ぼんやりと、俺はここにいた。
俺の傍を通るのは春先の、まだまだ冷たい風だけだった。日光は雪解け前と比べて強くなってはいるけれど、風には影響しないらしい。
比較的広い公園。
そこのほぼ中央に位置する円形のベンチは、遊びまわる子供を見守るには最適なのだろう。実際に、公園内にある遊具の七割ほどはこの場所から見て取れた。きっと、もう少し暖かくなれば保育園や幼稚園に通ってない小さな子供を連れた母親達が、いま俺が座っている所に腰掛けながら談笑しているはずだ。
でも、今は俺一人だけ。
公園の外を通る人も数人しかいない。午前九時過ぎというのは、外を出歩くには中途半端な時間なんだろう。
世界に一人。
ふと、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
三月に入ってから、ずっとどこかから聞こえていた言葉。俺のようで俺じゃない声が、起きてるときも寝ているときも耳元で囁き続ける。
どこにも行けない。
どこにも居場所がない。
どこにも何処にも何所にもドコニモドコニモ……。
「うざい」
一言、擦れた声が聞こえた。それが自分の声だと分かるまでに時間がかかった。
どこからこんなに暗くて汚くて幸薄い声が発せられるんだろう?
腹の中に溜まった黒い泥が腐臭を放ち、声と一緒に出てくるんだろうか?
吐き出す息にゴミのような匂いが混じっている気がする。
「なにやってんだろ、俺」
そう言って隣に置いた鞄を右手で撫でる。学校と同じように、もう予備校では講義がとっくに始まっている。去年も、一昨年も同じ講義を受けた。もう三度目の講義に出るのは、思った以上に苦痛だった。
結局サボって、こんな所にいる。
高校時代からもう三度も試験に挑んでいるのに、俺の番号は大学に存在しない。
大学受験は今まで進んできた道に立ちふさがる壁だった。
三度目の浪人が決まった時、一度目の時に見せていた気楽さは両親の中から消えていた。
駄目なものを見る目。
しょうがないよ、という言葉に混じる本音――心の底から生じる諦め。
細切れになっていく期待を必死にかき集めながら、両親は俺を激励し続ける。その言葉の皮はいびつに剥がれ、本心を覗かせる。
(どうして試験に合格できないのか?)
(やってないわけではないのに……流石にもう就職を探してもらおうかしら)
悲しい。
苦しい。
何より……虚しい。
確かに俺が志望大学を目指すのに明確な理由はない。点数も足りてるし、ある程度以上のランクだから、就職に便利だろうという程度だった。
自分と同級生で大学に受かった人達は、未来にどんどん進んでいく。何になりたいか分からないと語り合った友達は、大学で生きがいを見つけたらしい。その道の教授になると最近電話で話した。
自分だけが、止まっている。
停滞している。
後ろには下がれず、前には進めず。同じ場所で壁を越えたいともがくまま。
そう思ってしまうと動くことが出来なかった。
未来に希望を、持てないから。
「こんにちは」
深く考え込んでいる内に目を閉じてしまったらしい。気づかないうちに暗くなっていた視界の外から、女の子の声が聞こえてきた。驚いたけれど動揺するのも恥ずかしいから、ゆっくりと息を吸い、目を開ける。
見えたのは高校生くらいの女の子だ。俺よりも二つ下くらいだろうか。日光の当たり具合なのか肩口まで伸びた髪は少し栗色に見える。
コートを着ない代わりに、厚手の白いタートルネックと下は藍色のロングスカート。横には毛にもっさりと覆われた小型犬が身体を震わせながら俺を見ていた。首輪から伸びた赤い紐は女の子の右掌に巻きついている。
「日向ぼっこですか?」
「陰干し」
「かげぼしってなんですか?」
答えようと思ったけれど、俺もどういうことか良く分かってない。結果的に一つため息をついて俯く。女の子の顔はそばかすが多かったが、整ったほうだろう。普通の精神状態で会った時なら可愛いな、と思ったかもしれない。でも今は俯いたまま誰とも話したくなかった。
俺が何も答えないでいると、女の子は何を思ったか俺の隣に座った。犬は俯いた俺の視界に入ってきて、見上げてくる。尻尾が止まることを忘れたかのように振り回されていた。
「学校、ずる休みですか?」
女の子には俺が何歳に見えてるんだろうか。
「浪人生。予備校サボりだよ」
答えるつもりはなかったのに、口は意思に逆らって動いている。さっきから脳と身体が分離している。
「勉強頑張ってるんですね〜。なら、少しはお休みしないと。まだ三月ですし」
「頑張ってる……のかな?」
語尾が上がったことで疑問系になる。女の子は意味が分からず、首をかしげた。当たり前だ。俺も意味が分かってない。でも口は動き続ける。
「頑張ってるなら……どうして俺はここにいるんだ? もう三年目だぞ? どうして失敗するんだ? 俺はただ……あの大学に行きたいだけなんだ。特にやりたいことが見つからなかったから、大学で見つけたいだけなんだよ。別に医学部とかじゃなくていいのに、センター試験の点数も取れないわけじゃないのに、どうして最後には俺の番号がないんだよ教えてくれよ何がいけないんだよっ!」
犬が耳障りな鳴き声で俺を叱る。何度も俺の足を引っかいたのか、ジーンズを貫いて痛みが少し脳に届いた。そこで初めて、俺は女の子の両肩を掴んで前後に揺らしていたことに気づいた。
見知らぬ女の子に八つ当たりする自分が矮小な存在に覆えて、自己嫌悪。
女の子から手を離した所で、犬は吠えるのを止めた。
掌で顔を覆って下を向く。強烈な脱力感に襲われ、このままベンチに一日中横になってもいいなと思う。もうただの石になって何も考えず、何もせず漫然と生きたい。
「頑張ってるから、そんなに取り乱すんじゃないですか?」
入ってきた声があまりに明るいから、俺は顔を上げた。
さっきと変わらない雰囲気のままに、女の子は居た。
「頑張って、結果が出ないからそんなに怒るんじゃないですか?」
「……結果が出ないなら仕方がないじゃんか」
「でも無意味じゃないですよ?」
女の子は立ち上がって、少し俺から離れる。つられて犬も俺の足の間から離れていった。
彼女の全身を視界に収められる距離。
向かいあって、その光景は絵になると思った。
ほんの十分ほど前にはオブジェとして遊具があるだけだった。
今は更に生きた人間が描かれている。生きた光景になる。そこで少しだけ、俺の中に余裕が生まれた。ふと思った疑問を問い掛ける。
「君も高校生くらいじゃないか? どうしてこんな時間にここにいる?」
「私、定時制に通ってるんですよ。だから授業は夜から。午前中は暇です」
定時制。
いろいろあって普通の学校にいけなくなった人が集まる場所。俺の高校にも定時制はあって、夜遅くになると生徒達とすれ違ったりした。この娘のような同年代は、居なかったように思う。
俺の内心が顔に浮かんでいたのか、女の子は聞かれもしないのに言葉を続けた。
「やっぱり高校は卒業したいから。あとは簿記の資格取って就職に役立てようと思って、予備校にも通ってるんです。今日は予備校もお休みなんで、こうやって散歩をしているんですよ」
……鈍器で頭を殴られたような気がした。
高校時代。定時制に通う生徒をどこかで見下していた。
仕事しながらとか、いじめで不登校だったという人が集まってくるという、自分らが住んでいる場所とは違う場所にいて、けして交わらない存在だと思っていた。
自分の進む道がスタンダードで、輝かしい未来までは行かなくても結構な良い暮らしに繋がっていくんだと、そう思っていた。
でも目の前の女の子が自分を語る姿に、かげりなんてない。
自分が進む道の先にある未来をしっかりと見つめてる。未来の幸福を掴もうとしている。
なのに、俺は――
「どうして頑張っても駄目なんだろうな」
気を抜くと涙が溢れて何も言えなくなりそうで、俺はゆっくりと言葉を発する。女の子はどう言っていいか思案していたようだったけれど、ためらいがちに言った。
「頑張っても駄目なことって……一杯あると思います」
「君にも、そういうこと、あるの?」
聞いて馬鹿な質問だと思った。そういうことがあるから、彼女は定時制に通っているのではないのか? それとも俺の偏見というだけなのか?
「ええ、ありますよ。普通の高校に通いたかったと思った事もありましたけど……でも」
女の子は一度言葉を切ってから、俺の目を真っ直ぐに見て、言った。
「頑張って今の私があるなら、それでいいやって、思うようになったんです。道はいくらでもあるとも、思ってます」
耐え切れなくなって、俺は顔を手で覆った。
* * * * *
ぼんやりと、俺はここにいた。
女の子といつ別れたのか、いつの間に歩いてきたのか分からない。
はっとして周りを見回すと、通い慣れてしまった予備校の前に立っていた。
服の下に流れる汗に嫌な感触が生まれたけれど、すぐに気にならなくなる。
少なくとも、今の自分を嫌いではなくなった。
(道はいくらでもある、か)
進む道に壁がある。
登ろうとしても壊そうとしても、向こう側にはいけなかった。だから自分はもうどこにもいけないと思っていた。
でもふと横を見てみれば、違う場所に繋がる道もあった。それに気づいた。
どんな形であれ、未来には進める。後は自分の運と実力。
だから――
「講義のレジェメもらえるかな……」
自分の不安を抑えるように呟いて、俺は予備校の自動ドアをくぐった。
まずは、もう一度だけ大学受験に挑戦してみよう。
とりあえず入ることを目指していた前三回の失敗の時とは、また違った理由で。
自分の思いに決着をつけるために。
受かったなら過去を乗り越えて、落ちてしまっても未練を断ち切って。
新しい自分を、探しに行こう。
進む方向は様々でも、道は確かに未来に向かってるだろうから。
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