『ガラスの幸福』





 壁越しに聞こえる笑い声に、体が硬直した。ノートに描かれた数式が途中で途切れて、

動かなくなる。頭の中で答えへの道筋は出来ているのに、外に出ていかない。何かをす

ることを身体が全力で拒絶してる。

 しばらく向かい合って、私はシャープペンを置いた。渚姉さんと高瀬さんの声は壁の

おかげでほとんど伝わらないはずなのに、耳の奥の残響はどんどん大きくなる。

 リラックスして出る笑い声。姉さんと一緒にいるときだけ出てくる声なんだって知る

ようになってから、自然と出るようになったため息。一緒にやる気も何もかも出ていく

ような気がして、変わりに腹が立ってきた。

「何よ……」

 勢いよく立ち上がると同時に倒れる椅子。本来なら大きく響くはずの音は、絨毯に吸

収されて「ぽふっ」という可愛い音が耳に届く。

 倒れたままの椅子を見ていると、とてもむなしい。

 姉さんのお下がりで何年も使ってきたからか、今見るとやけに古びて見える。

 お下がり。

 その言葉が思い浮かんで、胸が締め付けられた。椅子を立て直してから、視線は化粧

棚の上にある大きな鏡に向かう。

 鏡の傍の壁に貼ってあるカレンダーは、渚姉さんと高瀬さんの幸せが始まった日から

もう一年が経ったことを教えてくれる。それでなくても、かすかに聞こえる会話から、

今日が二人の一年目の記念日だと言うことが推測できた。

 そして鏡の中には私が映っていた。

 渚姉さんと本当にそっくりな、私が映っていた。

 肩まである栗色の髪の毛に少し大きめな目。顔も、まるで同じ型を取って少し加工し

たみたいに似てる。家族も、友達も、私を知っている人はみんな、渚姉さんと私を良く

似てると言った。私自身も否定できない。

 三姉妹でも一つ上の梓姉さんとはそんなに似てるとは思えないのに、どうしてなんだ

ろう?

「……やだ」

 自分でも思ってもみないくらい、低い声が出た。身体の中につまったドロドロな感情

が吐き出されたみたいで気持ち悪くなる。

 ふらつく身体を支えながら、私は部屋を出た。顔を洗ってコーヒーでも入れよう。き

っと受験勉強に疲れているだけなんだ。

 自分の部屋から出て見える階段と、渚姉さんの部屋のドア。

 通り過ぎる瞬間に、また高瀬さんが笑った。どんな顔で笑ってるのか自然と浮かんで

きて、辛かった。



* * * * *
 ポットから出てくる煙をぼんやりと眺めていたら、階段を急いで下ってくる音がした。 はっとして火を止めると同時に渚姉さんがキッチンに顔を出す。 「一紗(かずさ)! ちょっと出てくるから! 雄太は構わなくていいよ〜」 「恋人ひとり置いて、どこいくの?」 『恋人』って言葉に自分で違和感を覚える。口ぶりに表れていたかどうか不安だったけ ど、でも渚姉さんは特に気にする様子もなくて、微笑んだまま。 「雄太、昨日徹夜だったみたいでさ、寝ちゃったんだ。だからその隙にちょっと買い物 してくるね。特に飲み物とかも持っていかなくていいから」  私の前にあるポットを見て言ってるんだろう。確かに中には三人分のお湯が沸いてい る。別に高瀬さん達の中に入っていこうと思ったわけじゃない。ただ、気づけば三人分 だっただけだ。 「うん、分かった」 「いってきまーす」  最後まで渚姉さんは笑って出かけていった。  私が高瀬さんを好きだったことを知ってるのに気にしてる様子がないのは、私のこと を気遣ってくれてるのかそれとも……もう未練がないと思って安心してるからだろうか。  確かに二人が付き合うようになって、自然と私は自分の想いを閉じ込めたけど……。 「…………」  コーヒーを二つ入れて、キッチンから出た。  階段を昇る間に心臓の鼓動が早まっていく。ただ眠気覚ましのコーヒーを持っていく だけだ。  折角女の子の家にいるのに寝てしまう高瀬さんをふざけて怒ってやるんだ。  そして高瀬さんは、少し困った顔をして曖昧に笑いながら謝る。  そうやって、笑える関係を保つ。  今までも、これからも同じように……。  渚姉さんの部屋の前に立って、ドアに耳を近づけた。少し薄いドアでも高瀬さんの寝 息までは通してくれない。誰もいないかのように気配が感じられないから、寝てるのは 間違いないだろう。  ノックもしないで、部屋に入る。  渚姉さんの部屋には久しぶりに入った気がした。最後に入ったのは……やっぱり一年 前か。そこから何度か高瀬さんが訪ねてきた渚姉さんの部屋。その残り香がある気がし て嫌だったのかもしれない。  高瀬さんは渚姉さんのベッドに横になっていた。大学生になってから必要最低限の物 しか置かれなくなった部屋は快適に過ごせそうだ。ここで二人は何度も、楽しい時間を 過ごしていたんだろうか。  床の丸テーブルにコーヒーを置いて、寝ている高瀬さんの傍に近寄る。 「高瀬さん」  小さく呟いた声が届いたのか、高瀬さんは少し身体を動かした。でも意識が戻った気 配はない。音を立てないようにベッドの端に腰を下ろして、高瀬さんの顔を覗き込む。  高校時代から知ってるけれど、大学生になってからずっと大人っぽくなった顔。寝て いる顔は初めて見たからか、知らない人みたいだ。 「ん……」  声と一緒に、かすかに高瀬さんの瞼が開いた。焦点が合ってない瞳が私を見つける。 でも私はそのまま顔を近づけた。 「たか――雄太」  今なら、高瀬さんを騙せるんじゃないか。そう思った。  渚姉さんと似た顔、似た雰囲気を持ってる私。  一年前から鏡を見る度に映ったのは、渚姉さんの模造品である私だった。偽物で、本 物には絶対叶わない。見てもらえない自分だった。  だから、今くらい幸せな夢を見せてもらってもいいじゃないか。  鏡に映る偽物の渚姉さんが得る幸福だとしても。  ほんの一瞬だとしても、少しだけでも幸せをもらってもいいじゃないか。  高瀬さんの瞳はまだ混濁してる。今のうちにちょっとだけキスをする。  それだけで……私は―― 「一紗、ちゃん?」  言葉に弾かれるように、私は顔を離した。頭を振りながら身体を起こして、高瀬さん は徐々に目覚めていく。 「あれ……渚……出かけた?」 「は、はい……」  高瀬さんの顔を、見ることが出来ない。涙が少しずつ目から溢れてきて、悟られる前 に部屋を飛び出した。 「あ、かず――」  高瀬さんが慌ててかけてきた言葉を置き去りにして、私は自分の部屋に駆け込んだ。 ベッドの中にもぐりこんで枕に顔をうずめる。  止まらない涙が、枕カバーに染み込んでいく。 (なんで……なんで! なんで!? どうして!?)  わけの分からない思いが、私を焦がしていた。身体がしびれて、胸が締め付けられて。  涙と一緒に溢れ出す感情を抑えるために唇を噛み、嗚咽を押し殺す。  叫んで、頭をかきむしりたくなるのを、両手で身体を掴んで抑えつけた。  ――しばらくして、衝動がようやく収まってきた。落ち着いてきてまず心配したのは 高瀬さんが来ることだったけど、やってくる気配はない。  私は布団から這い出して、深く息を吐いた。 「……どうして?」  頭の中に反響した言葉を口から出すと、何に対する疑問なのかがまとまる。 「高瀬さんは、気づいた」  唇が触れ合う寸前、高瀬さんは私の名前を呼んだ。  まだ完全に覚醒したわけじゃなかったのに。寝ぼけたままで、ぼんやりとしてたのに。  私が渚姉さんじゃないことを、見分けた。 「気づいて、くれた」  家族も、友達も、私を知っている人はみんな、渚姉さんと私を良く似てると言った。  自分でさえ、渚姉さんの模造品だなんて思っていた。  高瀬さんと渚姉さんが付き合いだした日からは、特に。  昔から、渚姉さんに似ていた自分。  二人が付き合いだした日から見えるようになった、鏡の中の渚姉さん。  今になって、理解する。  私は『渚姉さん』になりたかったんだ。そして、高瀬さんの隣にいたかった。  大好きな人と一緒に、いつまでも一緒にいたかったんだ。  でも、この想いは―― 「…………」  泣き顔を確かめようと、気だるい身体を起こす。さっき見た鏡に近づいていくと、鏡 の中の渚姉さんも私へと近づいてくる。  覗きこんで目の周りを抑えると、渚姉さんも同じ動作をする。  ……でもそれは姉さんじゃなかった。  鏡に映るのは確かに自分だった。良く見れば耳の大きさとか頬の膨らみ具合、唇の形 なんて細かいところだけれど、確かに私だった。  渚姉さんと確かに似ているけど、確かに違う私。  中村一紗がここに、いるんだ。  それに気づかせてくれたのが……自分が渚姉さんみたいだと強く思うようになったき っかけを作った本人だなんて、皮肉だ。  腫れぼったくなった目を抑えていたら、ドアが静かにノックされる。渚姉さんならす ぐに薄くドアを開けてくるから、そうしないところをみると高瀬さんだろう。 「あの……一紗ちゃん。大丈夫?」  心配そうに私の名前を紡いでくれる。渚姉さん経由で仲良くなってから変わらない、 高瀬さんの優しさ。  ちくっと痛む胸に構わずに、できるだけ元気な声を出した。 「はい。大丈夫ですよ、なんでもないです」 「あー……そう、か」 「そうです。もう少し休んでてください。姉ももうすぐ帰ってくると思いますから」 「……うん、分かった。渚の部屋にコーヒー二人分あったけど、多分、一紗ちゃんのだ と思ったから、ドアの前に置いておくね」  高瀬さんはそのまま部屋の前から離れていった。隣の部屋のドアが閉められる音がす るのを見計らって、素早くコーヒーを中に引き入れる。  あれだけ沸かしたのに、もう温くなっていたそれを、私はゆっくりと口に運んだ。 「――苦い」  一年遅れの苦味が、口の中に広がっていった。 


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