『蓋が開く』


 暗闇の中で音がする。何かがぶつかり合う音。液体がこすれ、けして気持ちが良いとはいえない音がする。三井葵がその音が夢の中の一部であることを理解したとき、視界が開けた。
 空に星座が分からないほどの夜空の下、地平線まで覆い尽くすような草原の中で。
 半裸の女性を、犯している。
(――!?)
 視点は男女の背中から。男の背中と、女性の足が見える。男同士という選択肢もあっただろうが、リアルに耳に飛びこんでくる声は女性のものだ。
「あぅ!? あ! い、いあ――」
 夢であることは間違いない。だが非現実的なものは風景であり、行為をしている二人の存在感は葵の中で増していっている。何度も上がる悲鳴に近い喘ぎ声は直接耳の奥へと突き刺さるようだった。
(夢だこれは夢だこれは夢だこれは夢だこれは夢だこれは夢だ)
 呪文のように連呼する。現実へと帰るために。女性の身体を暴力的に奪うような真似は嫌いだったはずなのに、どうしてこのような夢を見ているのか葵には分からない。しかし、思考よりもまずは目覚めることだと自分に言い聞かせて呟き続ける。その効果があったのか、やがて陵辱の光景は遠ざかり、光が飛び込んできた。
 瞼をうっすらと開けると、反対側に座る女子高生の姿が見えた。その背後を風景が流れていく。身体を軽く揺さぶられていたことで、葵は自分がバイト帰りの電車の中だと悟った。
 疲れで寝てしまい、あのような夢を見てしまったのだろうと考える。
(変にリアルだったな)
 夢の内容と口の中に乾きによる胸焼けに霹靂する。眠気が残っているために目を開けるのも億劫だった葵は、薄目のままで自然と視界に入る女子高生を観察した。日曜日であるため、おそらくは部活帰り。上半身はコートで隠されているが、緑が基調のチェック柄は制服がブレザーの、ある高校を思い起こさせる。冬で制服ががらりと変わることがなければ、冬以外の季節に良く見かける制服と同じだろう。
 年齢は幼さが残る顔からして、高校に進学したばかりだと葵は予想した。スカートは今時の娘らしく短い。前に少しずれているため、短いスカートが更に捲れあがっている。あと少し視線を落とせば、おそらく中が見えるはずだ。
(本当、見られると怒るのに、見えちゃいそうな短さなんだからよ)
 そう考えて心の中で嘆息する。そこで葵は初めて、自分が隣の人間に寄りかかって寝ていることに気づいた。右耳のあたりが触れている。相手の肩に頭を乗せて傾いている状態だろう。眠気で頭がぼんやりとしていたこともあるが、何より寄りかかっている相手が今まで何の反応も見せてなかったことが失念を助長させた。このまま寄りかかっていてはまずいと葵はだるさが残る身体を起こそうとした。
 だが、動けなかった。
「あぅ――ぁ――ああ――やぁ――やめ――はん――」
 聞こえてくる。葵の耳に飛びこんでくる、声。
 それはあの草原の中で聞いた声。星で埋め尽くされた空に覆われた世界で聞いた声。むりやり足を開かされて男性器を埋め込まれている女性の声。
 それが、耳に近い位置から聞こえてくる。
(なんだ? なんで夢の中の声が聞こえてくるんだ?)
 葵は目だけを動かした。動揺に動けない身体とは違って眼球は非常に機敏に、精密に動く。薄目のままで視界は狭かったが、隣の人物が身体の前に置いている鞄から伸びているコードを認識するには十分の広さだった。見覚えのあるコード。葵自身も今は持っていないが、よく使っている機器から伸びるコードだ。
 しかし、葵が結論に到達するまでには時間を要した。あまりにも突拍子もない現実だったから。
(MDに、行為の時の、声を録音してるのか?)
 テレビに外部入力の線を繋げば、MDにテレビの音を録音することは可能だ。ビデオやDVDの音だけを録音するというのもありえないことではないだろう。
 葵もたまにそのような系統のビデオは借りる。だが、その声だけを録音するなどとは、考えたこともなかった。そういうのは一人で、自分の部屋だけで楽しむものだと思っていたから。ポータブルで聞いて歩くことに意味を見出すことが出来なかったから。
 だが、今寄りかかっている相手は電車の中で聞く理由があるのだ。
 電車の中で寝る。友達と話す。小説を、漫画を読む。それと同じレベルで、女性の行為時に出る喘ぎ声を聞いている。文字を読み光景を想像する小説のように、声を聞いてビデオでのセックスシーンを想像しているのだろうか。
 葵はどのような人物がそんなことをするのかを全く想像できなかった。雑踏の中で平然と想像できる人間。もし、顔に出ているのならもう少し回りから気味悪がってる気配が伝わってもいいだろうから、おそらく洩れ出た声を聞いているのは自分だけなのだ。
 情報を仕入れるために視線を動かす。鞄は黒と灰色で彩られた下げ鞄である。男性でも女性でも持ちそうなものであり、その鞄を乗せている足も青いジーンズ。それ以上確認するには頭を起こして見なければならない。だが、相手の顔を見ることへの覚悟がまだ葵には出来ていなかった。顔を合わせた瞬間に驚いた顔を見せて、相手にMDの音を聞いていたという事実を気づかれたくはなかった。
「――ぁ――ん――んふぅ――や――」
 声が続いている。未知なる相手を想像する中に差し込まれる。ボリュームが大きくなったわけではないだろうが、葵の脳をかき乱し、反響し、増大していく。
 葵はいつしか、また草原の中にいた。
 空を覆い尽くす星々。その下で、女性が犯されている。男が馬乗りになり、足を無理やり持ち上げている。男は先ほど夢の中で見た人物とおそらく同じであり、今度は目の前に座っていた女子高生が被害を受けていた。
 コート、緑のブレザー、黄色のベスト、ワイシャツと順番に脱がされていく。剥がされていく。柔肌を引き裂くようにして、少女の殻を無理やり壊していく。
 女子高生は抵抗はしていたが、何度か振り下ろされる男の拳によって沈黙し、スカートの奥から下着を引き出されて行為が始まった。
 初めはか細く、しかしすぐに大きくなる喘ぎ声。先ほどと同じく葵の耳朶を打つ。耳をつんざく悲鳴は心を突き刺していくのに、薄い幕を通して惨劇を見ている感がぬぐえない。
 男は自分ではなかった。知らない人物だ。この映像は一体何なのか。
 おそらく女子高生は初めてだったのだろう。破瓜の痛みと、こみ上げる快楽による悲鳴を上げながら何とかして男から逃れようとする。だが両手を押さえつけられ、何度も突き込まれる男根に抵抗する体力を奪われていく。
(これは……MDを聞いてるやつも見てるんだろうか)
 隣に居るのだから、視線の向く先は同じはずだった。MDに録音した喘ぎを聞いている本人は葵よりも更にはっきりとした映像を脳に映し出しているに違いなかった。
 つまりこれは、テレビが受け取るはずのない電波を受信している状態と同じなのだと葵は思った。本来ならば写らないはずのチャンネルに紛れ込む映像。けして、自分の中で生み出されたわけではない、外部から入り込んでいるだけの物なのだ。
 だが、葵は背筋を駆け抜ける悪寒を感じずにはいられなかった。
 誰もが自宅へと帰るために乗る電車の中、休息の一時に行われる陵辱。
 誰も気づかない、中心にいる者しか気づかない世界が車内に広がる。公衆の面前で、平然と一人の女性を辱めている。
 寝ている女子高生は知らぬ間に、葵やMDを聞く人物に犯されていた。その隣で小説を読んでいる男も、少し離れたところで話し込んでいる女性二人も、漫画を読んでいるサラリーマンも、時折通り抜けていく車掌も気づかない間に。
 人の思考など見えない。でも、見えない世界にはどろどろの感情が詰まっているのかもしれない。そこまで考えて、葵は全力で否定した。
(そんなはずはない! こんな妄想をしてるような奴なんて、外見で分かるんだ!)
 葵は自分が美形でもなく醜悪でもない、いたって普通の顔をしていることをその時は忘れた。隣にいるのは人目で卑猥な妄想をしそうな人物だ、自分が抱いた妄想は隣にいる人物のMDから洩れ出る声が送り込んだものなのだと強く思う。少しでも自分の意志が関係しているという考えを、否定する。
『次は終点――駅。次は終点――駅』
 車内アナウンスが終点を告げる。堂堂巡りになりそうだった思考はその声で途切れ、身体はバネのように起き上がる。すぐさま隣へと視線を送り、葵は固まった。声を出さないようにしたことだけでも、奇跡に近かった。
「あ、すみません」
 そう言って、隣にいた女性は立ち上がった。
 到着するホームが入り口から遠いために先頭車両へと移動するのだろう。頭を軽く下げてから葵から離れていく。その後姿を見ながら、葵は心臓の激しい鼓動による痛みに顔をしかめた。
 自分へと謝った時の顔。瑞々しい黒髪。整ったショートカット。丸い瞳に小さ目の鼻に「すみません」という言葉と共に白い歯がこぼれた口元。
 年齢はおそらく高校生と言ったところだろう。制服を着てないのは完全にプライベートで遊びに行った帰りと言ったところか。
 その顔、姿は、どう歪曲して見ようとしても葵の中での清楚な女性というイメージ以外ありえなかった。
 視線を戻すと視姦されていた女子高生が目を覚まして背伸びをしている。今まで行われていたことなど知る由もなく。
 他の乗客たちも眠りから覚め、小説を鞄にしまい、漫画を手に持ち、話し続けながら到着を待っている。どこにでもある自然な動作。しかし、その裏では何を考えているのか、葵は身体が震えるのを抑えられない。
(あんな女性が、聞くのか? 十八禁のビデオを録画するのか? 恋人との行為を録音してたのか? それとも――)
 自分が、喘ぎ声が洩れていたと錯覚していただけなのか?
 葵の脳が熱を帯びていく。熱湯の中に頭からくり抜かれた脳を放り投げられたように。現実から剥離する意識の中で、また喘ぎ声が大きくなっていく。
 本当に清楚に見える女性が聞いていたのか。洩れ出た歌詞がそう聞こえただけなのか。
 処女に見えた目の前の女子高生も、実はすでに性体験をしているのか?
 もしかしたらその女子高生の隣に座ってカバーがかかった小説を読んでいた男も、カバーの下には官能小説があって隣で寝ている処女を犯していたのか?
 漫画を読んでいたサラリーマンも出てくるヒロインを女子高生に当てはめて、敵に襲われて悲鳴を上げている姿を見て嗜虐心を満たしていたのか?
「乗り越しはございませんか?」と通り抜けていく車掌もまた、歩きながら好みの女性を脳内で裸に剥いていたのか?
 押し込められていたどろどろとした感情が、勢い良く噴出して脳や心を冒していく。閉じられていた蓋が開き、とめどなく流れるどす黒い激流が閉じるのを許さない。そのまま激流は葵を飲み込んでいった。
 視線を前に向けると女子高生が携帯電話をいじっている。その映像がぐにゃりと曲がり、再び男に襲われる物へと切り替る。
 その男の後姿は、葵に良く似ていた。




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