『クロス・ロード』





 重苦しい、空気だった。

 目の前で涙ぐんでいる彼女――元、彼女を見るのはやはり辛い。

 喫茶店じゃなくて、マンションの部屋で言うべきだったろうか。でもそれだとそれまで

過ごしてきた空間の空気と言うか、気配が俺の言葉を鈍らせていたかもしれない。

 こうして外の空気に触れて、人の喧騒に騒がれることで、足を一歩前に踏み出すことが

出来るような気がした。

「つまり……別れようってことなのね」

「そうだよ」

 彼女の口からすべり出た単語に後押しされて、二人の間にかかる糸を断ち切ろうと言葉

を静かに紡ぐ。身体を微かに震わせ、彼女は俯いた。さらりと肩から黒髪が落ちる。

 長いほうが良いよと言った俺に合わせて、彼女はそれまで耳が隠れる程度だった髪を背

中まで伸ばした。服装もあまり気を使っていなかったのが、気づかないうちに雑誌を読ん

で研究までしていた。化粧は軽めに抑えた。

 何もかもを俺の趣味に合わせてくれた彼女を、俺は捨てようとしている。ちょうど二年

の間、一緒にいた彼女を。周囲の皆にも反対されたけれども……やはり今の関係のままで

一緒にはいられない。たとえ友人としてでも。

『彼女はお前がいないと生きていけない』

 俺の心変わりを知って、友人は口々に呟く。言葉は回りくどかったりするけれど、つま

りはそういうことを言われ続けた。

 俺だけを見てくれる彼女。俺のために自分を変えていく彼女。

 でもそれは――

「出ようか」

 無言で彼女も立ち上がる。

 レシートを持って先に勘定を済まし、後ろも見ずに外に出る。

 空は曇り。俺の心を更に押しつぶしてくるかのように、空は次第に圧力を増していくよ

うに思う。もしかしたらあと一時間もすれば雨が降ってくるかもしれない。

 足を止めてる間に彼女が俺の左腕を抱きしめた。微かにかかる圧力。思い切り抱きしめ

ることはさすがに躊躇するらしい。俺は構わず歩き出す。合わせて彼女も下を向いたまま

ついて来る。

「……言いそうなのは、分かってた」

 いつも人通りが少ない道を歩いているだけあって、日曜日の夕方だと言うのに誰もいな

い。そんな空間に響く声は、いつも二人で過ごしていたマンションの部屋の中にいるよう

な錯覚を見せる。こんなのじゃ、折角外に出た意味がない。そんな錯覚から逃げるために

外に出たのだから。でも彼女の声は俺の中に入り込み、染み渡る。高すぎず低すぎず、甘

い響きを持つそれは、俺を何度も何度も至福へと昇らせる。

「いつか修君は私を捨てるって分かってた」

「分かってたならさ、話は早いよな」

 出来るだけ感情を押し殺し、俺は歩みを止めない。その先にある場所を彼女も理解して

いるからか、少しだけ俺の腕を掴む力を強めた。空から落ちてくる鉛色の雲を避けるため

には、何とか雨が降る前に目的地につかなければならない。

 いつしか、彼女の手が俺から離れていた。黙って後ろをついてくる彼女。俺達が別れる

事はもう決定事項だと理解したんだろう。見なくても悲しみが伝わってくる。

 空気を伝って。

 音を伴って。

 だから俺は、視覚にだけ意識を集中する。余計な音を聞かないために。

「……っ……ふっく……うう……」

 それでも、悲しみに濡れた声が入ってくるのを避けられなかった。

「――ごめん」

 知らず知らずのうちに大股になっていた。

 それで得られた物は目的地への迅速な到達。言葉が途切れてから十分ほど歩いたところ

で、たどり着く。終わりの場所には相応しく、俺達以外誰もいない。

「私の、場所だね」

 背中越しに声がする。きっと、俯いた顔を上げようとしているんだ。言葉自体はまだ弱

々しかったが、込められた思いは徐々に強くなっているような気がする。

「ああ」

 応え、俺はその場を見回した。

 十字路。四方から道が繋がる場所。いつも通るスクーターや自転車がいないこの場所は

まるで別世界に迷い込んだかのような雰囲気を俺に与えてくれる。

 だが、ここは現実だ。

 この場所も、彼女も、俺も。現実の中にいる。

 幻想に逃げてはいけないんだ。目の前の現実と向き合わなければいけないんだ。

「ここで、さよならしよう」

 ようやくそれだけ呟いて、俺は彼女へと振り返り、真っ直ぐに瞳を見つめる。

 全てが始まった場所。

 だからこそ、この十字路が終わりに相応しいと思った。始まりの場所へ還るというのは

単純な考えなのかもしれないけれど。

 喫茶店からここまでしっかりと見ることが出来なかった彼女は、ここまで来る間に迷い

を捨てたのか、微笑を浮かべながら俺を見ていた。

 立っている場所は十字路の中央。

 左右と後ろに繋がる道の中心に、彼女が見える。俺の背中方向に続いている道だけはも

ちろん入らない。俺の背中に、彼女の背中に、二人の進む道がある。

「今まで……ありがとうね、修君」

「俺も。今まで楽しかったよ。でも……今のままじゃな駄目なんだ。絶対」

「分かってる……分かってるよ」

 ここに来て辛さに目をそむけた俺を、彼女の腕が包み込んだ。

 ここに来て俺の中の弱さが、視界を滲ませた。

 どうして俺はこんなに弱いんだろう。俺のためにつくしてくれた彼女が今更惜しいのだ

ろうか? 好きでいてくれる彼女とずっと一緒にいたいと思うのだろうか。

 でもそれは……愛情じゃない。昔、確かにあった愛情じゃ、ない。もう愛情は歪んでし

まったんだ。修正不可能なほどに。だからこそ、この関係は終わらせないといけない。

「ごめんな。愛」

 はっとして、俺から離れる彼女。自分の名前を呼ばれたことに対する喜悦が、表情に表

れている。だから俺も、微笑む。

 最後の最後に、俺は彼女を笑って送り出す。互いを互いで縛っていた関係から、今こそ

抜け出すんだ。

「最後に名前呼んでくれて、嬉しかったよ」

「……元気でな」

「ふふ。変な言葉だよね、それ」

 笑顔のままで、彼女は俺に背を向けた。

 そのまま軽くステップを踏みながら道を進んでいく。

 そして、そのまま姿が消えていく。

 最後まで彼女は振り向かず、速度を落とさずに空間に溶け込むように消えていった。

 背中を、送り出すことが出来ただろうか?

 しばらく彼女が消えていった道を眺めた後で視線を斜め下に移すと、スクーターにはね

られて命を落とした彼女へ手向けられた花束が置かれていた。一年も前の出来事なのに、

ここであった出来事は忘れられてはいない。

 この花束を見て、彼女は顔を上げたのかもしれない。

 自分がもうこの世に留まっていてはいけない存在だと確認したのかもしれない。

 俺が、彼女が幽霊として現れた時に成仏してほしいと言っていれば、今頃になってこん

な思いをしなくても良かったんだと思う。でも、事故当時の俺は彼女の死に耐え切れなく

て、彼女といる事を選んだ。

 でも、もう現実を見据えないといけない。前を向いて、歩かなきゃいけないんだ。

「さよなら」

 もう一度だけ呟いて、俺は家へと歩き出した。瞬間、鼻頭に雨粒が当たる。空を見上げ

ると雨脚は徐々に強まり、俺の服を濡らして行く。

 彼女の涙だと思うのはさすがに気取りすぎだろうか。

 ここから走っても濡れてしまうのは同じ。そして、走る気力も萎えていく。

 この中でなら、俺の流す涙も一緒に地に落ちるだろう。

 そう思いながら、風に乗って強まる雨の中を歩いていった。





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