『エンドレス・ノンフィクション』





「明……」

 教室の扉を壊れそうになるほど横へと押し出して、入ったわたしの目に飛び込んできた

背中。もう少しで太陽の光の色が濃くなる時間。より深い赤になって、世界を包む時間。

こう言う時間を黄昏時って言うんだろう。そんな教室の中に、明は一人でいた。

「……どうした?」

 いつも通り……とは言えないけれど、限りなく日常に近いテノール。わたしも何も気づ

かない振りをして、走ってきて乱れた息を整えるといつもの調子で答えた。

「忘れ物しちゃってさ」

 ゆっくりと明のいる場所へと近づく。

 窓際。自分の机の上に腰掛けて、外を見ていた明。

 傍に立っても、明の顔を見ることは出来なかった。覗き込まれたくないって想いが態度

に十分表れていたから、何も言わずに明の机へ腰掛けた。

 ちょうど、背中合わせになるように。

「……忘れ物は?」

「そんなの後でいいよ。それより、少し話をしようよ」

「……そうだな。最後かもしれないし」

 背中に加わる、明の重み。明の制服と、わたしのセーラー服を通り抜けて伝わる温もり。

 その重さや温かさに飲み込まれないように、同じように背中に体重を預ける。狭い机の

上ではどちらかが斜めになるはずだったけれど、ちょうど真っ直ぐ前を見る形に落ち着い

た。いつも通りの、気づかない程度の、明の気配りの結果だろう。

「本当、卒業だけで嫌なのにさ、高校から土地まで違うなんて最悪だよ」

 溜息と共に抜けていく言葉。

 それを生み出す振動が背中に心地いい。明の声を聞いているだけで、癒しの音楽の効果

はあると思う。自然とわたしの顔は緩んで、感情が綻ぶ。

「勝手に離婚して勝手に俺を遠くに連れて行くなんてさ。父さんと一緒ならここに残れた

のに……俺、離れたくないよ。皆とも、梓ともさ」

「嬉しい事、言ってくれるね」

 明は彼女でもないわたしと離れたくないって言ってくれる。中学校三年間通してきて、

一時期噂になったこともあったけれど、最後までわたし達は踏み込まなかった。

 少なくともわたしは、明へと踏み込んではいけないと思ってた。

 多分、友達の距離がちょうどいいって相手もいるんだと少ない経験で思ってたから。

 その相手が、明だと、感じていたから。

 彼氏彼女なんて関係でドロドロになって、こうして背中をあわせる事が出来なくなるな

んて嫌だった。

「転校なんてもちろん初めてだし……あっちの学校の入試も何とか受かったんだ。正直、

誰もいないところで新しく始めるのって不安」

「きっとそれがじんせー、でしょ」

 甦ってきた、明と過ごした三年間。

 中一から今まで同じ部活で過ごして、同じクラスで過ごして。

 部活で疲れた時、何度もこうして背中を預けた。これからもずっと預けることが出来る

んじゃないかと思った。

 それが、消えてしまう。

 支える人がいなくなったわたしの身体は、後ろに倒れるんだろうか……。

「言ってくれるねぇ」

 明の声が揺れる。

 預けてた背中も、震えた。

「本当、お前と友達になれただけでも、この学校に通った意味あるよ」

 呟き発せられた言葉が、身体を駆け巡る。

 痛い。痛い、いたい。

 止めて欲しい。

 それ以上は……言わないで欲しい。

 これ以上、わたしの心を揺さぶらないで欲しい。

「あのさ、俺――」

「明」

 自然と、手が動いていた。

 ただ横にぶら下げられていた明の右掌を左手で掴む。明も驚いたようで一瞬びくりとし

たけれど……ゆっくりとわたしの手を握ってくれた。

 初めて掴んだ明の手は、知らない男の子みたいだった。

「わたしもさ、明に会えてよかったよ。なーんでも相談できたしね。本当、いい友達だっ

たよ」

「梓?」

 さすがに何か気が付いたのか、言葉を挟んでくるけど……わたしには答えられそうに無

い。押し出される感情を必死に抑えて、爆発しないように吐き出してるんだから。

「だからさ、最後なんて言わないでね。高校が別でも大学一緒かもしれないし、携帯でや

りとりとかも出来るしさ。そうでしょ?」

 明は答えなかった。

 わたしのほうに顔だけ向けていたのが分かったけれど、わざと顔を少しそらす。

 拒絶の意思が伝わったのか、明はすぐに前を向いたらしかった。

 教室に夕暮れが満たされる。

 きっと明の顔は差し込む夕焼けに染まってるんだろう。普段から端整な顔が、もっと綺

麗になってるのかと思うと、もったいない気もする。

 でも、今のわたし達は酷い顔をしているだろう。

 涙で目が充血して、赤く腫れて。

 それでも、涙は枯れなくて。瞳がふやけて、崩れてしまいそうだ。

 明の顔を見たら、きっと、わたし自身も崩れてしまうだろう。最後の顔が焼きついて、

寂しさに耐えられなくなるだろう。

 不意に、左手を握る力が強くなる。明がしっかりと握った手を、わたしは握り返す。

 言葉のない会話。

 五分と十分、三十分経っても、変わるのは二人の影の長さと位置だけ。

 何も変わらないように見える一幕。

 これからも続く日常の中、セピア色にあせていくだろうこの時に、今は出来るだけ長く

漂っていたかった。

 これからも続く日常の中、こんなことで泣いていたんだと思うだろうこの時を、今は精

一杯感じていたかった。

 同じ日常は、もう無いから。

 この悲しいという気持ちも、鼻にツンとくる痛みも、もう二度と同じ物は得られないだ

ろうから。

「背中、温かいね」

「ああ」

 今まで続いてきた過去からの物語の終わり。

 どうなるか分からない未来へと続く始まり。



 終わるまで終わらない、日常の一幕。



 さよならを忘れるように、日が暮れるまでわたし達の影は繋がっていた。

 背中と掌の温もりを自分の中に焼き付けながら。



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