新しい世界へ

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 初夏の空気というのは、苦手だった。
 特に、今日のように前日から降り続いていた雨がようやく止んだような日は。
 部屋の湿度計は見るのも嫌だ。入った瞬間の体感を信じるならば、六十とか七十パーセントまで行っているだろう。気温は二十四度と夏としてはまだまだ低いんだけれど、身体はもう汗が肌を濡らしている。
「暑い」
 呟いて、窓を勢いよく開いた。風は周囲のそれとは違って涼しい。窓と同時にドアもしっかりと開いて、部屋を風が通り抜けていく。
 堆積していた生暖かい空気が押し流されていく。見えない流れが目の前を通り過ぎていく。
 そんな錯覚が静かに視界へと浮かぶ、空気が流れる音が満ちる空間がとても心地よかった。
「一日も終わりかぁ」
 呟いて冷蔵庫からビールを取り出すと床に座った。
 こうした独り言が多くなったのはいつからだったろう?
 多分就職して一人、このマンションの一室に越してきた頃からだとは思うんだけれど記憶が定かじゃない。
 どちらかと言えば田舎だろう地元を離れて。
 どちらかと言えば都会だろう土地に来て、すでに三ヶ月。
 それでも、振り返ればすぐ後ろは大学の卒業式の時のような気がする。
 友達と一緒に写真に収まってお酒を思い切り飲んで眠って、そして今日を迎えたのような気がする。
 軽い……ホームシックなのかな? 暗い部屋の中心で、私は膝を抱える。
 明かりをつけると外から部屋の中が見えるからカーテンを閉めないといけない。でもそれだと風になびいて邪魔だから、明かりをつけないままで私は外を見る。俯いたところから、ゆっくりと。
 視界に広がるのはいくつものビル。何かの店舗が入っているものと、人が休息を過ごしている部屋がある。私が危惧したように、カーテンが掛かっていない部屋には人々がちゃんと見えた。家族の団欒。恋人同士の絡み合い。
 共通するのは人との触れ合い。
 共通しないのは、私だ。私だけが、一人。
 お尻をつけたままずりずりと移動して、反対側の壁に背中をつける。だらりと足を伸ばすと一気に身体に脱力感が広がっていった。スーツが皺になるけれど、明日は日曜だしいいか。
「日曜、かぁ」
 呟いてみる。少しだけ違和感。何かあったような気がするけれど思い出せなかった。学生として友達とはしゃいでいた時は、もっと記憶を手繰り寄せることが上手かった気がするのに。
 今の自分と、昔の自分。重なりそうで重ならない姿。
 そんな言葉が脳裏を過ぎったところで、私は私を惑わせていた違和感に気づく。

 ――今、目の前に広がっている景色を、私は知らない。

 ほんの数ヶ月前までは、全てとは言わないけど知っている世界にいた。
 知っている人がいて。
 横道にそれるとぽつんとあるデートスポットがあって、たまにカップルがキスしていたりして。
 牛丼屋の店員さんが中学から通算六年も経つのにかっこよさが変わらないから『魔人』とか友達と密かに呼び合ったりして。
 遊園地で八月に行われる花火大会では百発連続弾が見ものだったりして。
 秋に音楽堂から響くメロディや、冬に大きな雪象が立つ公園。
 地元と言う世界は私の手の中にあった。
 でも、この街で私はどこにいるのだろう? この部屋から会社へと進む道は覚えた。その合間にあるコンビニや、そこで売っている菓子パンやおにぎりやお弁当の何が美味しいのかも分かる。
 美容院は先輩に良い場所を教えてもらった。少し高いけれど気に入った髪型にしてくれて、気さくなお姉さんが滑らかなトークを耳の奥へ届けてくれる。
 でも、それは二キロほどの範囲内にある世界。会社と私の部屋を繋ぐ線上に点在する場所。
 私が今見ている外の光景は、その世界の範囲外だった。いつも朝起きてカーテンを開いた時に見ているはずなのに、初めてそこに現れたような新鮮さを感じて胸が苦しい。
「ホームシックみたいね、本当」
 胸が締め付けられる。意識が全部涙腺に集まって、涙と一緒に出て行くみたいだ。
 痛みが、増していく。
 潤みが、増えていく。
 でも胸は破裂しないし涙も出ない。
 大学の、高校の、中学の、そして小学生の自分に遡る。
 過去の自分は悲しい時に泣いていた。嬉しい時も悔しい時も寂しい時も目からは思いが溢れていた。
 時には友達と共に。失恋した時は一人、部屋で。常に感情と共に私の涙は塞き止められることなく流れてきた。
 なら、今の私を塞き止めているのは何なんだろう?
 簡単だ。私が大人になったからだ。感情をコントロールできるようになったんだ。
 悲しさや寂しさに潰れてしまうほど私は弱くなくなった。悔しがろうにも世の中が自分の手が届かない広さだということは、もう理解している。
 だから感動したり悲しかったりはあるけれど、泣けはしないのだ。寂しいけれど……仕方がないのかもしれない。
 ぼん、ぼぼん、ぼん。
 空気を震え、次には視界に火の華が広がった。最初は何なのか分からなかったけれど、すぐに花火なのだと気づく。はるか遠くに何かあるのか、次々と花火が打ちあがっていた。
 そんなイベントがあるなんて知らなかった。日付は六月だし、花火大会なら八月の気もする。
 でも事実、こうして空に華が咲いているし、その光景はとても綺麗だった。
「あ、そうか……」
 花火というのは、どこでも同じだった。遠く離れた地元のそれと、同じ。打ちあがるタイミングや咲く花は違うのだろうけど、私にとってはその違いなんて分からない。黒い空を彩る様々な色は、打ちあがる場所から離れた私の顔も照らしているんだろう。

 その明かりは、私の手が届く世界からきたんだ。

 そう気づいた瞬間、視界がぶれる。胸が痛んで両手で掴むと、自然に体が前に倒れて、雫が落ちていくのが見えた。どこ、から?
 決まっている。私の瞳からだ。さっき、仕方が無いと諦めた涙が急にやってきた。大人になったことで乾きかけていたものが甦ってきたように。
 違う。違う違う違う! そんなものじゃない。
 結局は、私は変わっていないんだ。大人になったとかそうじゃないとか。そんなんじゃない。
 地元から離れただけで過去と切れたと思っていた。自分の知らない世界に入ったことで、また一から全てを積み上げていかなければいけないと。
 でも、日本は陸続きで。私と言う人間も、続いてる。生まれた時から今まで、場所が変わっても過去と切れることはないんだ。友達と笑いあったり泣いたりしたことも、一人で枕を濡らしたことも、全て私だし、どんなに大人になっても変わらないものもある。
 だから今、泣いている。また一つ新しい世界を見たから。過去と重なるその場所を、見たから。
 ぶるるぶる、とバッグに入れていた携帯が鳴る。涙を拭きながら取り出すと、メールが届いていた。開いて見つけるのは懐かしい名前。高校時代に一緒にいた友達。
『誕生日おめでとうー』
 文面を読んで、最初は理解できなかった。誕生日? 誰の?
 ……私のだ。
 外の景色を見た瞬間に得た違和感。てっきり知らない光景を見たということへの物だと思っていた。
 携帯の日付表示は確かに私の誕生日を指している。ここでは誰も祝ってくれない。そもそも私も言ってないし、気づきもしなかった。それくらい、怒涛の三ヶ月間だったと思う。新社会人としての日々は。
「ありがとう……」
 再び濡れ始めた視界を左手で拭きながら、返信の文面を打ち始めた。
 二十三歳の私。また一つ歳を取り、新しい一年が始まる。
 変わっていくものも変わらないものも、一つ一つ大事にしていこう。

 ぽん、ぽぽぽん。

 盛大な花火が鳴り続ける。二十三度目の夏をどう過ごそうか? 地元に帰ったら友達と会おうかな?
 胸に広がる未来への期待が、私を暖かく包んでいった。


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