バカップル

掌編ページへ



 玄関のチャイムが鳴ったのと同時に私の胸が少しだけ高鳴った。冷静に数学の問題を解いているつもりでもシャープペンの先が期待に震えるのが分かった。お姉ちゃんが黄色い声を出して一階に降りていく。私の部屋の前を軽いステップで通り抜けて。これで宅配便とかだったら面白いんだけれど。
「こんにちは」
「いらっしゃーい」
 宅配便じゃなくて、やっぱり武人(たけひと)さんだった。いよいよ私の心臓は心拍数が多くなって、目の前の数式がぐにゃぐにゃになっていく。階段を昇ってくる音が鼓動と重なって、壁の外の映像がありありと浮かんできた。人ひとりが通るので十分すぎる幅の階段をあえて二人同時に登ってくる二人。お姉ちゃんは武人さんの腕にしがみついて、武人さんはその光景に頬を赤らめ緩ませる。腕越しに伝わる感触を楽しんでいるんだろう。
「愛子」
「なーに、たけぴ」
「らぶりぃ」
「みゃー」
 あいこねこと化した姉が文字通り猫なで声で答えた。階段を登りきって私の部屋の前を通る時にはもうしがみつくレベルで腕を取っている。全体重をかけられても武人さんの身体は揺るがない。
 ああ、私の部屋の前の廊下が武人さんの足の裏の匂いを嗅いでるんだと思うと興奮してきた。うらやましい。私も床になりたい。
 お姉ちゃんが見つけてきた彼氏を一目ぼれしてから半年。付き合って半年目にようやくお宅訪問だったらしい。それまでは学校やどこかの公園でいちゃいちゃしているらしかった。二人と高校が違う私にはそこらへんが想像できなくて悔しい。
 半年経ってから、二人の逢瀬は大体お姉ちゃんの部屋と決まっていた。多分私が知らない間に武人さんの部屋にも行っているんだろうけど。そして、彼がお姉ちゃんお部屋に入るたびに、私は甘い誘惑に身体と心を任せていた。
 ドアを閉めてからすぐに、二人は私の部屋に面している壁側のベッドに座り、愛の会話を始めるんだ。いつもそれで、最後までそれ。それを壁を耳につけて聞くのが楽しみだった。
『たーけぴ』
『あーいぴ』
『なぁに?』
『そっちこそぉなに?』
『あひん! 耳舐めないでよぉ』
 相変わらず何をやってるんだこのカップルは。本で読んだ知識ならばこれはバカップルという人達か。でもあれは人目をはばからずやってる人達だからなぁ。これは盗み聞きしてる私が悪いのか。
『あ、あんっ。ちょっとぉ』
『ごめん。でもぷにっとしてて柔らかかった』
『もぉ』
 ぷにって、どこ触ったんだろ? 頬? それとも太もも? もしかして胸、なのかな。自分の胸と太ももを触ってみる。胸はブラしてるから固い、んじゃ……まさかお姉ちゃんノーブラ!?
『そろそろたけぴと付き合って一年よね』
『うん。さっきので一万回目のキスだよ』
『そんなにしたんだ! でも耳だったよ?』
『耳でも鼻でもおでこでも口でもキスはキスだよ』
『たけんう!』
 名前の途中で口をふさがれたらしい。くぐもった声にたまに唾液の音が混じってる、気がする。さすがにこの壁はそこまで音を通さない。会話が困らない程度に聞こえるだけ。それでも十分美味しい。甘い唾液が私の口内からもじゅわじゅわ出てきて飲めば美味しい。
 でも。お姉ちゃんの声に恐怖が混じったところで目が覚めた。
『たけ――え!?』
『あいぴ。ずっとこうしたかったんだ』
 どす、という音が聞こえて急に静かになる。今の体勢ってもしかして、お姉ちゃんを武人さんが押し倒しているのか。とうとう一線を越えてしまうのかな。私としては心の準備が足りないけど、小説や少女漫画で知識得てるから多分大丈夫。お姉ちゃんのあえぎ声から脳内で補完するから!
『はじゅかしぃ、よぅ。そ、それに声が隣に聞こえちゃうよお』
『大丈夫。聞こえてないよ。ねぇ?』
 最後のねぇ? はお姉ちゃんに確認するようにも、私に言ってるようにも思える。誰に言ってるんだろう。私は壁から耳を離して、向こう側にいるはずの武人さんの顔を思い浮かべる。その瞳はまっすぐこちらを見つめていて……口はお姉ちゃんの歯茎とドッキングして舐め回していた。
「うん。聞こえてないよ」
『じゃあ、分かった』
 私の言葉が聞こえたわけじゃないだろうけど、お姉ちゃんはそう言って身体を任せたらしい。また耳を壁につけるとお姉ちゃんのあえぎ声ばかりになる。敏感なのか『あんっ』とか『いやっ』とか『は、そこはや、あ』とか止めて欲しいわけじゃないのに口に出して。これも小説通り。嫌よ嫌よも好きのうち、か。
『あいこ、いい?』
『はぁはぁ、あふ? ふあ』
 お姉ちゃんは蕩けすぎて言葉が出ないみたいだ。武人さんの「いい」ってつまりそういう意味で、つまりその、入れるんだよね。男の人のあれ……あれ?
 小説にも漫画にも、ここから先は載ってなかった。必ず場面が暗転してあとはもう二人は一線越えていて……どうしよう。これから先は分からない。怖い。お姉ちゃんはどうなってしまうんだろう? 痛いとは聞いたことあるけれど、凄く痛いのかな? 泣きたくなるのかな? それでも、気持ちいいのかな?
 壁から耳を外して、漫画を探す。何か参考になるものないかな? 何か、何か! 早くしないとおねえちゃんが!
 適当に引き出した本を見ると、そこには姉の情事に聞き耳を立てる妹が載っていた。懐かしい。これを見てから私は壁に耳をつけて聞き始めたんだっけ。どんな話の内容かは覚えていない。私がそう、小学校六年の頃に読んだ話だ。
「あ、こんなことしてる場合じゃ!」
 呟くことで平静を保とうとしたけど上手くいかなかった。本は床に落ちてしまって、数ページめくれる。そこに描かれていたのは、姉の部屋に乗り込んだ妹と、彼氏の背中の上に乗ってマッサージをしている姉の姿。妹の早とちり。恥ずかしさに真っ赤になった妹が去っていくのを笑うカップルで幕を閉じる。
 なんだ。そういうことか。
 つまりお姉ちゃん達はマッサージをしてるだけで、エッチなことはしていないんだ。きっと私が聞いていることはお見通しで、私が騙されるのを面白がってる。なら、文句言いに行くしかないじゃない。
 すぐ隣の部屋に行く間、私はウキウキしていた。お姉ちゃん達は私が騙されていると思ってる。私は、そう思っていることを看破している。騙しあいに勝つというのは何か面白かった。勝者の余裕として、ちゃんと「こら! 妹がいるのに何をしてるの!」って入っていってあげよう。足音を立てないで歩いていき、ドアの前に立つ。息を大きく吸い込んで、ドアノブを掴むと同時に叫んでいた。
「こら! 妹がいるのに何してるの!」
 時が止まる。開けたままでお姉ちゃん達を見ている私と、私を見てるお姉ちゃん達。
 やけに甘い匂いがする。嗅いだことがない、でも知っている気がする匂い。
 それはベッドの上で裸になっている二人から発せられていた。
 二人は身体に汗を浮かべて、武人さんはおねえちゃんの上にかぶさっていて、それでおねえちゃんは目をとろけさせてて、たけひとさんはええとせなかにあかい線がはしってて、それはおねえちゃんの爪みたいでええとそのあのんとえーと。
「郁美(いくみ)」
 お姉ちゃんが、蕩けたまま口を開く。私は何故か、後ろ手にドアを閉めていく。
「あなたも、いっしょにしましょ?」
 ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


掌編ページへ


Copyright(c) 2007 sekiya akatsuki all rights reserved.