ベンチの上を覆う屋根から響くぱらぱらという音。七月の陽光の変わりに、粒の小さな雨粒が徐々に勢いを増して降り注ぐ。視界には細長い線が幾本も流れていて、見晴らしのいい光景を小さく過ぎていった。左を見れば竹林。前を向けば田んぼ。右を向いても田んぼ。二時間もバスと電車をはしごすればこんなところがあるなんて。都会は広い。都会とは……違うか。
バスの時刻表は、きっちり一時間に一便ずつバスの時刻が刻まれていた。並ぶ十という数字。何故か午後五時のだけ二十五分にくるらしい。腕時計を見ると四時半。あとほとんど一時間。
何で俺は、こんなところにいるんだろう。理由なんてすぐ思い出せる。特にこんな、何も遮るものがない場所だと身体の奥まで透けて見えるように感じてしまう。履いているジーンズも、その下のトランクスも、上の白地のTシャツ一枚なんて楽々と。特に中身の無い大学生なんて、元からスカスカだけれど。
音が、空間が透き通っている。
濁りない雨音が耳に届いてくる。
道行く車の音も人の歩く足音も、ここにはない。だから、近づいてくる人はすぐに分かった。傘に当たる雨音もバス停に到着までしばらくかかるというのに聞こえてきた。振り向く気は無かった。変わりに目を閉じて、この場所を濡らす雨を聞く。
「ようやく追いついた」
「……お前だったんだ」
まさかこんな辺鄙な土地で知り合いに出会うとは。目を開けると俺と同じくTシャツを着て、ジーンズをはいている女がいた。化粧ッ気も飾り気も無い女だ。髪を三つ編にしているところだけは、女に見えた。
明らかに意図して俺を探していたとしか思えない。多分、こいつの家は逆方向の電車に乗らないと駄目なはずだ。
あまり会いたくない顔だった。思い出すのは、別の顔。胸が痛む。
「うん。探してって頼まれてね。どうせなら逆方向にって来てみた。あんたの行動パターン読みやすい」
「俺の世界に入ってくるなよな」
「おれのせかい?」
しばらく話を逸らしたい。絵空事は俺の得意分野、なのか? まあ、さっきも音が透き通るとか詩的なことが言えたから何とかなるだろう。
「ここは俺の世界なんだよ。俺の結界。雨を降らせる……梅雨結界の中なのさ。だからここには雨しかない」
言っている意味が自分でも分からない。でも、分かる部分もある。
ここには雨しかない。雨が降っている。ただそれだけの事実があった。竹林にそって道路があるのに車も人もいない。本当に周りから切り離されたような、結界に囲まれた場所。その中心に俺がいる。身体の奥から放たれた力は、六十億人くらいいるはずの地球上から俺の周囲数十メートルだけ切り取った。雨のリズムを刻む結界で。
彼女はそこに侵入できたただ一人ということになる。
「そういや、お前どうやってきたの?」
タクシーとだけ答えて、彼女は俺の前に立つ。待合所の屋根の下には入らないで、傘に音を鳴らし続けている。規則正しい音が心地いい。
「なんで降らしてるの? 結界なんて作って」
「そりゃお前。俺が雨好きなの知ってるだろ?」
「いや、初耳」
「そ」
確かに初耳だろう。俺もだ。相変わらずのでたらめ。でもこの状況に不快指数が高まらないのは、案外好きだからだろう。座っているだけで汗が柔らかく出てきた。赤ん坊の手をそっと握るように優しく、シャツが濡れていく。ジーンズの中身が蒸れていく。
「それに、お前も雨好きだろ?」
「良く知ってたわね。言った覚えないわよ」
「ああ。初耳」
「そ」
あてずっぽうが当たってしまうことと同じように気まずいことは少ない。こいつの行動が分かった。ベンチに座らず、傘の下で雨を防いでいるのは、やっぱり雨音を聞きたかったからなんだろう。でも、その均衡は彼女から崩れた。傘をたたんで隣に座り、雫を前に飛ばしながら呟く。
「雨の止み方って知ってる?」
「止み方?」
そ、とまた小さく呟いて、黙る。分からない。俺はどうやってこの雨を降らせているんだろう。プチ傷心旅行に来たんだから、この心の疼きが収まれば止むんだろうか。
生い茂った竹林が全て人にすり替わってるような場所で待ちぼうけくわされて、帰ろうとしたところで大学の友人とデートしている、元……恋人を見かけた時の疼きを忘れることが出来れば。
「止み方なんて簡単だよ」
彼女が言った瞬間にバスが停留所へと入ってきた。雨を貫いてやってきたバスが目の前をUターンして、出発準備が整えられる。その前に開いたドアからは、誰も降りてこなかった。
「あんたが結界を止めて帰ればいいだけ」
急に手を引かれて、立たざるを得なかった。そのままバスに乗せられて、一番後ろの三人座れるようになっている椅子に座らされる。窓際に押し付けられて、いやがおうにも外が見える。逃げようにも彼女が隣にいて動けない。痛いと思ったら腕をキメられていた。ミシミシと音が聞こえそうだ。
動くことを諦めて外をじっくり見てみれば、遠くの雲間からは光が差していた。天使の梯子だっけ? 雨が降っているのはここで。似たような空でもああして雨が止んでいる。
あとは、俺が結界を止めるだけ。そういうこと、なのかもしれない。
「あと二十五分あるってさ」
キメられていた腕の痛みが引く。いつの間にか彼女は俺から離れて普通に座っていた。時計を見る。午後五時。あと二十五分。バスの屋根を叩く雨音も最後の抵抗なのか多少強めに当たっていた。自分達の時間が終わることが悲しいのか。
俺の涙ってことに、なるのかな。
でもそんな雨も消える。俺の梅雨結界も終わる。
「そういや、なんでお前ここに来たの?」
「だから頼まれたって言ったでしょ。あんたの彼女さんに」
「……元だよ」
また雨が強くなりそうだったけれど、彼女は更に言う。
「元じゃないって。思い切りデートの約束忘れて大学の友達……あんたの友達と遊んでたんだってさ。それについては思い切り叱ってやりなさい」
「それだけ?」
「それだけ」
ぼーっと外を見る。濡れたガラス越しに見える歪んだ世界。一瞬だけ降り注いだ雨はもう気を張ることも無く田んぼへと水分を供給していた。
バスのエンジンがかかり、雨音が掻き消える。気づけば時刻は二十五分。
空からは天使の梯子が降りていた。
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