『踊るスノウフレイクス』 はらはらと舞い散る粉雪が、鼻先に当たった。すぐに水に変わって落ちていく感触を感じながら、私は息を吐く。 白く現れたそれは降ってくる雪を掻き分けるように空へと昇っていき、霧散する。無風の中をやってくる彼らの中に混ざっていったのだろうか。待つという行為の中で彷徨いがちの思考を留めるために、昔のことに思いをはせる。 そう。昔から暗い空からやってくる雪を見るのは好きだった。 今のように建物の玄関から出た場所で冬の気配を肌で感じながら、舞い降りてくる粉雪を眺める。空を伝う音を吸い込んで降り積もる白の中には、きっといろいろと見えないものが含まれているんだろう。 しばらく眺めてから足を踏み出して歩いていくと、ぎゅっぎゅっという音と一緒に包まれたものが解放されて、また空に消えていく。そんな光景を夢想して、ただ歩くことがとても楽しく思えた。 でも今は、こうしてじっと眺めているほうが好きだったりする。その先に、一番望んでいることがあるからだ。 「祐君、遅い……かな」 手袋をずらして時計を見ると、時刻は八時を過ぎていた。七時まで部活で身体はだるかったけれど、一人で帰りたくはなかった。 祐君は合唱部でクリスマス会をしているらしい。二十五日はそれぞれのクリスマスを過ごすために、毎年二十四日にある催し物。 少し玄関から顔を出して音楽室を見ると、明かりがついて誰かが窓際で話している。 メールで待ってるとは送っておいたけれど……返信はない。肩にかけたバドミントンバッグの位置を直してから、また音楽室を見る。 「帰っちゃうぞ」 勿論言うだけで、絶対にそうしない。こうやって少し拗ねたりすると困った顔をして謝る祐君が可愛いから、申し訳なさを感じつつもやってしまうんだ。 そんな楽しさと申し訳なさの間を揺れ動く感情も心地よくて、一人の時も口に出して拗ねたりしていた。 胸の奥からこみ上げてくる思いが、さっきから身体を音楽室へと運ばせようとしていた。でも、他の人がいるところに尋ねていくのは気が引けた。 だって―― 「光!」 勢いよく玄関のドアがスライドする。鉄製で私からすれば開くのも一苦労なんだけれど、あまりに勢いがついて凄い音を立てて跳ね返った。 息を切らせて、いつもどこかほんわかとした顔をしている祐君がその表情を険しく変えて立っている。肩を大きく上下させながら私を睨むように見てる。 「ゆ、祐君……どうしたの? 怖い顔して」 少し眺めの前髪に隠れた目が強く私に向けられていて、困惑する。そんな視線が向けられるのは、付き合って半年経つけど初めてのことだったから。 祐君の瞳は男の子にしては大きめで、そこから発せられるのはいつもやんわりとした光だった。今、降り続いている粉雪のように穏やかに私へと届いていたのに。 でも私は、いつもと違う視線への怖さに怯えるだけじゃなくて……恥ずかしさにも身体が震えていた。 この場に立っていられない。 走って逃げ出してしまいたい! 「あ、あの……」 「光! 中、入らないと寒いだろ!」 そう言って私の手を掴むと強引に玄関の中に引き寄せられた。寒さをあまり感じてなかったのは麻痺していたからだろう。身体を上手く動かすことができなくて祐君にぶつかってしまう。 ちょうど、抱きしめてもらっている体勢になった。 「ああ、あのあのあの!」 「こんなに冷たくなって……風邪引いたらどうするんだよ!」 胸に顔がうずまっているから、祐君の顔は見えなかった。でも聞こえてくる言葉は本気で怒っていて、抱きしめてくれる腕も力がこもってる。 「ごめんなさい……ごめん、ね?」 胸元に縮めてあった両手を伸ばして、祐君の背中に回す。氷を溶かすような緩慢な動作だったけれど、何とか腕を伸ばしきる。祐君の背中は大きくて、私の手だとちゃんと彼を包めない。それでも何とか背中を擦っていると、強く私を抱いていた腕の力が弱まっていった。 「……ごめん、高橋。さっきメールに気づいてさ、急いでクリスマス会抜けてきたんだ……それで外にいるもんだから、寒いだろうって――」 いつもの祐君の声だ。伝わる振動と入ってくる声が心地いい。 「ううん。ごめんね、急がせちゃって」 祐君の背中から手を離すと、身体も彼から離れた。祐君の腕にもっと抱かれていたかった気持ちもあるけれど、恥ずかしさに顔が熱くなる。 「高橋、顔赤いけどやっぱり寒かったんじゃ」 「違うの。寒さはそんなことないんだけど」 「なら――」 「祐君……もしかして気づいてない?」 祐君はいつもの優しい瞳で私を見ながら首をかしげていた。言い方もいつものように戻っているし、やっぱり無意識に出てきたんだ。咄嗟に出たってこと……本当はそう言いたかったって思っていいのかな? 「私のこと、初めて呼んでくれたね、名前」 「…………」 祐君は私の言葉を聞いてしばらく考えていたようだった。そして小さく「ぁ……」と声に出してから口に手を当てて私から視線をそらす。口元から上が、真っ赤に染まっていた。 「うれし、かったよ……」 私もきっと、祐君に負けないくらい真っ赤だったろう。心臓の音が身体から外に出て行くような気がするくらい跳ねていて、顔も風邪を引いたときみたいに熱いんだから。 「たかは……光」 「……祐介」 初めて、互いに名前をちゃんと言い合う。それだけで今までの私達と違った仲になった気がする。 昨日までの私達。今日の私達。 そして、今の私達。 見た目は何も変わらない。きっと、他の人から見ても変わったところなんてないんだろう。でも、変化は確かにあるんだ。 私達の心の中に。 「帰ろうか」 「うん」 玄関のドアを開くと、まだ雪は降り続いている。無音の中に降りていく二人の足音。自然と祐君……祐介の手を握って、彼の隣を歩いた。自分の傘を腕にかけて祐介の傘に入る。 私の左手と彼の右手が繋がっているから、少し大きめの祐介の傘でも私に降りかかる雪が多くなるはずだった。でも、二人で傘を囲んでいる時と変わらない。 見ると、祐介が傘を持つ左手を私達の間へとかざしてくれていた。 「あ、いいよー。体勢、変で疲れるでしょ?」 「雪に濡れるだろ」 祐介の言葉は確かにその通りだったけれど、やっぱり悪い。私は少し祐介の後ろに下がって、右腕にくっつくようにして歩くようにする。……このまま腕に抱きついたら、やっぱり歩きずらいかな? 「あ、祐く……祐介。傘、右手に持って?」 「? うん」 私に言われた通りに祐介が傘を持ち替えた。傘の柄を挟んで二人が並び、私は祐介の右手の上から傘を握る。手袋越しでも、祐介の手の暖かさが伝わるような気がする。 「これで大丈夫」 「うん」 私達を避けて落ちていく雪。傘の上には私達を包もうとした名残が残っている。一つ一つは本当に軽くてすぐ消えてしまうのに、こうして周りを覆っている。 人も車もいない。降りてくる雪の空気を伝う音まで聞こえてくるみたいだ。 「そういえばさ」 祐介の声が空気を震わせる。音が消えているからか、その声はいつもよりはっきりと聞こえて心臓が跳ねた。声を聞くだけで恥ずかしくなるなんて……今日は初めてのことだらけだ。 「どうして中に入ってなかったの? そりゃあ、たか……光が雪が降ってくるの好きだって知ってるけど、ずっと外にいなくてもよかったんじゃない?」 聞かれてしまった。本当は聞かれないままでお別れしたかったんだけど、嘘の答えを用意できてないし……。どうしようかと考えていたら傘を持つ手に力が入った。横目で祐介の顔を見ると、不思議そうに私を見てる。どこかおどおどとして、熱に顔が真っ赤な私を。本当に風邪と間違われそうだった。 「んー、何か言い辛い?」 沈黙を今言ったように捕らえたのか、祐介は申し訳なさそうに言ってきた。そんなことないって、言いたかった。きっと、聞けば祐介も嬉しく思ってくれるだろう。でも声よりも心臓が口から飛び出してきそうなくらいに、自分の想いが恥ずかしくて――。 「光?」 立ち止まってしまった私を見て、祐介は驚いただろう。私は溢れてくる涙を止めることが出来なくて顔を覆っていたから、祐介の顔を見ることが出来なかった。感情が高ぶって、涙が止まらない。 自分で自分の感情を抑えきれない。哀しいことなんてないのに。祐介を好きだという気持ちがあるだけなのに。 どうしてこんなに胸が苦しいんだろう? どうして息が詰まるんだろう? 次々と浮かんでくる祐介への想いに押し潰されそうだ。 熱い頬を手袋に包まれた手で抑えて、私は祐介から顔をそむけた。今は彼を見るだけで胸が破裂しそうだった。 誤解されるかもしれない何か言わないと言わないとでもでもでもどう言おうどうすればいい!? 祐介の傘から離れたことで頭の上に雪が積もる。このまま私を真っ白に覆ってほしい。暴走しちゃう感情を冷やしてほしい。そうすれば祐介にも私の想いを伝えられるはずだ。困惑させなくてすむはずだ。 でも、雪はすぐに私を避けた。俯いた私の視線に、祐介の手が見える。 「落ち着くまで待ってるよ」 それが当然と確信した言葉の響き。私でさえ自分がどうしたいのか混乱してるのに、祐介は私を待っていてくれる。待つことが当然だと思ってくれている。 そうだ。 この優しさに。私をこうやって気遣ってくれる優しさに、惹かれたんだ。 片思いの始まりを思い出すと、自然と肩の力が抜ける。熱を持っていた頭も冷えてきて、ぐちゃぐちゃだった視界がすぅっと白に染まる。取り戻した白い世界に見えるのは祐介の姿。 涙を拭いて何度か両手で頬を叩いてから、私は祐介を見た。 「ありがとう」 「うん」 祐介はそのまま歩き出そうとしたけれど、私はその場に留まる。ここで言わないともう言えないかもしれない。決意が冬空に消えて行く前に言ってしまおう。 「どうしたの?」 「あのね……外にいた、理由だけど」 無理して言わなくてもいい、と祐介は言おうとしたみたいだったけど、先に勢い良く私は言葉を紡いでいた。 周りに散らないように。吸い込まれないように。 私の伝えたいこと全部、祐介に伝わるように。降り続く雪のカーテンを越すように。 「中に入ったら、祐介に逢いたくてどうしようもなくなるって、思ったの」 「…………」 祐介の顔が、少し時間を置いてみるみるうちに赤くなっていく。もっと、もっと伝えたい。私がどれだけ祐介を好きなのか。 「いつも部活あったりして、休みの日とかしか逢えないし。でも、クリスマス会出ないとって気持ちもわかるからって、我慢してたんだよ……我慢して……爆発しそうだった」 語彙が無い自分が腹立たしい。いつものこともそうだけれど、今はそれを言いたいんじゃないんだ。今言いたいのは―― 「逢いに行ったら、皆の前で抱きついちゃいそうだった、から……雪見て気を紛らわせてた……の……」 語尾が消えていく。私の中の伝える勇気はなくなっていた。視線もいつの間にか下がって祐介のお腹の辺りに移ってる。そして、そのお腹が私に近づいてきた。祐介は何も言わない。雪を踏む音だけが耳に入ってくる。そんなに離れていたわけじゃないから、すぐに二人の距離はつまる。 祐介の両手が、私の肩を掴んだ。また……抱きしめてくれるのかな? 顔を上げた私の目の前に、祐介の瞳があった。 静かに、優しく付けられる柔らかい物。私の唇に……祐介の唇が重なっていた。 これって……ファースト、キス……だ。触れるだけのキス。ドラマで見るようなキス。顔が熱くなって、溶けてしまいそうだ。 「……ごめん。あんまり、可愛かった……から」 離れてから祐介は口元を隠して顔をそむけていた。さっきとは逆の状況に私は熱で浮かされた脳が冷めて、妙に微笑ましく思ってしまう。 「ありがと」 祐介の口元を隠している手を掴んで、顔をちゃんと出す。そして、ほっぺたにキスをした。唇と違って雪がついたりしている頬は少し冷たくてがさがさする。でも、さすがに唇にする気にはなれなかった。 「これからも一緒にいて?」 「……こちらこそ」 私達はまた手を繋いで歩き出した。傘を挟んで通学路を帰っていく。 学校から出た時の私達。 そして今の私達。一秒一秒、変わっていく。そんな時の流れがとても楽しい。祐介と一緒に歩んでいけることがただ、嬉しい。 触れられた唇を右手で触る。さっきの感触を思い出して顔が熱くなるけど、どうしようもないくらいの動揺はない。 私も少しだけ成長したのかな? きっと私の唇は、二人の物になったんだろうな。 「何、思ってるんだか」 自分の思ったことに照れる。やっぱりまだまだ子供だった。歩調が遅くならないように、傘をしっかりと握る。 「何か言った?」 「ううん。それよりもクリスマスプレゼント、明日の部活終わったら渡すね。お昼までだから」 「あ、うん。俺も明日は午前中だけだから、午後一緒に帰ってる間に渡すね」 祐介の問い掛けに首を振って話題をずらす。恥ずかしい思考と漏れた声は、早く雪に溶けてほしいと思った。 空を踊るように渡ってきて、傘にそらされていく雪を見ながら。 隣にいる祐介を感じながら。 明日のクリスマスは今までで最高の物になると思えた。 |