『明日へ』


 玄関のドアを開けると、見慣れた靴がきちんと揃えて置かれていた。自分で用意したわけじゃない二足のスリッパのうち一組がないし、来客は分かりきっていた。放っておこうか、と感じたのは今の自分があまりに情けなくて、誰とも顔をあわせたくないと思っていたからだ。気持ちも、顔も情けないままで他人に合わす顔なんてない。でもマンションの一室に顔を合わさなくてもいいようなスペースなんてトイレくらいしかなかった。
 出て行くのも気が引ける。何しろ、直後なのだから外に出て行った瞬間に鉢合わせということになりかねない。最悪な別れの後に最悪の顔を見られるのはまさに最悪だ。でも、覚悟を決めるしかない。
 一つ、諦めの境地でスリッパを履く。つま先を包むスリッパ。俺の感情とかも一緒に包み込んで外から見ても分からないようにして欲しい。
 そうやって不安に思いながらだったから、部屋の中にも誰もいなかった時は肩透かしをくらっていた。
「どこにいった?」
 思わず呟くと小さな唸り声……苦痛のではなくて、寝ぼけたような声が聞こえてきた。居間として使っている部屋の隣、布団が敷いてある部屋からだった。今は出掛けにそうしたように、仕切りによって隔てられている。今と繋がっている台所の上には邪魔だからと床に置いてあった炊飯器。そこで、ようやくこの部屋が掃除されていることに気づいた。きっと、さっきまで掃除機をかけてくれていたんだろう。そう思うと感謝の気持ちと情けない気持ちが交じり合って奇妙な感じがする。
 仕切りをゆっくり開けると、こんもりとした布団が迎えてくれた。身体全てが覆われているから頭のてっぺんが少し覗いている。仕切りを閉じるとカーテンの隙間から差し込む月明かりだけだ。
 薄暗い方が、心は穏やかになった。
 さっきまでささくれ立っていた心。部屋に帰ってきて、いつもの光景を目にする。それだけで、落ち着いていく自分は楽天家なんだろうか。
「なぁ、友里。起きろよ」
 布団を少し捲ってみると、こちらを向いて寝ている顔が視界に飛びこんできた。肩までの栗色の紙や閉じた瞳からすらっと出ているまつげ。少し開いた口元など高瀬を構成する要素が可愛くて、心臓が高鳴る。もし彼女なら、このままキスなどしてやるんだけれど。
 甘く幼い声がかすかに口から漏れた。顔にかかっていた布団がなくなったことで変化を感じ取ったんだろう。自分の中の照れをぼかすために、あえて荒々しく揺さぶる。
「お前な……変な気持ちになるぞ」
「ぅえ?」
 ようやく目が覚めたらしい。何度か瞬きをしてから友里は俺を見る。ゆっくりと身体を起こすと、上半身を思い切り伸ばして唸った。一オクターブくらい高い音で。
「ふぅ。おかえり、裕一」
「なんていうか、彼氏でもない部屋に良くすんなりは入れるよなと思っていたんだけれど……寝るまでいくとは」
「そう?」
 友里は特に悪びれもなく首をかしげて問い返す。一つ一つのしぐさに、茜とはまた違った女らしさが感じられた。
「何かあった?」
 友里の問に答える前に、顔を両手で挟まれて押さえつけられる。覗き込んでくる瞳と俺の視線が重なる。暗いから分からないだろうと思ったが、まとってる雰囲気は逆に鋭く伝わるらしい。
 そして、友里は見た。俺の涙でくぼんだ両目を。熱を持った頬を。
 視線に耐え切れなくて身体ごと外れた俺に気づくと、彼女はすぐ俺の背中に回りこんだ。今までに何度かされていたから予想はついている。でも今日は何となくそうされたくない気持ちがあった。それでも、動けない。
「どうしたの?」
 背中に感じる胸のふくらみ。前に回される両手はそっと俺を包み込んだ。顔を右に向けるとすぐ、友里の顔がある。少しだけ目が細められ、俺を抱きしめることの気持ちよさとそうさせる俺への心配が混ざっている不思議な瞳。
 何度も、こうして温もりを貰ってきたけれど、もしかしたらこれがいけなかったのかもしれない。
「茜にふられた」
 それまで柔らかかった友里が、一瞬硬直する。俺の心の中の声が聞こえたのか、自分の親友と俺の結末に驚いたのか。いつもならそのまま優しさだけが生まれるこの時間に、緊張と焦燥が混じる。
「私のせい、なのかな?」
 出来るだけ気軽に聞こうとしているのが分かって、逆に胸が痛くなった。幼馴染の友里の存在が、茜との付き合いに邪魔だと思ったことは俺にはない。でも、茜にはどうだったのかと言われると、分からないし聞けもしなかった。
 彼女を超えたところに、友里はいる。でも口で説明しても俺達二人の間に流れている空気は、なかなか理解してはもらえない。中学や高校でも冷やかされはしたけど、とうとう恋愛感情を抱かないまま大学まで来た。近すぎる存在というのは恋愛までいかないということを、他人に理解させるのは至難の業だった。
 でも友里の親友である茜は、理解していた。少なくとも、分かってるという言葉と行動で示していた。
「違うよ。俺と茜も合わなくなってたんだ……小さな事で喧嘩するようにもなってたし」
「でも、私がいたから」
「そうじゃないって」
『あんたは友里がいればいいんでしょ!』
 頭に残ってる、茜が最後に吐き捨てていった言葉。それを本心からの物とは思えない。別れる原因がこれまでのすれ違いから生まれたことは明らかだったし、茜もそれは承知していた。やりきれなさと、俺への怒りが形になってあんな言葉になって出てきたんだろう。
 でも、だからこそ。
 自分がそう言わせてしまったことが許せなかった。親友だった二人が、これから先に同じように親友でいられるのか。二人の友情が壊れることになったら、それはやはり俺のせいだろう。そのことが、何より辛かった。
「友里のせいじゃない。それだけは確かだ。お前の親友と俺を信じろよ」
 上辺だけじゃない、本心から出た言葉だった。勢いだとしても、絶対、茜は友里に恨みがあって言ったわけじゃないと、俺も信じたかった。
「いつもと逆かもね」
 耳に当たる息は、かすかな笑い声を運んできた。肩にあった友里の顔が離れて、少し身体を下げて背中につく。いつもよりも少しだけ強い力で締められる胴。その手に、俺の手を重ねる。
「たまには、俺にも頼ってくれよ。いつも情けないけどさ」
「情けなくなんかないよ。ただ、真面目すぎるんだよ、裕一は」
 一つ、深く、ため息。
 時間は過ぎて夜は深くなっていったけれど、雲がないからか月明かりはより強くカーテンの隙間を抜けてくる。窓枠を割る俺達の影。一つに重なる二人の影。秋初めの夜はそれまでの夜とは違って、涼しく静謐な空気を漂わせていた。
「裕一の体温、暖かい」
「……そりゃあ、まあ」
「ねぇ、知ってる?」
「何?」
「裕一が元気ない時にこうして抱きしめる理由」
「……俺が子供だからじゃ」
「違うよ。暖かいから」
「なんだそりゃ」
「……暖かいから。どれだけ落ち込んでても、元気がなくても、裕一は変わらないんだってことを感じるの。それで、私も元気が出るわけ」
「俺が元気ないとお前も元気がなくなるって言うことか」
「当たり前じゃない。昔から一緒にいるんだから。半身みたいなものだよ、きっと。私達は」
 友里の言葉。顔が背中に当てられていることでくぐもった声。心地よい振動。
 いっそ友里に恋心を抱けば楽なのに。でも、友里はけして俺にその感情を抱かないだろう。抱くとすれば、今までのどこかで道が変わっているはずだ。何よりも、茜との間に起こったような別れを、友里と味わいたくはない。結局、最も大事な人だから、逆に恋愛感情を抱くことが出来ないのだろう。
 このままじゃ駄目なのは分かってる。失恋の痛みがあっても、明日はまだ大学で講義に出なければいけない。時間は止まってくれない。やらなければいけないことは、間断無く押し寄せてくるんだ。でも、今は友里の体温と、この部屋の静かな包まれていたい。立ち上がろうとする気持ちがまた生まれるまで。支えてくれる人と共に。
 友里の体温が、心にまで染み入って来る。少しだけ……ほんの少しだけ、幼馴染の壁を取りたくなった。
「ゆう――」
 くぅ。
 抱きしめられた状態でひねった身体と時が、止まった。
 次に来るのは背中からの微笑。友里が、俺の腹の音に笑ってる。
「は……はははは」
 場所と時を選ばない腹の虫に恥ずかしさや怒りが込み上げてくる。でも、すぐに気が抜けた。あまりに馬鹿だったから。
 今浮かんだらしくない思いも消えていく。
 どんなに落ち込んでいても時間は止まらない。
 腹が減れば、腹が鳴る。それだけだ。でも、その当たり前のことが、きっと俺を戻してくれるんだろう。
「作ってあった、ちらし寿司食べる?」
「なんて物作ってるんだよ……でもお願いします」
「了解」
 ゆっくりと、名残惜しそうに離れる友里の手。引きとめようと思ったことも一瞬で、結局手を取らなかった。
 止まっていた空気が、動き出す。
「はい」
 起き上がろうとした俺に差し出される手。さっきは引き止めなかったその手を、あっさりと握る。ぬくもりは十分に伝わってきた。
「行こう」
「行こうか」
 重なる言葉。重なる笑み。
 そして、俺はまた動き出す。




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