『家―帰る場所―』



 見慣れた自分の家の前に立って、どれだけ疲れているのかが理解できた。別に激しい運動をしたわけでもないのに、足は重くて徐々にしか進まない。
 それでも帰ってきたからには家に入らなければ。自分を奮い立たせ、鞄から鍵を取り出して鍵穴へと挿し入れる。鍵が回る音がゆっくりと引き伸ばされてるように聞こえた。ただ単に、鍵を回すことをゆっくりとしただけなんだけれど。
 大学から帰ってきて、誰もいない家のドアを開ける。それももう三度目だというのにどうにもスムーズに出来ない。いまだに回す方向を最初に間違えるし。
「慣れない、もんだよな」
 鍵が鞄へと入った時と同時期に始まった独り言。そこにため息が混じるのには不思議と慣れている。溜息って言うのは陰鬱な気分になるけれど、その気分までが身体の外に抜けていくように思えた。それは悪くない。
 ドアノブに手をかけ、引く。あっさりと開いたドアの先にある淀んだ空気。
 解放される瞬間を待っていたかのように、俺へと暖められた空気が迫り、意にも介さず抜けていく。そう言えば窓を開けていかなかったっけ。いつもなら母さんがしてくれていたから、すっかり忘れてた。
「母さん、かぁ」
 もう一つ、独り言。
 マザコンでも何でもないけれど、いつも居た人がいないというのはかなりきついのだと知った。ドラマでの一家惨殺後に気丈に生きてる一人娘なんて設定が、昔は気にならなかったけれど今は少しも信じられない。
 人は一人では生きていけないという言葉も、かっこつけたがる人が言う言葉だと思っていたけれど、今は同感だと思う。
 自然と向かったのは仏壇だった。少しだけ観音開きを開くと、その拍子に空気が動いたような気がした。錯覚なのかもしれないけれど、そんな些細なことまでが気になる。
 大学で友達に囲まれている時も、講義で先生が黒板にチョークを走らせる音を聞いている時も。一瞬だけ、世界と切り離されたような感覚を得るようになった。
 俺の心に出来た小さな隙間が、一瞬だけ大きくなって俺を包み込むかのように。
 手を合わせてから部屋の窓を開ける。次いで、隣の部屋や居間と次々と開けて行くと少し冷たい風が家の中を駆け抜ける。止まっていた空気が押し出されて部屋の中を移動し、埃が視界を過ぎていった。
 ――掃除をしなければ。
 ふと、そんなことを思いついた。
 三日間掃除しないって事がこれだけ家を汚すことになると、二十歳になって初めて知った。自分にとって好ましくない状況で知ることになったのは残念でならないけれど、知ることが出来たのは僥倖だと思ったほうが建設的だろう。
 居間の端に静かに置かれている掃除機を見てみると、うっすらと埃が被ってる。折角だから、思い切り掃除をしてしまおうか。受けてる講義がいきなり休講になって正午前に帰れたのも、いい加減に掃除しろって事なのかのかもしれない。
「ささっささー」
 わざと変な言葉を口ずさんで、掃除機の埃を払う。中空に投げ出された埃はふわふわと浮かび、拡散していく。絨毯の上に音もなく落ちる様を見て安堵する自分。
 やっぱり現実から逃げてるんだろうか。
 でも、確かに現実はシビアだけれど、いつまでも落ち込んでもいられない。成人した男がいつまでも引きずってるわけにはいかないんだから。
 この掃除を俺の始まりにしよう。
 新しい自分になるために。
「おっし! やるぞおら!」
 気合一発で頬をはたき、勢い良くコンセントを引き出す。差し込んで電気供給準備完了。そのままスイッチを入れて、清掃は開始された。


* * * * *


 目に見えていた埃が掃除機の中に消えていくというのは、中々に面白いことではあった。自分がやったことの結果がすぐに目の前で展開される。掃除機を走らせ、埃が消える。ただ単純な作業の繰り返しだったけれども、それはある種の爽快感を俺に与えた。巻き上げられた埃が外から吹き込む微風に揺られて少し離れたところへと着地。そこを静かに掃除機が進む。一度掃除機をかけ終えてから別の部屋を掃除し、また戻ってくる。その繰り返しだけでで、床はそれまでとは比べ物にならないほど綺麗になった。
 家に入ったときに感じた埃っぽさも、すっかり入れ替えられた空気を吸う事で解決していると確信する。これでまた数日は掃除しなくても大丈夫だろう。
「…………」
 落ち着いてみて、身体はじわりと汗をかいていることに気づいた。掃除機をかけるだけでも結構なカロリーを消費するんだろう。でも、テーブルの上やテレビの上にはまだ埃があったり汚れていたりするんだ。掃除するってことはかなりの重労働になることは想像できた。
 でも、記憶の中にそんな光景を思い浮かべることができなかった。
(そうか……)
 つまりは母さんがマメな人で、毎日毎日掃除をしていたということだろう。飽きずに。いや、飽きていたのかもしれないけれど、ずっとしていたんだ。
 俺から見れば日頃の母さんの行動は、あんまりてきぱきとした物じゃなかった。父さんにも何度か怒られていた。でも、それは母さんの一面に過ぎなかったんだろう。それを、俺は自分で証明したことになる。
 いつも母さんは一人きりの時間をどう思って過ごしてきたんだろう? どう思って、この家を綺麗にしてきたんだろう?
 それはきっと、抱え込む人口を減らした家にぽつんといる、今の俺が思ったことと同じだったかもしれない。
 それは、建物は確かに無機物だけれど、やっぱり生きているんだということだった。
 一時間前と、今と。
 比べてみると、確かに家が持つ雰囲気は変わったと思う。
 俺自身の『掃除をやりとげた』という達成感も作用はしてるだろう。でも、やっぱり掃除で綺麗になった以上の何かが、家に満ちた気がした。
 そして、そんな家に帰ってくる俺や父さんを、母さんはどんな気持ちで迎えてくれていたのか。
 いつも家の外のことにかまけていた俺。
 出張が多くて最近はあまり家に帰らない父さん。
 逆に家の中のことを黙々とこなしていた母さん。
 父さんと俺を送り出してから、この静かな空間に母さんは何を見ていたのだろうか?
 できるならば聞いてみたいと、素直に思えた。
「……一時か」
 時計を見ると掃除機をかけ始めてから一時間が経過していた。それまでの間にずっと掃除機だけをかけていた自分を想像して笑ってしまう。無言で俯いて埃を吸いとっている光景と言うのは、外から見るとどんなものだろうか?
「母さん……」
 一言が、消えていく。
 言葉は形にならずに消えていく。
 発しなければいけない言葉は理解していた。でもいない相手に言う言葉でもない。もしいたとしても羞恥に耐え切れずに言えないかもしれない。
 落ち着くために掃除機を片付け、部屋の中央に立つ。
 まだ風が少しの埃を舞わせていたけれど、これは棚の上にあるような埃だろう。床に散らばっていたそれらは完全に吸い込んでいるはず。
 深呼吸をして、声を整える。
 今まで自分を包んでくれたこの家に。
 そして、その家を綺麗にしてくれていた母さんに。
 感謝の気持ちを込めて、呟いた。
「ありがとう」
「ただいまー!」
 呟きと大声と玄関が開く音は同時だっただろう。心臓が飛び出したかのような衝撃が俺を襲い、しかし背筋を粟立たせながらも玄関へと振り向いた。
 そこにいたのは聞き間違えようのない声の主。
 旅行鞄と土産袋に包まれた母さんだった。
 激しい動悸に視界が揺れる中で、母さんは三日前に見た同じ顔をして豪快に笑いかけてきた。
「あやや、キヨシは大学終わるの早いね!」
「うん……今日は休講だったから」
「そーかいそーかい! あ、部屋掃除してくれてたんだねぇ。ありがとね」
 俺が掃除した床を踏みしめながら母さんは進み、テーブルへと荷物を置く。そのままソファに腰掛けてこきこきと首を鳴らし肩を揉み、「あーっ」と風呂あがりの時みたいな声を出す。
「やっぱり、疲れて帰ってきた場所が綺麗っていうのは素敵だねぇ!」
 ソファにふんぞり返って大きな声を上げてる母さんには、旅行の疲れなんて全く見えなかったけれど、心底嬉しそうだった。そして、いつも通りの台詞。
 何で掃除されてただけでそこまで感動できるのか不思議だったけれど、今日の体験で少しだけ意見が変わった。
 俺に何も言わずに書置きだけ残して旅行に行った母さんに、最初は激怒したものだ。でも今日、ここに帰ってくるまでずっと俺の心の中にわだかまっていた怒りは、完全に消えていた。
 家を掃除したことで、自分の中まで汚い感情を除去できたみたいだ。
「勝手に行ってごめんねー。はい、お土産の饅頭、一緒に食べよう!」
「……そうだね」
 答えて、俺はお茶のための湯を沸かしに台所へと向かった。
 同意に込めた二重の意味に母さんは気づかないだろうけど、伝えられたことに満足して、俺は見られないように微笑んだ。そして半分だけ顔を後ろに向けて、言った。
「おかえりなさい」
「ただいまー!」
 いつもとは逆のやりとりが、ただ嬉しかった。




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