『カラー』





「こらっ! 義男!」

 ぷにぷにと柔らかいほっぺたを触っていたら、お母さんが凄く怒りながら駆けてきた。

確か洗濯物を干しに外に出て行ってすぐだったはずなのに、僕が赤ちゃんを触っているこ

とにどうして気づいたんだろう?

「ちゃんと消毒した? 汚い手で触らないで!」

 僕はおずおずと消毒液で擦った掌を見せた。お母さんは鼻の傍に僕の手を持って行って、

わざわざ臭いまで嗅ぐ。ようやく納得したのか、怖かった顔が緩んだ。

「よかった……気をつけてね、義男。美智子はまだ汚いのは苦手なの。あなたの絵の具で

汚れた手で触ったりしたらすぐ病気になっちゃうのよ」

「うん。分かった」

 素直に頷くと、お母さんは洗濯物へと戻っていった。お母さんが怒るのは怖い。だから、

僕は思い切り息を吐いた。身体から力が抜けそうになったけれど、赤ん坊が身じろぎした

から、やろうとしたことを思い出した。念のためにもう一度消毒液で手を濡らしてから、

赤ちゃんのほっぺたを触った。ちょっと触っても、少し指を沈めても、赤ちゃんは特に動

かなかった。あんまり動かないから、今まで何度もやってたように耳を口元に近づける。

息をする音が聞こえてほっとした。お父さんとかお母さんがお昼寝をしている時は顔を動

かしたり寝言を言ったりするんだけれど、赤ちゃんは動かないし何も言わない。病院のベ

ッドに入ってた時には動いてるところを見たことがなかったから、本当に人形なんじゃな

いかと思ってた。

「…………」

 僕は赤ちゃんから少し離れたところに置いてあったパレットを取り、画用紙に描かれた

赤ちゃんの絵に色を塗るために絵の具を探した。たまに赤ちゃんの様子を見ながら。

 一月前にやってきた赤ちゃんはいつも寝ていた。

 丸い顔に丸い指。おなかが出てて太い足。思っていたよりもあると思った髪の毛も、生

まれたての頃に比べて増えたと分かるくらい生えていた。両手をひょこっと頭の傍に上げ

ていて、足はかえるさんのように広がってる。学校に行ってる間も、今日みたいに休みの

日にも、赤ちゃんは起きれば泣いてお母さんのおっぱいを飲むか、おしめを換えてもらっ

てるかで、夜にはいつもお風呂だ。赤ちゃんだけが使う小さなお風呂にお父さんが入れる。

その時は目を半分だけ開いて、口をすぼめてとても気持ちよさそうにしていた。とても可

愛いんだけれど、やっぱり少し嫉妬した。

 水彩絵の具の肌色は赤ちゃんの肌色よりも濃かった。白い絵の具で薄めたりしても上手

くいかない。何でもいいから絵を描く宿題だからって、題材選びに失敗しちゃったかな。

色をつけなくてもいいなら、もう完成なのに。それとも鉛筆の線だけの絵を見せて「赤ち

ゃんは白と黒しかなかった」と言おうかな。

「――ぅ」

 思ったよりもぼんやりしてたのか、赤ちゃんの声にびっくりした。赤ちゃんは目をうっ

すらと開けて周りを見てるようだった。でもお母さんが言ってたけど、赤ちゃんがちゃん

と目が見えるようになるのはまだまだ先のことらしい。今は光があるかないかくらいで、

誰がいるとか分からないようだ。

「――ぇん」

 ミルクが欲しいのかおしめを換えて欲しいのか。でも、赤ちゃんが泣くかもしれないの

を見てもお母さんを呼ぶ気にはならなかった。お母さんが赤ちゃんにかかりきりなせいで、

嫌な思いをしてるからなんだろう。夜の二時や三時に泣き声で起こされるし、お父さんも

お母さんも赤ちゃんを可愛い可愛いと言って僕を余り見てくれない。

 でも、それよりも嫌なのは――

「ぅえーんっ! あぇーんっ! えぇーんっ! ふぇーん! …………」

 とうとう泣き出した。あの小さい体のどこからこんな声が出るんだろう。僕は気にせず

白と肌色を混ぜ合わせる。なかなかいい色になってくれない。パレットの上に五つあった

色を混ぜ合わせる場所を三つ使ってもいい色にならなかった。かき混ぜた色にパレットが

塗りつぶされる。

 すぐ傍で泣いているはずの赤ちゃんの声が遠くなる。お母さんの怒鳴り声が近くなった。

「義男! 何してるの!?」

 大きな足音を立ててお母さんが赤ちゃんのところに走ってきた。僕が何もしてないのを

見て怒ろうとしたけど、先に赤ちゃんを抱き上げてあやしだす。僕はその間に筆を洗う水

を入れたものとパレットと赤ちゃんの絵を持って部屋から出た。赤ちゃんを驚かさないた

めに、大声を出せないお母さんを置いて、二階に上がった。

「なんであんなにふにょふにょで役に立たないんだろう」

 自分の部屋に戻って、床に座る。用意してあった新聞紙の上に画用紙をのせて、パレッ

トへの色作りをしなおす。

「……この……この……このっ!」

 よく分からないけれど、腹が立った。



* * * * *
「ただいま……」 「ぅあ――陽一兄ちゃん」  床にごろんと横になって、そのまま寝ちゃったみたい。部屋のドアから顔を出してる陽 一兄ちゃんの顔に夕日が当たっていて、いつの間にか夕方になったことが分かる。時計を 見るともう六時を過ぎていて、お腹がくきゅぅと鳴った。 「もうじきご飯だから……お? もしかして、美智子か、それ?」  兄ちゃんは部屋に入ってきて電気をつけた。それから僕の前にあった画用紙を取り上げ て、水平に見たり電灯にかざして見たりしながら「ふんふん」と言ってる。 「いいんじゃん? 小学校二年生が描いたにしては。俺より上手いよ」  陽一兄ちゃんは六年生だけど、絵は下手だ。その代わりいろいろ知っていて、学校で習 うよりも兄ちゃんに話を聞くほうが楽しい。  だから、聞いてみた。 「ねえ……どうして赤ちゃんってあんなんなの?」 「あんなんって?」  どうしていつも寝てばっかりなの?  どうしていつも泣いたりしてるだけなの?  赤ちゃんってどうして何も出来ないの?  妹が生まれてから、ずっと思ってた。学校で飼ってる兎も、学校に行く途中に見つけた 仔猫も、隣の山田さん家の犬も。皆、小さい時から一人で生きてるのに。どうして赤ちゃ んはあんなにお父さんやお母さんが必要なの?  お父さんやお母さんがくたくたになって昼寝しているのを見てるのが、辛い。  赤ちゃんに夜起こされて、朝に不機嫌な二人を見るのが、構われなくなるよりも辛かっ たんだ。お父さんとお母さんには、もっともっと笑っていて欲しいんだ。  ……全部言った後で、兄ちゃんは優しい顔をして言った。 「義男は寂しいし優しいし、大変だな」 「いけないかな……男の子だし」 『男らしく』とお父さんはよく言う。男は泣き言を言わないものだとか簡単に涙は見せな いものだとよくお酒を飲んだ後は言う。お酒の臭いは嫌いだけど、飲んでいる時のお父さ んはいつものお父さんよりも楽しいから好きだ。だから一緒にいる。そして、映画を見て 泣いてる。  それでも、普段のお父さんが泣いてるところは見たことがなかった。やっぱり、普通は 男の人は寂しがりも、泣いたりもしないんじゃないか? 「これはな、義男。俺が言ったって言うなよ?」 「何?」 「お父さんな、美智子が生まれた時に泣いてたんだよ」 「えっ!」  病院ではお酒は駄目だと看護婦さんが誰かに言ったのは聞いていた。なら、お父さんは お酒を飲まないで泣いたって事だけど。とても信じられなくて大きな声を上げてしまう。 「まだ俺にも良く分からないんだけれど、美智子って生まれにくかったらしいんだ。もし かしたら……生まれてこなかったかもしれない」 「生まれてこない……? 赤ちゃんが?」  視線が自然と画用紙に向かった。目と口を閉じて、身動きしない赤ちゃんを描いた絵。 動かないから描きやすいと思って描いた絵。  何度も何度も、耳を口元に近づけながら描いた絵。 「だから、生まれてきた時は本当に嬉しかったらしいよ。嬉し泣き。別に涙は流してもい いと思うよ、男でも。で――」  兄ちゃんは画用紙を取り上げて、僕のほうに絵を向けた。視線はさっきから絵に向かっ てたから、すんなりと赤ちゃんの絵が目に映る。 「赤ちゃんってな。この絵みたいなもんさ。なーんも色はついてないし、線だけ。だから、 これから色を塗ってくんだよ。そのパレットで色をつくって」  寝ちゃう前に画用紙と一緒に置いてあったパレットは、肌色が沢山付いていた。他の色 を作る場所もなくなって、疲れて寝てしまったんだ。筆で触ってみると、もうぱりぱりに 乾いていた。一回洗わないと駄目だろうな。 「そいつでいろんな色を塗って、どんどん絵が完成してく。そんな感じに思えばいいじゃ ないかなー。それにな、義男。赤ちゃんって毎日何か変わってるんだよ」 「毎日ー? 何も変わってないよ?」 「変わってるよ。よく見てごらん? きっと、見つかるから」  兄ちゃんともっと話したかったけれど、お母さんが僕等を呼んで、兄ちゃんは自分の部 屋に着替えに行っちゃった。部屋を出る前に、一言置いていった。 「それを見たいから、父さんも母さんも頑張ってるんだよ」  一人で降りるとお母さんに何か言われそうだったけれど、兄ちゃんを待ってる間も何か 気まずい。しょうがないから、先に下りてみた。 『ぅえーんっ! あぇーんっ! えぇーんっ! ふぇーん! …………』  居間の扉を開く前に、赤ちゃんがまた泣き出していた。昼間の出来事が頭に浮かんでき て入る気がなくなりそうだったけれど、兄ちゃんの言葉が背中を押してくれた。  僕にも赤ちゃんの変わってるところが見えるだろうか? 「お母さん、大丈夫?」  ゆっくり扉を開けたら、赤ちゃんが急に泣きやんだ。お母さんは立ち上がって赤ちゃん を抱いて揺らしていたみたい。僕の顔を見てお母さんは一瞬怒ったような顔をしたけれど、 すぐに優しく笑ってくれた。 「おいで、義男」  傍に行くと、お母さんは僕の傍にしゃがんで、赤ちゃんを見せてくれた。赤ちゃんは涙 の後が目の傍にあったけれど、口を少し尖らせて、ぼーっと真っ直ぐ前を見てる。 「ほら、お兄ちゃんですよー」  お母さんは赤ちゃんの首を乗せた左腕を少し傾けて、目を僕のほうへと向けさせた。で も赤ちゃんは僕を見てるようで見てない。やっぱり見えてないのかもしれない。思いつい て、置いてあった消毒液で掌を洗うと、赤ちゃんのほっぺたを突いてみた。 「――あ」  驚いて、指を離してしまった。 「きっとくすぐったかったのね。ご飯にしましょうか」  お母さんは赤ちゃんをゆっくりと寝床に戻して、お味噌汁を温めに行った。温まる間、 ずっと僕は赤ちゃんを覗き込んでいた。赤ちゃんはぼんやりとどこかを見ながら体を動か してる。手足が少しずつ動いてるだけで、そんなに大げさじゃない。小さいけれど、でも 大きな動きだと思った。 「くすぐったかったの?」  話し掛けずにはいられなかった。さっき見せた、笑顔を思い出したら。  ほっぺたが上に動いて、口が笑顔の形になって、目が笑って。そんな表情なんて今まで 見たことない。今は無表情の顔が、確かに変わったんだ。 「見つけた?」  上から降りてきた兄ちゃんが僕の後ろから声をかけてくる。ただ頷いて、僕は赤ちゃん をじっと見た。  兄ちゃんの言う通り、赤ちゃんはこれからいろんな色が塗られていくんだろう。ゆっく りパレットで色を作って塗って、作って塗って。繰り返しながら。 「……頑張ってね、美智子」  ちょっと開かれた掌に小指を入れると、軽く握ってくれる。何度も確かめてしまうけれ ど、確かに美智子は生きてる。そう思うと嬉しくなった。きっと、こんな嬉しさがあるか ら、お母さん達は疲れても大丈夫なのかもしれない。 「お味噌汁できたわよ」 『はーい』  美智子を驚かせないように、兄ちゃんと僕は静かに声を出した。それから抜き足差し足 で食卓まで歩いて、用意されたご飯に静かに「いただきます」と言う。  今日のご飯はいつもよりもおいしかった。  いい肌色が作れそうな気がした。


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