私達が生きる場所

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 会社の帰りに空を見上げるようになったのはいつからだったろう。夜の空は藍色で星なんて見えず、楽しいことなんてまるでない。
 でも気になってしまう重い空がある。
 虫歯になった時みたいに、心がジンジンと痛み出して、やがて全身に広がっていく。しばらく放っておいた後にようやく知るんだ。大事なことを放置しておいたことに。
「仕方ないじゃない」
 私の視界に映るのは、私と同じように仕事帰りらしいサラリーマン。ただ外出からの帰りのようなジーンズ姿の男の人。他にも何人か。
 誰もが前だけ向いて歩いてる。横も後ろも上も下も見ず、ただ前だけを。
「なんでなんだろ」
 皆、私のように退屈を感じてるんだろうか。空を見上げてため息をついたりするんだろうか。
 胸の奥に生まれた切なさが形になって、ため息が漏れた。
「はぁ」
「みゃぁ」
 自分のため息と動物の鳴き声が私の耳に同時に入った。足を止めて周囲を見回すと、最初に目に飛び込んできたのはすぐ後ろを歩いていたサラリーマンだ。慌てて邪魔にならないように道を譲っても、会釈も何もなく通り過ぎていく。ウォークマンから流れるハードロックが耳障りで、私に残るかすかな鳴き声が消えそうになった。
「みゃぁ」
 消える前に蘇る鳴き声。探していた視線と私を見上げていた猫の視線が合わさる。タイミングを計ったように猫は、きびすを返して歩き出した。向かうのは私が歩いていた通りの横道。仕事のためにこの土地にやってきてから一度も入ったことがない道。ゆるやかな坂を軽やかに進む猫は、少し進んだかと思うと私のほうを振り向く。
「ついてきて、って言ってるの?」
 肯定するように一声。緩やかとはいえ坂は歩き疲れそうだし、外灯も少ないようだ。変質者が出たらたまらない。
 でも、身体は正直だった。足を踏み出すと止まらない。私の歩調に合わせるようにして猫はつかず離れず距離をとる。
 これ以上近づいたら私は去るよ。
 これ以上離れたら見失うよ。
 そんな猫の言葉を想像しつつも、明日の仕事のことを考えてる自分もいた。
 今から引き返せば、ご飯を食べてお風呂に入る時間が取れる。寝る時間を早めればいつもの時間に起きられるだろう。寄り道なんて、してる暇ないのに。
 でも私は、この小さなガイドが案内する旅を楽んでいた。この先にあるものを見たいと思う。普段通りのルートから外れたことで、子供みたいにわくわくした。
 こんな場所があるなんて一年もの間、知らなかったんだから。今まで分かりきって灰色だった場所が輝いて見えた。
 坂を上りきると、猫は足を止めるとちょこんと座った。
 まるで受付嬢のように背筋をピッと伸ばして私を見てる。でも猫の先には道が続いているだけだ。この場所で私に何を見せたいんだろう?
 先に進んでみても変哲もない道。マンションやアパートが並んでいる、普通の道。贔屓目に見ても特別なものなんてない。
 私が期待してただけで、大したことなんて何もないのかもしれないな。
「贅沢な悩みだよね。ま、休日に別のことして遊べばいいのか」
 独り言も寂しいからと子猫に向けて言ってみた。でも猫は私を見て、それから視線をそらす。
 その時、ふとある考えが過ぎった。子猫から目線をそらして、後ろを見る。今まで辿ってきた坂道を。
「――ぁ」
 本当に感動した時、人って声が出なくなるんだ。
 空には星々。
 街には外灯。
 それらが一斉に輝いて私を包み込んでいた。
 さっきまで空に星は見えていなくて、街は灰色で濁っていたはずなのに。
 今は光の洪水が私を飲み込んでいく。
「凄い」
 私がずっと見てきたつまらない景色が、こんなにも鮮やかに映ってる。退屈だって、平坦だっていつの間にか諦めていた場所が、輝いていた。
「みゃあ」
 子猫の声に気づいて振り向くと、もういなくなっている。そして、視界を埋め尽くす煌きも消えていた。本当に見たのかさえ危ういような消滅の仕方だった。
 幻でもなんでも、疑うことは出来る。でも。
「夢じゃない。ちゃんと、見せてもらったよ」
 退屈だと思っていた視界も、ほんの少しだけ視点を変えれば違うものになる。ここに来るまでの気持ちを思い出して、頬が緩んだ。
 大事なのは、違う道を見つけて進んでみることなんだ。
「ありがとう」
 自然と口から出る感謝の言葉。久しぶりに言うことができた単語にも満足しながら、私は坂を降りていく。
 あの、楽しさの原石がたくさんある場所へと。


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