やけに遠くに見える空の理由は、僕が草むらに寝転んでいるからだった。いつもは立って見ているから、身長分は遠ざかってる。でも、今はそれに形に出来ない理由が足されて更に離れていた。
草から匂ってくる自然と顔の上を歩いていく蟻。とりあえず蟻は鼻息で吹き飛ばしたけれど、匂いは息をするたびに入ってくる。
あまり好きなものではないんだけれど、起き上がるのがこの上なくめんどくさくて動かない。
結果、蟻は表面を歩き、匂いは身体の中を草色に染める。
このまま周りと同化して、僕という存在がなくなってしまうのではないか。それはそれで面白いけれど、退屈といえば退屈だ。身体がなくなるということは動くこともなくなるし、死ぬまでこの場所で空を眺めていることになるんだろうから。
そんなことを考えていると、草を踏む音が聞こえてきて現実に意識が戻された。
「ようやく見つけた」
声の主に返答はしない。相手もそれを分かってるんだろう。僕に触れるか触れないかの絶妙な位置に体育座りをする。制服のスカートを両手で包み込むようにして座る動作を、僕は気に入っていた。
女子を見る目的は大抵それだ。仕草が綺麗な女の子は可愛い法則を見つけた。
その意味では、中村一紗(かずさ)という女の子は今まで見た女の子の中で一番可愛いことになる。実際に、クラスの女子では一番綺麗だった。僕の十三年の経験からすれば、女子はそういう女の子には厳しいはずだった。でも中村一紗はその容貌を前面に押し出すこともなかったし、逆に彼女に敵意を向けるような女子がクラスの標的になった。
それくらい、中村の持っている雰囲気は周りを和ませていた。この子が好きになる人はきっと幸せだろうと思う。
だからこそ、僕は内心の動揺を抑えるのに必死だった。
「学校サボった感想はどう?」
「お前もだろ? 中村一紗」
声だけすごんでみても震えはどうにもならなかった。僕を横から見下ろしてきた中村の顔にあるのはとても人懐っこい笑み。今、この時が本当に楽しいと思っているような、僕からすれば信じられない表情。
「ぼ……俺は、慣れてるから、な」
精一杯の強がり。大人からすれば大して生きていなくとも、僕の中では一番の冒険だった。皆勤賞を自分の意思で放棄したんだから。
「嘘つかなくていいよ。小学校の時に良くサボってる男の子いたけど、金山君みたいにうろたえてなかった」
「うろたえてる?」
「うん。分かりやすい」
中村一紗は膝に当てていた左手を離して口元に持っていくと笑いをこらえた。脳内にはきっと、その男の子とやらが浮かんでいて僕と対比してるんだろう。なんとなく腹が立つ。僕を通して見られているその男に。
「サボった感想は?」
再び同じ質問。言うのは簡単だったけど、恥ずかしい。今朝、衝動的に通学路を外れた時は何か新しい世界に入ったかと思ったのに。
「つまらなかった」
つまらなかった。本当につまらなかった。
家には母親がいるし、ゲーセンなんて行った事ないし、何より学生服を着ている男がうろうろしてたら大人が怪しむ。
一歩、違う道に踏み出してみても僕は変わらず、子供だった。
「何もしないで寝転がるしかなかったし。凄く無駄な時間過ごした」
今日から数学は新しい分野に入るし、体育はバスケットボールの試合だったはずだ。英語は小テスト。単語は昨日の夜に覚えていて、普通に出ていれば合格する自信はある。それに給食は僕が好きなカレーライスだ。よくよく考えると、何でこうして寝てるんだろう。寝ている自分が、ほんとに無駄だ。
「無駄かなー」
そう呟いて、中村はそのまま後ろに倒れこむ。肩まである天然の栗色の髪が、緑色を覆う。少し距離はあったけれど、草の匂いの変わりに中村が使ったらしいシャンプーだかリンスだかの良い匂いが鼻をくすぐる。緊張から組んで枕にしていた両手に力が入る。
「『無駄な時間を過ごす』っていう意味で、無駄じゃない気がするけどね」
「へ?」
何を言いたいのか分からない。中村も自分の考えを整理しながらしゃべっているらしく、空を見ていても、見ていない。
「金山君が言ってる無駄って言ってるのは、さっきまでみたいに空を眺めてる時間が無駄ってことでしょ? でも空を眺めていることに時間を使ってるんだから、無駄じゃないと思うよ?」
「……でもさ、やることあるのに」
「それに、自分がやることに無駄なことなんてあるの?」
僕の言葉には答えずに、中村は言った。その言葉は空じゃなくて、僕に向いていた。
横を向いて、自分の髪に顔が包まれているように見える中村に心臓が高鳴った。
何か、とても女の子らしくて、本当に同い年なんだろうかと疑ってしまう。でも、それより気になったのは言葉のほうだ。
「無駄なことを進んでやる人っているのかな? やりたいからやるんじゃないの? それが人から見て無駄だとしても、自分がやりたいと思ったからやるんじゃないのかな」
いつも笑いながら周りを和ませている中村は、微笑を浮かべていてもまじめに僕に語ってる。この子は本当に中村一紗なんだろうか? 同じ顔をしている姉が三年生にいるみたいだけど、その人なんじゃないか。
「いいんじゃない? 空を眺めてても。こういう時間も必要だと思うし、必要なら、無駄じゃないでしょ」
そこまで言って中村は立ち上がり、スカートや制服の上についた草を払った。それでも手の届かないところに残っていたから、立ち上がってはらってやる。
「ありがと。じゃあ、戻ろうか」
「戻る?」
「金山君、時計してないでしょ。今は昼休みなんだよ。だから私はサボったんじゃないわけ」
差し出された手首についている時計は、一時を指していた。授業が始まるまでまだ時間があるから確かに午後から授業には出られる。
「たまたま散歩に出たら、近くの草原で寝てるんだもん。運が良かったね」
中村に手を取られて歩き出す。完全にペースを握られていたけれど、まだ反抗する力は残っていた。
手は振りほどかなかったけれど、立ち止まって引き止める。
「今更出てもさ、ほら、気まずいというか」
「午後は英語と数学。金山君、今戻るならまだ大丈夫だよ。今日中に謝ったほうが良いと思うけど」
中村は手を放して僕をまっすぐに見てきた。これからどうするのかを観察している、というほうが正確かもしれない。そもそも、どうして僕を探しに来たのか分からないけど、もしここにいないで見つけられなかったなら普通に授業に出ていただろう。本当に散歩に来たら僕が居た、ということなんだろう。
運良く見つけて、話を聞けて、自分の思ったことを言った。
なら、どうするか。
この場で僕が「いかない」と言えば躊躇いなく中村は一人で戻るだろう。
自分の伝えたいことは伝えた。その後でどう行動するかは僕次第。そんな意思が瞳を通して伝わる。
「本当、同い年かな」
「?」
脈絡がない僕の言葉に首をかしげる中村の横を通って、僕は足を進めた。
「英語の小テスト、結構自信あるんだ」
中村は何も言ってこない。ただ、少しだけ後ろを歩いてくる。僕も振り向かないけど、いつものような笑みを浮かべながらついてきてるはずだ。
無駄だと思うくらい、充電はした。後はまた進む道に戻るだけ。まだまだ決められている道だけど、いつかちゃんとした横道を見つけられるに違いない。
いや。
そもそも横道とかもないんだ。
歩きながら見た空は、さっきと同じものとは思えないくらい近かった。
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