『思い出で隠せない』


 星が良く見える空の下で車を走らせる中、過去のある時点の記憶が鮮明に甦った。それは私の心の奥深くに座し、足を痺れさせることなく二十年もあり続けた記憶。座しているのは女性、まだ少女という年齢であり、姿が変わることなく真っ直ぐに前を見据えて正座を続ける。
 その視線の先にあるのは、私の姿だろう。若き日の、私の姿だろう。進んでいく景色を見ながら、脳は過去の映像を視界に展開させる。
 あの、星が瞬く夜の教室を。

* * * * *

「面白いこと、教えてあげる」
 そう言って塚屋直(つかやなお)は私を教室へと誘った。時刻は午後八時を回っており、部活動で疲れた身体を引かれるのは苦痛ではあった。しかし、直の顔に浮かぶ笑顔が当時の私にはあまりにも眩しく、また夜の教室という状況が少年から少しだけ階段を昇る期待を持たせたため、私は特に反論せずについていった。
 直と私は別のクラスだったが、彼女の容姿の美しさや頭脳、運動神経の良さは同学年の間では既に知れ渡っていた。完璧な人間というものがありえないと言えるのは年齢を重ねてからであって、若き日の私、そして同じ時を過ごした学友達は彼女に羨望の眼差しを送っていたのだ。だからこそ、ほんの数日前に話をして交流するようになった私が二人きりになったということは、おぼろげながらも明るい未来を想像させ、心臓を高鳴らせた。
 直は私の手を離し、教室の中央に位置する机の上へと先行して座った。そして私に傍に寄るように促した。私が彼女の言う通りにして横に立つと、直は後ろの机に腰掛けるよう言って背中に流れていた黒髪を前に回した。私は直に言われるまま後ろの机へと腰掛けた。
 顔を半分だけ私へと向けて、直は言った。
「ねぇ。ブラのホック、服の上から外せる?」
 私はその言葉の意味を最初、理解できなかった。直のセーラー服は夏服であり、白い生地に下着のラインが浮かび上がっていた。女性の下着というものは母親のものしか見たことがなかった私には、同年代の女性が母親と同じ下着を身につけていることも想像することが出来ず、それを外すということが何を表すのかも先が見えない。
「外せると、役に立つよ? 練習台になってあげる」
 左半分だけが私に笑いかけた。私は背筋をぞくぞくと這い上がる何かを感じた。悪寒ではない。中学生の私にはそれを口に出すための言葉がなかった。
「やってみると簡単だよ? まずはブラのところに右手を持っていって――」
「……ど、どうして?」
 私はようやく言葉を出すことが出来た。それは喉の奥に詰まり、人間一人分の距離さえも届かないように思えたが、ちゃんと直の耳には届いたらしい。言葉を切って、斜め下を見るようにしながら向けていた半分の顔を、更に私の方へと向けた。身体が多少ねじれて背中が遠ざかる。
「どうしてって?」
「ぼく……いや、俺にどうして、そんなことを?」
 口に出すという行為は私の頭を冷やしていった。教室に入るまで。そして彼女の後ろに回るまで激しく高鳴っていた心臓も落ち着き、幻想の世界から抜け出してみると、残ったのは不信とかすかな怒りだった。
「俺達さ、ほんの数日前に友達になったばかりじゃない。なのに……なんでこんなこと頼むの?」
「こんなことって?」
「その……ブラ、ジャーを外すとか……」
 次第に声が小さくなる。まだ小学生とほぼ変わらない年齢の私には、異性の下着の名を口に出すのははばかられた。彼女はまた体勢を戻し、顔の半分を向けている。背中がこちらを向いている。
「成瀬君。女の子に興味ないの?」
「そりゃあ、あるけどさ。でもこの状況は分からなさすぎて」
「成瀬君に外して欲しいなって思ったの」
 直は躊躇いなくそう言い、私は言葉の意味を理解しようと思考をめぐらせた。
 男性に自分の下着を外して欲しいと言う心情とは何なのだろうか。数日前、下駄箱で彼女から名を呼ばれて驚いた記憶が甦る。もしかしたら、彼女は私を好きになってくれているのだろうか。そして、これは遠まわしだが一方では非常に直線的な告白なのではないだろうか。だが直は私の様子を観察して試している節も見受けられる。素直に喜ぶべきが疑うべきか。
「ブラのホックを外したら、どうなると思う?」
 再び熱に浮かされてきた脳に差し込まれる言葉。直の口から紡がれる言葉は、おとぎ話で聞いた船乗りを誘惑する海の歌姫のように正常な判断力を奪っていく。その甘美な妄想を振り払い、私は答えた。
「外したら……そりゃあ、外れるよ」
「そう。外れるの。するとね、開放されるんだ。とても、気持ちいいんだよ」
 胸を包んでいるものからの開放。下着に締め付けられている、ということなのだろうか。それほどまでに彼女の胸は大きいのか……。卑猥な考えが形となって現れる前に、私は頭を何度か叩いた。そのかいがあってか、頭が熱くなるだけですむ。そして、次の瞬間には一瞬で冷えた。
「人間さ、生まれたままの姿でいられるのが一番幸せだと思わない?」
 その問い掛けは、これまでの私を試すものとは違っていた。何度も迫り来る甘い誘惑を振り払ってきたからこそ気づく、異質な感情が含まれた問い掛け。
「もうさ、私窮屈で仕方がないの。締め付けられて。苦しくて。どこかに行きたいって思うようになった」
 いつの間にか直は顔全てを前に戻していた。背中から、浮かび上がるホックから声が出ているような気がして自然と視線がそこに向かう。
「何でも出来た。誰もが好きでいてくれた。でも、それは小さな世界のことで、少しでも広い世界に行けば私なんてたいしたことがないことを分かってる。だから、私は私を否定してくれる世界に早く飛びだしたかった。その世界で生きていたかった。でも、まだまだそんな力もないから、今いる世界の中で少しでも私を……『塚屋直』を壊したかった。開放されたかった」
 直は早口でまくし立てたために、私は半分も彼女の言葉を理解できなかった。彼女自身も何を吐き出しているのかは分かっていなかっただろう。だが、それでも直が望んでいたことは少しだけ聞き取れた。
「誰でも良かったのよ。成瀬君でも誰でも。ただ、学校から帰るときに下駄箱にいる貴方を見てふと思ったのよ。この人でいいやって。別に特別でも何でもない。私の都合で選んだだけなの。理由なんてないのよ。誰でも良かったの。残念だったわね」
 俯いたために猫背になる背中。そこを走る下着の線に、私は手を載せる。ぴくりと震えるのを感じながらまずは片手で、それで出来なかったので両手を使ってホックを外した。金具が外れる音が聞こえるまで、数分は経っていただろう。
「外れた」
「どうして?」
 また左半分だけの向けられる顔。能面のように表情を失っていたが、私には走るひび割れがくっきりと見えていた。直の問い掛けには答えず、私は続ける。
「気持ちいい?」
「……すーすーするね」
 顔の左半分がひび割れ、崩れ落ちて下から笑顔が現れる。私は立ち上がって直の右側を通って教室から去ろうと歩いていく。背中に感じる直の視線は痛いものではない。
「ありがとう」
 かけられた声に振り返るのが恐くて、私は無言のまま教室を出て行った。脳裏に焼きついた左半分の笑顔。残りの右半分は、もしかしたら泣いていたのかもしれないと思いながら、私は家路についた。


 次の日、塚屋直が転校したことを知っても私は特に驚きはしなかった。手紙を出そうと担任に住所を尋ねた生徒達が、彼女の苗字が変わった事を知って騒いでいたことにも、驚きはしなかった。
 ただ、思った。
 外して、君は開放されたのかい? と。

* * * * *

 車を止めて、私は携帯電話を取り出した。リダイヤルが奏でるプッシュ音を聞きながら、今までの人生に思いをはせる。
 あれから二十年が経ち、私も両手で余るほどではないにしろ、両手の指を用いなければ数えられない程の女性のブラジャーのホックを外してきた。衣服から開放され、一糸まとわぬ姿となった女性達と身体を重ね、心まで一つになりながらも、私の中に座す一人の女性を消すことが出来なかった。
 年をいくつ重ねていっても。いくつもの思い出が積み重なっていっても。彼女を隠すことが出来ない。何人もの女性と時を重ねても、彼女達のブラジャーのホックを外しても、私は開放されることはない。
 夜の教室。彼女の背中に触れたときの感触。ブラジャーのホックを外した時の音。左半分の笑顔。
 全て、セピア色に染まることなく生きている。
 それは『塚屋直』が恋愛対象として記憶に残っているのではなく、私が思春期に体験した衝撃的な出来事として残っているからだろう。
 あの時の彼女は私をただ自分の欲求を満たすために使った。私は相手の欲求を満たすために使われた。遅れて私の学年に響き渡った直の家庭内の不協和音が理由だとしても、私は使い捨ての道具として利用されただけだった。異性へと感心を持ち始めた男子としては、女子の醜い部分をあからさまに見せ付けられたことになったのだ。
 それでも、私は怒りをついに持つことはなかった。あの時も、そして今も。 直の気持ちが多少なりとも理解できるから。
 直は、自分を知らない人間を誘わねばならなかった。直は自分を壊したいと願ってはいたけれども、自分を好きでいてくれる人々がそれで離れることを怖れた。
 だが、直と親しくない人物にならば、醜い部分をさらけ出せる。離れても構わなかった。
『塚屋直』イコール完全なる女子という偶像を破壊されても、直の心は傷つかない。次の日にはもう二度と会うことがないだろう場所へと離れていくのだから。後でその人物が何を言っても、直の既存のイメージを壊すことなど出来ないのだ。数日しか交流してないような一男子では。
 それは、当然のことなのだ。直もただの中学生の女子であり、弱さを持った人間だった。それが分かったからこそ、私は彼女に怒りを覚えなかった。直が次の日からいなくなったこと、膨らんだ妄想を消滅させられたことへの憤りはそんな妄想をした恥ずかしさに消えたことも手助けした。
 そして残ったのは、色あせない塚屋直だった。
『もしもし?』
 長いコール音の後に聞こえてきた妻の声を聞くと少し涙が出た。これから言うことはとても悲しいことだから。
「明美か。私だ」
『あなた……今日は、会社に泊まりではなかったの?』
「それが予定が変わった。私はしばらく、家に帰ることはない」
『え? どういうこと?』
 私は視線を助手席へと移した。シートベルトをつけて座る人影。外灯がかすかに席を照らし、赤黒く汚れている服を浮かび上がらせる。
「私は、人をひき殺した」
 電話の先で息を飲む明美の様子が手に取るように分かった。その間に言うべき言葉を紡ぐ。
「けして故意ではない。だが、殺してしまったのは事実だ。だから、私は死体と共に警察へとこのまま向かう。弁護士を立てても目撃者がいるとは思えない状況だし、数年は刑務所に入ることになるかもしれない」
『あの、あな……』
「被害者の女性を出来れば早く警察に届けたい。またあとで電話することになるだろう。その時、離婚のことについて話そう」
『離婚だなんて、あな――』
 限界だった。涙による嗚咽が始まる前に私は電話を切った。涙を拭き、後ろの席に荒々しく投げ入れて私は隣の死体を見る。首の骨が折れ、真後ろに顔が向いていた。こちらに見えるのは左半分の顔。そこにあるのは衝突する時に浮かべたであろう、驚愕している表情だ。ふと、見えない右半分は笑っているのではないかという思いが頭を過ぎった。
 直との再会。それはこれまでの私が望んでいたものだった。所在を探そうとはしなかったが、街角で、どこかの店で出会う光景を思い浮かべない日は少なかった。
「君は、君を否定する世界に行けたのか?」
 死体が持っていたハンドバックから出てきた免許証に書かれた名前。それは確かに、かつて『塚屋直』と呼ばれた女性だった。見間違うはずもない。過去から現在まで私の中に居続けた少女。その少女がそのまま成長して、隣に座っている。
 今いる世界の中で、少しでも自分を壊したいと願った『塚屋直』
 名前が変わり、彼女はどんな世界を見てきたのだろう。髪の毛は見事な茶色に染まり、きつい香水の匂いは血のそれと混ざり合って車内を覆い尽くす。格好は赤いワンピース。少し足を上げれば下着が見えてしまうほどのミニスカート。ハンドバックは私の給料では尻込みするほど高いブランド品だ。
 その風貌から、彼女が今どんな職に就いているのか想像するのは容易だった。
 彼女は、彼女を否定する世界に出会い、何を感じ、どう人生を歩んだのだろうか。
 それを聞く事はもう出来ない。一瞬の再会は衝撃と共に訪れ、去っていった。
 私は解放されることはなく、永遠に直に縛られ続けるのだ。
「あの時は片腕では無理だったが、今では簡単に外すことが出来るよ」
 背中に手を伸ばしかけて、止める。警察に余計なことを言われるかもしれないし、ここで外してももう意味がないことを理解していたから。
 彼女を縛るものはもうない。服を脱がなくても、ブラジャーのホックを外さなくても、彼女は小さな世界から開放されたのだから。
「……すまない」
 こみ上げる涙をまた拭いて、私は車を走らせた。
 星が良く見える空の下で車を走らせる中、過去のある時点の記憶が鮮明に甦った。それは私の心の奥深くに座し、足を痺れさせることなく二十年もあり続けた記憶。座しているのは女性、まだ少女という年齢であり、姿が変わることなく真っ直ぐに前を見据えて正座を続ける。
 その視線の先にあるのは、私の姿だろう。若き日の、私の姿だろう。進んでいく景色を見ながら、脳は過去の映像を視界に展開させる。
 何度も。何度でも。
 あの、星が瞬く夜の教室を。


「面白いこと、教えてあげる」




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