誌はコメディ物が主体であるため「何か毛色の違うものを」と頼まれた武則

は、自身も苦手であるのに引き受けた。その結果として今の現状に陥っているのだ。生ま

れた後悔に苛まれ、頭を抱える。

(はぁ……書けるかな……)

『ぴーんぽーん』

 チャイムの音にはっとして起き上がる。時刻は午後四時二十五分。時間が思ったよりも

早く流れていたことにも驚いたが、本当に十分ほどで来たことも衝撃だった。

「はーい」

 一声かけて玄関に行き、ドアを開けるとそこには誰もいなかった。首を外に出して見回

してみても誰もいず、出前の物も置かれていない。

「雪漢研究室です〜」

 声は後ろから聞こえてきた。部屋と玄関は繋がっているため、一直線に相手の姿が武則

へと飛び込んでくる。

 白いエプロンを付けている男。

 他に装飾具も着るものもない。エプロンで隠された部分以外は全て地肌だった。

「味噌ラーメンお持ちしました!」

 語尾を上げて両手でお盆を突き出してくるエプロン男。お盆の上には立派な味噌ラーメ

ンが鎮座してかぐわしい匂いを発しているが、武則はラーメンを見ずに部屋の中へと戻っ

た。お盆のラーメンを挟んで対峙する二人。

「どうやって入った?」

「もちろん窓から」

「ここ四階ですが」

「エプロンに不可能はないんです」

 男の言葉を聞かずに、武則は次の行動を模索した。だが、先を制したのはエプロン男。

「ほほう。恋愛小説ですか」

 目を離していたわけではないのに、いつの間にかエプロン男はパソコンの前に移動して

いた。机にあるノートパソコン。表示されている文章を眺めながら顎のあたりを男は摩る。

引き締まった尻が武則へと突き出されていたが、何故か武則は嫌悪感を感じなかった。

(綺麗だな……)

 体格的には武則と同じだろう。特に鍛えてはいないが余分な贅肉も僅かである武則。し

かしエプロン男はそんな武則の身体の理想系とも呼べるような体つきだった。もし、銭湯

などで出会ったならば、ただ感心して終わるだろう。だが、ここは銭湯ではなく自分の部

屋で、ラーメンの出前の人だ。理性の欠片をかき集めて一つの形にすると、ようやく思考

が言葉に変化する。

「お、おい……人のもの勝手に――」

「迷いが見えるな」

 折角生まれた言葉も、男の口調に現れた真剣さに消される。そして、ディスプレイから

離された顔を見て、武則は驚きに息が詰まった。

「これは自分が書きたい作品ではない……本当の自分を、表現できてはいない。そう、お

前は思っている」

 全く同じ顔をした相手が、言葉を紡ぐ。声帯まで同じなのか、声もそっくりだった。

「ゆ、夢……?」

「夢でもどちらでもいいさ」

 男はパソコンから離れて武則へと近づく。感覚的な怖さに後ろへと下がろうとするが、

身体は動かない。すぐに男は武則の両肩を掴み、その瞳を覗き込んでくる。

「お前は、どうして小説など書いている?」

「何故、って……」

「プロにもなる気はない。たかが、趣味で、どうして書いている? お前も今、四年生で

大学院の試験勉強も大変だろう? コンビニの深夜バイトも週三で入れているし、片手間

で書くには評価も高まっているだろう?」

 確かに、と武則は心の底に生まれる物がある。

 社交辞令のようなもの、真剣な感想などのメールが徐々に増えてきていて、以前のよう

に気楽に執筆することが出来なくなってきていた。それでも武則は執筆を止める気は少し

も起きなかった。本当に欠片も考えずに、今まで過ごしてきた。

 それを不思議とも思う事なく。

「何故だ? 何がお前を、支えている?」

「なんでってなぁ……」

 思い浮かぶのは執筆を始めてからの三年間にあったことだった。

 初めて感想をもらった時や、初めて酷評をもらい泣きそうになったときのこと。酷評を

自分へ送った人が褒めてくれたことに狂喜したことや、創作を通して知り合った、顔が分

からないライバル達。いくつもの思い出が浮かびあがり――黒く染まっていった。目の前

にいたはずの男は消え、暗闇に一人、取り残される。

「なんでっていってもなぁ……」

 足元が沈んでいく感触にも、感情が麻痺しているのか驚きはやってこなかった。おそら

く沈みきってしまえばもう戻れないことは理解できるのに、あがく気になれない。それも

どこに戻れないのかも分からないのだから、仕方がないことだった。

(何だろうな。何で、沈んでんだろ。どこに戻れないんだろう)

 沈みゆく身体。沈みゆく思考。沈み逝く『思い』

 だが、終焉はすぐに訪れた。

「あ、そうか」

 自分でもあまりに気の抜けた声だと武則は思ったが、周囲の闇は一瞬で霧散していた。

 目の前には自分と同じ顔の男。鉄面皮ではあるが、武則にはその顔に笑みが浮かんでい

るようにも見える。

「何が、お前を支えてる?」

「何も支えてるとかそんな大げさなことじゃない」

 もう硬直は解けていた。両肩を掴む相手の腕を外して、武則はパソコンへと向かう。椅

子には座らず、立ったままで書かれた文章を見つめる。

「俺は書きたいものを書くだけだ。だから書きたいときには書くし、書きたくないときに

は書かないし。書きたいものを書こうと思うから上を目指すし。シンプルだよ」

 文章を全てドラッグして囲み、削除ボタンを勢いよく押す。

 それまでの時間は一瞬で消え去った。

「書きたいものを、書けば一だし。書かなければゼロ。シンプルだろ?」

「そうか」

 男は本当に笑った。口を開いて白い歯を見せて。入ってくる夕日と色が混ざって橙色に

なるほどの白さ。武則にとって、とても眩しく、優しい笑顔だった。

「ラーメン食べて、創作を大いにがんばれ!」

 男は窓を開けてベランダへと乗り出した。武則は男の背中に問いかける。

「あなたの……名前は?」

 背中越しに横顔が向き、静かに語られる言葉。

「迷える創作者に救いの手を。我は創作の神なり」

 言葉と共に、夕日が武則の目を覆い尽くした――







 目が覚めた武則が最初にしたことは時計の確認だった。午後四時五十五分。どうやら五

十分ほど寝てしまったらしい。ここ最近は締め切りのことを考えてゆっくり寝ることが出

来ず、そのしわ寄せがきたようだ。だが、武則は自分が落ち着いていることを不思議に思

った。

「夢が良かったかな」

 どんな夢かは覚えていない。しかし、何か暖かく、久しぶりに良い夢だったと覚えてな

くても言えるものだ。うなりながら背筋を伸ばす。倦怠感を晴らし、最後の作業へと向か

うために顔を叩いた。

「シンプルに、いくか!」

 ノートパソコンの前に座ると、それまで書いた文章は消えていた。寝る前に消したのか

は覚えていなかったが、起きた時から消すことは決めていたから特に問題はない。

 あとの問題は一時間で書ききれるかということだ。

「やれば一だし、やらないとゼロか」

 武則は強く息を吐き出して、キーボードに指を置く。すっきりとした頭には最初から終

わりまでの話の流れが徐々に浮かんでくる。書き上げる。確かに、書き上げる。仮眠前に

は湧き上がらなかった感情を自覚して、武則は指を動かした。

 キーボードが奏でる軽快なリズムが部屋の中に絶え間なく響いていた。







『ありがとう神様・完』



* * * * *
「ストーリーとしてはいい感じだな」  目の前に座る昇の言葉に隆夫は笑った。昇の部屋に今度のサークル用原稿を持っていき、 読み終えた直後の言葉。ふと腕時計に目をやると、もうすぐ六時になるところだった。 「なんていうか、メッセージ性が出てると思うよ」 「本当! 嬉しいよ〜」 「でも、何故にラーメン屋でしかも裸エプロン?」 「ラーメン食べながら思いついたからかな? その時さ、奥でラーメン作ってる人が裸エ プロンだったんだ」 「まじかよ。絶対そこ行かねー」  二人の笑いに安堵が混じる。共にネット上で小説を三年ほど書いてきて、今回のコミッ クマーケット参戦は初めてのことだ。そこへの出展作品が完成したのだから、気が緩むの は当然のことだろう。これから、知り合いのベテランと共に二週間の推敲作業期間となる、 その前の一瞬の休息なのだ。 「さって。お互い作品が一応完成したところでラーメンでも食べに行くか。……裸エプロ ンじゃなくてな」 「おうよ!」  声を弾ませながら部屋を出ようとする二人。ふと、隆夫は目線をベランダへと向ける。 今にもそこに、自分が描いた登場人物が現れるのを待つように。その思いに気づいたのか、 昇は黙って隆夫を待つ。 「ありがとう、神様」  自分が書いた今回の話も、急に閃いた物だった。そんな時、隆夫は創作の神が降りてき たと表現する。ぱっと閃いた物が恋愛物ならば恋愛の神。ホラー物ならばホラーの神。今 回の作品は、いくつかの神様が混ざって降りてきたようだ。 「自由に降ろせるようになればいいな」 「そうだねー」  昇の言葉にこたえ、隆夫はベランダに背を向ける。 『ラーメン食べて、創作を大いにがんばれ!』  扉が閉まる直前に、声が聞こえたような気がした。


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