『ウィンディ・ノンフィクション』





「な……中村」

 かけられた声にストレッチを止めて立ち上がる。さっきまで火照っていた身体へ緩やか

に流れる風が当たると滲んでいた汗が少し早く冷めていく。落ち着いてくる体温が少し早

かったのか、身体が震えた。それが目の前に立ってる先輩を見たからだと思われないかな

と心配したけど……先輩は先輩で私の様子をちゃんと見る余裕がないみたいだった。何か

そわそわして私と視線を合わせない。

「どうしました? 先輩」

 先輩が陸上グラウンドに残って練習してたのは視線の端で見てた。走り高跳びの練習を

さっき終わらせて、部室に戻っていたはずだ。ここから去る後姿を見てからもう一本走っ

てストレッチしてたんだから、間違いない。

「鍵なら、ちゃんと職員室に返しておきますけど」

「いやそうじゃないんだよ」

 先輩は私が誤解してると思ったようで、かなり焦りながら訂正した。じゃあ、何の用な

んだろう?

「あー、中村。もう上がるだろ? 一緒に夜飯でもどうだ? 先輩がおごるぞ」

 どう見てもわざとらしい先輩の言葉。緊張を強引にほぐそうと笑みを浮かべてるけれど、

それが逆に緊張を深めてるみたいだ。こうしてても仕方がない。ご飯は家で食べるし、用

件を聞いて帰ろう。

 背中を撫でる風の冷たさに、また身体が震えた。私にも先輩の焦りが移っていたのか。

予想以上に夜の気配が広がっていたみたい。

「ご飯、家で食べますから……すみません」

 当り障りなく断って横を通り抜けようとすると、急に右腕を捕まれる。伝わる痛みと熱

さが、先輩の緊張をそのまま私に伝えてきた。何を言いたいのか分からないけれど、どう

も簡単に聞くわけにはいかないらしい。

「あ、悪い」

 先輩の顔を直接見るのが何となく怖くて、先輩が掴んでいた所へと自然に目線が行く。

赤く指の跡がついていた。反射的に片方の手でさすった私に、先輩は申し訳なさそうに頭

を下げる。そこから無言の時間が続いて、ひときわ強い風が吹いたところで先輩は私の目

を強く見つめてきた。

 さすがに何を言おうとしてるのか、私にも分かった。

「俺、お前のことが好きなんだ! 付き合って、くれないか?」

「――ごめんなさい」

 自分でも信じられないくらいすんなりと言葉が出た。少しくらい考える素振りを見せて

も良かったかもしれない。事実、先輩はあまりに早い返答に池の外に出た鯉みたいに口を

ぱくぱくさせていた。こんな例えが浮かぶ辺り、私は落ち着いてるんだろう。

 駆け抜けていく風が収まり、私達の間に横たわった静寂も消える。

「り、り……理由、聞かせてくれるとありがたいんだけれど」

 先輩は努めて落ち着こうとしていた。

 中学生でまだまだ子供の私達。でも、一つ年上ということを意識しているのか、それと

も私に弱ったところを見せたくないって思ってくれているのか。

 心に浮かんでくるのは罪悪感。

 どうして、こんなに落ち着いてるんだろう、私は。

「理由と言われても……」

「やっぱり、明が好きなのか?」

 固有名詞が出てすぐに、私の脳内に明の顔が浮かぶ。同年代の男の子からすれば少し細

くて鋭い感じのする顔。でも何がやっぱりで、なんで明の名前が出てくるかも分からない。

私が言葉を聞いて呆然としてる理由を悟ったのか、先輩は続けて口を開く。

「いつも一緒にいるだろ? 部活でも同学年で同じ短距離だからって……やけに一緒にい

るし。だから俺も思い切って告白したんだぞ?」

 徐々に先輩の顔に笑みが広がっていった。私は逆に、自分の表情がなくなっていくのを

自覚する。

 中一で初めて会ってから今まで、明は私にとって一番の異性の友達だと、思う。小学生

から今までで。部活の種目も同じ短距離走で、趣味も合ったからと言えばそうなんだけれ

ど……それとは違う何かが明にはあった気がした。それを友達に話すと大抵同じような答

えが返ってくる。

 先輩が言ったような答えが。

「同じこと、他の人にも言われます……それで、同じ説明してるんですけど……別に明は

恋愛対象じゃありませんよ? 明は友達です」

「お前さ、それが説得力ないって分かってないだろ。俺は少なくとも、男女間で友情とか

親友とかあるとは……ちょっと思えない」

 先輩はもうさっきまでの張り詰めた空気はなかった。いるのは少しだけ寂しそうな先輩。

告白するってことがどれだけエネルギーを使うかってことは、そういう経験が少ない私に

も分かる。

 こうして話しているのが酷く残酷なことなんじゃないだろうか?

 後から先輩は苦しむんじゃないだろうか?

 さっきの風が、先輩の私への感情も持ち去ってくれれば良かったのに――

「中村」

「は、はい!」

 思ったより深く考えこんでいたみたいで、先輩の声は私の思考を鋭く遮った。出してし

まった声が裏返ったことがそんなにおかしいのか、先輩はとうとうお腹を抱えて笑い出す。

 恥ずかしいし、少し腹立たしいけれど……攻める気にはなれない。

「お前さ……いや面白いな。振られたこと、全然気になんないわ。仕方がないってすんな

り思える」

「それは、誉められてます?」

 先輩の心の場所はどうあれ、表の明るさに私は口調を合わせた。ここで謝るのは失礼だ

ろう。私にはこうしてることで感じる辛さに文句を言う資格なんてないんだ。受け止める

しかない。

「ああ。少なくとも俺は救われたよ」

 そう言って先輩は私に背を向けた。その声が少し震えていたのは……多分気のせいだ。

私が持ってる罪悪感がそうさせるんだろう。事実、先輩は「汗ちゃんと拭けよ」といつも

通りの声で注意してきた。だから、私もいつも通りにしよう。

「はい。お疲れ様でした、先輩」

「また明日な」

 いつも通りに答えられたかは分からないけれど、それを確かめるすべは私にはない。

 明日は明日の風が吹くしかないんだから。

 しばらく立ったまま、夜の風を身体に浴びていた。先輩が学校から確実に去ってると思

えるまで。



* * * * *
 どうして会いたくない時に限ってばったり会ってしまうんだろう。探してる時には見つ からなくて、探すの止めたらすぐ見つかる探し物みたい。 「今日はなんか変だな」  その張本人の顔を見ながら帰り道を歩いていた。お互い自転車を押して、外灯に照らさ れた道をゆっくりと進む。どうして三十分も早く帰ったはずの明がこうして横にいるんだ ろう? 「というか、なんで明と一緒に帰ってるの、私」 「何でって言われても。俺が立ち読みしてたところを梓が横切ったんだろう」  つまりコンビニで立ち読みしてた明が私を見つけたわけか。私が告白されてる時にのん きに立ち読みしてたんだ……。  なんだろ? 何か、むかむかする。 「明ってなんか能天気だね」 「梓がぴりぴりしてるから、俺が能天気にならないとな」  そんなあからさまに顔に出てるだろうか。もう一度明の顔を見たら、ちょうど明も私の 顔を見て――笑いかけてくれる。それだけで何かむかむかとか、どろどろ考えていたもの が徐々に消えていく。 「……ねぇ。やっぱり男女の間で友情って成立しないのかな?」  先輩が少しだけ寂しそうに言った言葉。それが自然と口から出ていた。明の顔を見て気 が緩んだことが、友情じゃなくてそれ以上の感情なんじゃないかと不安になったのかもし れない。不安になることなんてないはずなのに。  でももし、友情以上の物だったなら……今まで一年と数ヶ月の間に明と積んできた大切 なものが崩れてしまうような気がした。私は今までの私じゃなくなって、明は今までの明 じゃなくなってしまうんじゃないか。  それはなんだか、凄く寂しい。  だからなのか、明の言葉に笑みを浮かべさせられた。 「本人同士があるって思ってればいいんじゃない? 別に後でどう変わろうと、今あるな らいいじゃん」  さっと、私の中を風が吹きぬけた気がした。むかむかとか、心配事とかマイナスの感情 を一瞬で吹き飛ばす。そんな風が明の言葉によって生み出されたような感覚。  今、いろいろと考えてるなんて馬鹿らしく思わせる、力。  思わず顔がほころんだ。それから明を見たら……いつもよりも少しだけ……ほんの少し だけだけど、かっこよく見えた。  男の子なんだって思えた。 「ちょうど別れ道だな。んじゃ、明日なー」 「うん。バイバイ〜」  手を振りながら、自転車に乗って去っていく明の後姿を見送る。先輩の背中とダブった けれど、それはすぐに消えた。明と先輩はやっぱり違うから。それが、明と先輩の私に対 しての思いの違いに思えて、嬉しく思う自分に驚く。  いつか、明のことを異性として好きになる時が来るんだろうか? 「――ははっ」  その笑いがどういう類なのか分からないけれど、もう心は軽くなっていた。  見上げると広がってる星空。きっと明日は晴れるだろう。  心地よい冷たさの夜風の中へと、私は自転車のペダルをこぎ出した。


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