光の残像

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 祖父が死んだと聞かされたのは、ちょうど大学祭を明日に控えた日だった。


 友達と共に次の日から行われる祭りの準備をしながら、日頃の勉強の日々から解放されて楽しもうと語り合っていた矢先だった。
『落ち着いて聞いてくれ』
 ポケットの中で震えた携帯電話を取るために喧騒から離れて電話に出ると、父のいつになく落ち着き払った声が聞こえた。その時の俺は、父が言う内容をどこかで分かっていたのだろう。次に放たれる言葉に、特に動揺は見せなかった。
『おじいちゃんがな。さっき亡くなったよ』
「……そう」
 遂に死んだか。
 純粋に、そう思った。
 以前から痴呆が進み、長くはないと言われていたから、この結果も当たり前の事なのかもしれない。父は明日に葬式を行うということ。そして今日は葬式を行う会館に泊まるということを俺に伝えて電話を切った。
 携帯をポケットに入れてから、俺は皆の元へと戻った。極力普通に、なんてする必要はなかった。それほど俺の外面は変化が無かったのだろう。
「あーすまん。俺、用事ができたから帰るわ」
「まじで〜! サボるなよー」
「ごめんごめん。埋め合わせはするからさ!」
「じゃあ、明日店番多くしておくぞ!!」
「……じゃあな〜」
 明日の店番はできそうにない。そう心の中で呟きながら、見送る数人の友人に背を向けて俺は大学の中を歩いて行く。視界に映るのは出店の中で明日からの準備を続ける大学生達。その中を抜けていても、俺の耳には音が聞こえてこなかった。
 まるで俺の周りだけ空間から隔絶されているかのように。

 * * * * *

 祖父が体調の悪化と共に病院に入退院を繰り返し始めたのは一年前だった。
 それまで、祖父と祖母に育てられた俺は、昔から祖父にいろいろと教わっていた。最も古い記憶は小学校に入る前に公園まで連れて行ってもらったことだ。
 祖父は寡黙な人だった。多くは語らず、人との摩擦を好まず、大抵のことは相手に合わせるような人。でも、自分の信念だけは曲げない人だった。
 幼い頃から最も身近にいる大人として、俺はその生き方を尊敬していた。
 だからこそ、祖父が『壊れていく』ことに耐え切れなかったのだ。
 晩年の祖父はあまり動くことがなくなった。
 体調が悪くなっていったことが原因なのだろうが、ソファに一日中座っていることが多くなった。そして……徐々に痴呆が進んでいった。
 最後にあった一月前、俺の顔を見た時、一瞬見知らぬ物を見たかのような表情となったのを、俺は見逃さなかった。
『おお……光(ひかる)。よく来たなぁ……』
 焦点の定まらない目で俺を見る祖父を、俺は見ていることができなかった。

 * * * * *

 あれ以来会っていなかった祖父が今日死んだと聞かされて、俺の心の中に小波が立たなかったことはいい事なのか悪いことなのか分からない。
 ただ、空虚な空しさが心の中に広がっていく。
 一歩一歩足を踏み出すたびに広がっていく。
 だから、俺はバスに乗った。いつもならば家まで歩く道を楽しむ俺が。
 歩くごとに鮮明に甦ってくる祖父との思い出を、見たくなかったから。
 バスの中から眺める外の景色は、濁った硝子のフィルターを通して見られる景色は、どこか霞がかかったかのように感じられる。季節感も、時の流れも、何もかも現実から離れているかのように感じられた。
 だから、俺が聞いたことも現実のことではないのだと思った。
 祖父はまだ生きていて、まだ病院のベットに横たわって穏やかな表情を浮かべているのではないか。今、家に帰ってもまだ祖母が食事の用意をしているだけで、共働きの両親は仕事から帰っては来ておらず、祖母と共に食事をして、明日の大学祭に備えて寝るのではないか。
 そんな思いも、家の前に父の車を見つけて打ち砕かれた。
 帰ってきた俺に両親と祖母は急いで支度をするようにいい、車のエンジンをつけた。俺は鞄を置くだけで玄関へと取って返す。
 家族全員――ただ一人だけいないが――で祖父の亡骸が安置されている会館へと向かった。
 車の中で誰も話す人はいない。
 俺は家族の顔を見て、祖父の死を誰も受け入れていないことを知った。
 まだ、皆の中では祖父は生きているのだ。特に、毎日病院に行っていた祖母の中では。
 十分もしないうちに目的の場所につく。
『セレモニーホール』と書かれたその場所に入ると、視線の先にの部屋に木の箱が見えた。
 アレが祖父の人生の寝床なのだろう。そう思うと寂しくなった。もう少し寝心地の良い物はないのだろうか?
 仕方が無い。
 あれが棺というもの。
 あれが『死』というものなのだ。実感は全く湧かない。何が『セレモニー』なのかも。
 とりあえずこれからくる親族のために食事などホールの従業員が用意したものを配置していて時間が過ぎる。そして集まってくる人々。
 祖母に対して頭を下げていく親族達。
 でも、誰の顔にも『死』は見えない。祖父が死んだという事実が見えなかった。
 じゃあ、あの棺の中には何が入っているのだろうか?


 食事が終わり、親族全てがこのホールに泊まることになった。
 誰もが落ち着いた時、初めて、俺は棺についている小窓を開けた。
 そこから見えたのは祖父の顔。
 綺麗に整えられた祖父の顔。
 すっかり薄くなった、銀色に光る髪の毛。
 血が通わなくなり、肌色に白が混ざったような顔。
 頬の色と同化した唇の色。
 少しだけ開く目蓋の中に、濁った瞳の水晶体が見えた。
 そして初めて、『死』というものが俺の中に入ってきた。
「老衰だったそうだ」
 長い間祖父の死に顔を見ていたのだろう。父が後ろに来ている事に気付かなかった。父は俺の頭をゆっくりと撫でながら言葉を紡ぐ。
「本当、何も苦しまずに逝ったそうだよ。おじいちゃんらしい、穏やかな死に方だったな」
 俺は棺から顔を上げると、飾られている祖父の写真を見た。
 そこにあるのは満面の笑みでこちらを向いている祖父の顔。
 そんな顔を最後に見たのはいつだっただろうか?
 再び棺の中を見る。
 横たわる顔に、光の残像が重なった。
 俺に常に向けていてくれた笑顔。
 家族に常に向けられていた笑顔。
 もうその笑顔を見ることは無いのだ。残像の中で見るしか手段が無いのだ。
 その時、俺の中にある何かが破裂した。
「……っう――」
 祖父の顔に雫が落ちる。
 ……俺の涙だった。
 堰き止められていたダムが決壊したかのように涙が溢れ出てくる。
 一月前に止まっていた時間が音を立てて一気に押し寄せてくるのが分かる。自分の中で生きていた祖父は急激に白くなり、そして生命さえも消えた。
 何故、もっと話をしなかったのだろう。
 何故、もっと感謝できなかったのだろう。
 最後の最後まで、祖父の元に訪れれば良かったのだ。
 涙と共に後悔の感情が溢れては消えていく。それはどれも今更の物だ。
 どこまで悔やんでも、仕方が無いことだ。
「ううっ。ううう……」
 だから俺は涙が枯れるまで泣いた。
 祖父のために流せるだけ涙を流そうと決めた。今、祖父のためにできることは泣くことだと思った。一月分の祖父への不幸を清算するには足りないかもしれないけれど。


 次の日、葬式が終わって祖父の亡骸は火葬場へと運ばれた。
 時間が来て、棺が火葬されると、ほとんど砕け散った骨となって俺達の前に姿をあらわした。一本一本親族が骨壷へと骨を納める中で、俺の目にはまだ、祖父の姿形が映っていた。
 残像がここまで鮮明に映るなんて信じられなかったが、実際に目に映る祖父の姿に、奇妙な安堵感があった。
(これで、天国にいけるね)
 語りかけると祖父はかすかに頷いた。そしてその姿を消す。
 この残像は俺の後悔が映し出したものなのかと思った。
 お世話になった人を、最後の時に見捨てた自分の後悔なのだと思った。
 でも、それは違った。
 これは純粋な『想い出』なんだろう。
 俺の中に残る『想い出』の残像なんだろう。
 これもいつか色褪せて、やがて思い出せなくなるのだろうか。
 ふと、飾ってあった祖父の写真が目に映る。
「想い出はあるね。ここに、あるね……」
 祖父の姿がそこにある。
 想い出の残像はここにある。だから人は写真を取るのだろう。
 自分の中の残像を永遠に留めておきたいから。



 写真の中の祖父の笑顔を、俺は絶対忘れないだろう……。
 俺の中の残像と同じく、写真の中の祖父は穏やかに笑っていた。


『光の残像・完』


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