『水の鏡』 ……ああ、お帰り幸子。今日も寄り道せずに帰ってきたんだね。本当に、幸子はいい娘だね。今日も近くで交通事故があったんだ。寄り道をしていた娘がもう三人も跳ねられてる。道の幅が狭かったり見えづらかったりするんだろうけれど、それは寄り道していたら駄目だっていう神様の意思なんだよ。 え? あのお話をしてほしい? あーあ……あ、あれかい。あの水溜りのお話。よし、じゃあこっちへきなさい。いつものように膝の上に座って話を聞いておくれ? ……よっこい、せ――と。さて、始めようか。 雨が降った日に道路に水溜りが出来るだろう? そこを覗き込むと、空が広がっている。それは空の景色が映りこんでいる――鏡のように反射していると言われている。 でも、実は、水溜りの景色は映りこんでいるわけじゃないんだ。 じゃあなんでって? そこは裏の世界に繋がっていて、その世界の映像が映っているんだ。 ははっ。ここでいつも幸子は嘘だぁって言うんだね。もう十回も同じ話をしているのに。私に気を使ってくれているのかな? ん? はいはい。続けるね。 そこは私達の世界の裏側にある。ぴったりと張り付いて、普段は気づくことはない。幸子も自分の頭の中は見えないだろう? それと似たようなものさ。 ただ、頭の中に脳があることは知識として持っているけれど、世界の裏側にもう一つ、世界があることを知っている人は少ない。おそらく世界の中でも一桁だろう。何でって? ごめん……私も正確には説明できないな。 話を元に戻そうか。雨は……雨は、その世界を透かして見せてくれるんだ。 どうしてか? 神様は私達のいる表の世界と張り付いている裏の世界、両方を見ている。そうしていると、神様も興味を持つようになるんだ。 お互いの世界を見つけた時、どういう反応をするか。 もちろん、神様はおおっぴらには動けない。だから雨を利用する。 雨は神様が降らせているものだからね。 その雨が溜まって水溜りになったところは鏡のようになるだろう? そして、空の映像を映している。 そこをな、さりげなく裏の世界の物にしておくのさ。雨の降るタイミングはどちらも同じで、向こうの世界ではこちらの空が映っていることになる。 水が溜まる時、水の鏡を通して二つの世界は繋がっている。私達が気づかない間に。 …………おお、幸子。面白いか。そうだろう? 凄いだろう? ほとんどの人が知らない間に、もう一つの世界への通路が開かれているんだ。そして、それを知っているのは多分、私と幸子を含めた少数だけ。誰も知らないことを知っているなんて、こんなに興奮することはないだろう。 ………そうそう、忘れるところだった。お前がいま言ったように、よく子供達は足で水溜りを壊すね? でも、裏側に落ちることはない。 それは、何、故……何故か。ああ、ごめんごめん。 えー、それは何故か。 それは裏の世界があると信じている人にだけ、扉が開かれるからなんだ。 子供達は普通、その世界の事を知らない。だから落ちることはない。だけど、信じて足を踏み入れた時、水溜りを通して向こう側に行くことが出来る。え? なんだって? 聞こえない……私がどうして知っているかって? はあはあ。 そ、れ、か。 それはね。 私もそんな世界を信じていたからさ。お前が生まれる前に、私にも色々あってね。生きていることもつまらなかった。大人に言われたことも従う気にはなれなかった。何もする気がなくて、どこか遠くに行きたいと思った。 そんなことを考えていたら、いつの間にか何か違うことに気づいたんだ。周りの風景がね、逆さまだったんだ。人はそのままなのに、風景だけ。そして気づいた。その世界が、私が求めた『どこか遠く』だと。私はそのまま過ごし続けた。風景が逆なだけで人はそのまま。特に困ったことも起こらなかったし、むしろ何故か急にやる気が出てきてね。今までつまらないと思っていたものが本当に輝いて見えたんだ。どうやら向こうの世界は風景だけではなくて考え方や性格までも反対にしてくれるらしい。だから私は裏側で順調に大学を出た。そこで、普通の世界に戻ってみようと思った。逆さまの世界には慣れたけれども、やはり生まれ育ったのはこちら側だからね。もうあっちでも大丈夫だろうと思った。裏の世界に行った経緯から同じ時間が流れていると分かっていたから、すんなり戻っても私は大学を卒業していて一般企業に勤めていた。昔あった絶望感は微かに残っていたけれども、それは若い時の浅い思いの産物に過ぎないと理解していた。そして私は妻と出会い、結婚し、君が生まれたんだよ。 君が、生まれたんだよ。 君が、うまれたんだよ、幸子。 面白かったかい? そうかそうか。幸子はいつも面白いと言ってくれて嬉しいよ。 あれ? 幸子? どこに……あ……ああ、お帰り幸子。今日も寄り道せずに帰ってきたんだね。本当に、幸子はいい娘だね。今日も近くで交通事故があったんだ。寄り道をしていた娘がもう三人も跳ねられてる。道の幅が狭かったり見えづらかったりするんだろうけれど、それは寄り道していたら駄目だっていう神様の意思なんだよ。 え? あのお話をしてほしい? じゃあ、この膝の上に座って、ごらん? さあ、お話を始めようか。 力が抜ける左手は、彼女の娘に手向ける花束を支えることが出来なかった。軽い音を立てて玄関に落ちても、拾い上げる手は彼女にはない。 目の前にある現実。橙色に染められた部屋の中央で床に突っ伏している夫。顔に押し当てられている手鏡。顔とそれとの境目から洩れ出ている血。ぴくりとも動かない夫の姿を見て、妻もまた動きを止めていた。 呼吸さえも止まっていたのかもしれない。急に電気を身体に通されたように激しく身体を震わせて、妻は夫の傍に駆け寄った。傍にしゃがみこむと溜まっていた血がつま先を濡らす。空気に触れて赤茶色と化し、もう液体とは言えなくなっていても、それは血液であり、夫の一部。 「あなた……」 十日前に娘が交通事故で亡くなり、夫は葬式後に壊れたように動かなくなった。何も反応せず、たまに鏡に向けて言葉を呟いているだけ。その中には娘の名前である幸子という単語も含まれていて、夫の目には鏡の中に幸子がいるように見えるのだと妻は羨ましく思った。 「いか、ないで」 首筋に触れても、伝わるのは冷たい感触。命の火が消える。その、終わり。 「一人にしないでよ……」 彼女の瞳には、夫も娘も映りはしなかった。 あるのは夫だった物、ただ一つだけ。 |